先日、東京からフリーライターが私の取材に来た。土倉庄三郎についての記事を執筆することになったのだそうだ。
土倉翁を紹介してくれるのは嬉しいことなのだが、彼も明治から大正~昭和初期の某人物を追いかけて出版予定があるという。その参考資料に拙著『森と近代日本を動かした男』が入っているらしい。
となると、単に同業者というだけでなく親近感がわいて、話はどんどん脱線していく。
その人物を追いかけて内モンゴルまで出かけたというし、背景の明治社会についても意見交換して盛り上がる。そのほかの仕事のことでもお互いいろいろ内輪話をする。結構、やばい話も聞いた。彼は、わりと有名人のゴーストもやっていたそうだ……(~_~;)。
そんなわけで意気投合し、彼は奈良に泊まるというのでその晩一緒に飲みに出かけたのである(^o^)。
いやあ、結構飲みましたね。居酒屋からバーまで行って、ジンのウンチク垂れて(私が)。ああ、ウンチクオヤジになってしまった。
ただ話題の中心となるのは、やはり仕事、つまり執筆のことなのだ。なかでも取材である。何が大変って、取材先のOKを取り付けることに苦労することもさることながら……もっとも悩み深きは取材経費の調達である。
今、出版界はどんどん経費削減に動いている。企画を出してOKが出たら経費もらって取材して記事を書いて原稿料もらって、出版して印税もらう……というサイクルがなかなか働かなくなっている。書いたら掲載するよ、出版するよ……という状態だ。しかしこれが厳しい。
ここで一応説明しておくと、自分のテーマを持っているライターは、とにかく書きたいという気持ちが強い。その際に求めるのは、何より取材経費なのである。思い存分取材したい。ネタを集めたい。ところが取材すればするほど身銭を切ることになると、どんどん気分がしぼんでいく。思い残すことなく取材ができない。よほど金に不自由しない身分で執筆活動が余技である場合でないと、満足するまで取材をしまくることはできない。
ここでは原稿料と取材経費は別物だ。
原稿料は高いことにこしたことはないが、純然たる報酬である。ところが取材経費は実費だ。もし原稿料が経費込みとなると、ちょっと意味合いが変わってくる。取材の手を抜いた方が手取りが増えることになるからだ。それが取材の心理的ブレーキになる。5か所取材して書きたいところを3か所にして、いや2か所でいいや……という気分にもなる。(電話取材だけ、いや資料起こしで取材せずに書くライターもいる。)
ま、私なんかも、足を運ぶよりは経費のかかりにくい文献渉猟の比重が増えてきたけどね。それはテーマにも寄る。『森と日本人の1500年』は歴史的な要素が強いから、否応なしに文献に頼るが、『樹木葬という選択』はとにかく現場を訪ねることに意味があり、全国を自腹で飛び回った。
ちなみに彼はなかなか凄腕で、上手く出版社から取材経費を引っ張りだしているようだ。
それでも、愚痴は出る。でも、何が書きたいか。(取材対象の)どこが魅力か。いかに肉薄するか。失敗談あり成功の喜びあり。そして、どうやったらこの世界を生き残れるか。話しているとわくわくするのである。
考えてみれば、私の身近に同業者は少なく、とくにフリーでルポルタージュを手がけるライターにほとんど出会わない。貴重な出会いになったのである。
というわけで、痛飲しました。この飲み代の経費は、彼が編集部から出させるというので、私も心置きなく飲めたのでした(笑)。
コメント