今日は、2017年7月18日。つまり土倉庄三郎の忌日(1917年7月19日)より100年を迎えようとしている。
没後100年その日を前に、100年前の庄三郎の様子を描いてみよう。
もともと庄三郎は壮年時の飲酒のため胃腸を悪くしていて、終生悩まされていたらしい。それでも晩年は酒を絶って体調を維持していた。日々の食事の中には、牛乳と鶏卵が入っているところは、一般人とは違うところだろう。
大正5年(1916年)からは、旅に出ず、山の案内も自分ではしなくなり、老いが深まったらしい。
翌大正6年7月2日に、軽微な腹痛と身体のだるさと訴え、主治医の川本恂蔵を呼ぶ。川本は三女・糸の配偶者で同志社病院の副院長だったという。
徐々に回復して、6日7日に回復の兆しがあった。しかし、再び容体は悪化する。
13日に、四女・小糸の配偶者・佐伯理一郎(同志社病院院長等)も往診。面会謝絶となる。親族にも内報して急ぎ集めた。
京都医科大の島薗博士の診察も受ける。
この頃か、もう回復は難しいと自覚するや、むしろ心は落ち着き安泰となり、静かに念仏を唱えた。時に枕元の人々に、宗教の大切さを説き、子供孫らに「極楽への旅立ちはむしろ歓喜すべきなり」と逆に諫めたという。
19日、正午に松浦博士の来診。注射によってわずかに意識をつなぐ状態となる。
午後4時50分、息子娘・孫ら近親者に見守られ逝く。
病名は、髄性肝臓ガン。末期の苦しみもなく穏やかに息を引き取ったそうである。
五男・五郎の句が残されている。
雲の峰父は佛となり給まふ
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