畔田翠山、を知っているだろうか。くろだ・すいざん、と読む。
ほとんど無名、知っている人は江戸時代の学者マニア(笑)。
畔田翠山は、江戸後期の紀州藩の藩士だ。1792年和歌山生れ。名は伴存。通常は十兵衛と呼ばれる。重兵衛とも記す。号は翠山。別に翠嶽、翠嶺軒、あるいは紫藤園といった号も使っていた。
翠山の職は御広敷添番。庭仕事の担当である。ただし藩の庭では、薬草を扱う本草局もある。つまり医学に通じる科学部局だったのだろう。
正直、藩士としては軽禄で、そんなに位の高い武士ではなかったが、当時の藩主・徳川治寶に愛されていたらしい。またパトロンもいたらしい。
実際、全国を歩いているし、山野を歩いて植物の研究をしている。彼は、山に入ると何日も帰って来ず、天狗のようだと言われたらしいからチョー健脚だったらしい。
しかも江戸時代の藩の庭仕事職と言えば、「御庭番」。紀州藩から将軍になった徳川吉宗は、御庭番を連れて江戸に行った。そして彼らの仕事は……スパイ(笑)。いわゆる隠密、忍者である。当時、幕府の忍者集団は、御庭番という役職だった。庭仕事の職人を装っていたのである。
だから、翠山も隠密だったのかもしれない。
ま、詳しいことはリンク先を読んでいただくとして。
私は、畔田翠山の謎の生涯を追っていたことがある。探検家として。最後の本草学者として。日本の博物学者であり、日本独自の生態学的発想の先駆者として。動植物の生育環境が記されているところがあるので、分布と植生がわかるのだ。
そして訪ねたのが和歌山県本宮町のお墓。彼は、この地で客死したのである。
苦労した~。記されていた集落を訪れても墓地が見つからない。ようやく出会った人に聞くと、個人宅の裏であった。他人の家の軒下を抜けて家の裏手に回らないと、墓地を訪れられないのだ。そして、数ある古い墓石の中から彼の名前を探し出す。
かろうじて墓石の裏に「畔田十兵衛」の文字が。よくぞ、残っていたなあ。。。。
彼の家は、明治維新で没落して、息子が父の書物や財産を売り飛ばした。そのため彼の業績が伝わらず、ほとんど謎の人になってしまったのだ。それを拾い集めて翠山の実像に迫りたい……。
ちなみに和歌山市内にも墓はある。
明治時代になって、翠山の学者としての再発見があり、叙勲位が授与されて碑が建てられたらしい。南方熊楠が彼に注目していたとも言われる。
この碑には、畔田翠山の業績が記されている。
今は、ウィキペディアにも記載があるようだ。私が調べた頃は、まったく検索に引っかからなかった。多少は知名度を上げたか。とはいえ、いまだに謎の人である。
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