無料ブログはココログ

本の紹介

« EPAとCLT | トップページ | 分厚い本と未知の動物 »

2017/01/17

土倉翁、晩年の言葉

今朝は、なぜか暗いうちに目が覚めた。

昨夜、就寝したのはそんなに早くてはないし、なぜこんな時間に……?と布団から出ずにジリジリと過ごし、二度寝を試みる。
 
結局、うとうとしただけで十分に寝つけず起き出したのだが……今思えば、目が覚めたのは午前6時前、阪神淡路大震災の発生時刻に近かったのではないか。
 
関西に住む(ある年代以上の)者として、実は東日本大震災より大きな衝撃を受けたのが22年前の、あの震災だ。昨日の次に今日、今日の次に明日が連続しているという漠然とした戦後観をひっくり返した日だった。
 
 
さて。今朝最初にパソコンを立ち上げて受信したメールには、土倉庄三郎に関して新たに発見された資料が添付されていた。川上村の森と水の源流館から送られてきたものである。
 
それは、昭和43年に川上村高原で92歳だった岩井倉次郎に聞き取りをした記録なのだが、その中に土倉庄三郎に直接会って会話した内容があったというのだ。
会ったのは青年の時というが、庄三郎の晩年というから30代だろう。話の内容から、すでに土倉家が逼塞していたとわかる。それが貴重なのだ。自分の若い頃を振り返ったり、現状を語ったりしている。土倉家が山林の大半を失ってからの庄三郎の生の声を記録した資料はほかにない。(伝聞ばかり。)
 
この資料、『森と近代日本を動かした男 山林王・土倉庄三郎の生涯』(『樹喜王 土倉庄三郎』)を執筆の際に得ていたら、描き方が変わったなあ、と嘆息する。
 
その中でも私が引っかかったのは、「わしは一代で儲けさしてもろたが」という言葉があることだ。そして小さいときは雑炊を食べていたのだと。そこから財を成したと語っている。
 
一般に土倉家は、庄三郎の父・庄右衛門の代に大山林主になったとされている。実際、庄右衛門時代の土倉家も川上郷では名家であり財産家であったはずだ。
 
しかし子供の時は雑炊炊いて食べていたというのだから、かなり厳しい教育を受けたのではないか。決して贅沢はさせてもらえなかったのだろう。使用人と一緒の待遇で山仕事を修業していたのではあるまいか。
そして、それは家督を継いでからも続けていたようだ。官林(おそらく大杉谷)から材を出す際は、自らイモの皮剥いていたという。
 
同時に、庄右衛門の代と庄三郎の代とでは、財産の額が違っていた。庄三郎は、自分一代で巨額の財産を稼いだと認識していたのだ。
 
ただ所有していた山林面積がとくに膨らんだわけではないはずだ。やはり明治に入って、流通網を整備したり吉野材を宣伝することで木材価格を上げ、財を築いたのである。
 
明治時代の林業経済が、わずかな証言から浮き上がる。
 
そして、「あんじょう(財産は)無いようになってしもた」と語ったという。どんなに財産を築いても、時代の波に飲まれたら消えてしまうことを自嘲的に言ったのか。直接的には長男の事業の失敗が原因だが、庄三郎はそれも運命と捉えていたのかもしれない。
 
P7100050
 
土倉翁、最晩年の写真。

« EPAとCLT | トップページ | 分厚い本と未知の動物 »

土倉庄三郎」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/36391/64776714

この記事へのトラックバック一覧です: 土倉翁、晩年の言葉:

« EPAとCLT | トップページ | 分厚い本と未知の動物 »

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

森と林業と田舎