川上村の「割滝」調査を行った。
と言ってもわかりにくいだろう。割滝とは、村内大滝集落前の吉野川の流路を掘削して筏を流せるようにした人工的な水路を指す。
これは、Googleマップ。吉野川は右下から左上へと流れているが、白い波がたっている水路の上の岸辺沿いにまっすぐな水路が見えるだろう。これが割滝だ。現在は、通常水は流れていない。ダムが放水するなど水位が上がった時には流れる。
この開削を主導したのは、土倉家、とくに土倉庄三郎である。
江戸時代から吉野川に丸太を流して木材の搬出をしていたが、一本ずつ流す(管流し)ではなく筏に組んで流せるように、徐々に下流から上流へと河川改修を進めていた。これによって輸送力が大きく変わる。とくに大滝より上流から筏で流せるかどうかは大きなポイントだった。
土倉庄三郎は、明治5年に川上郷水陸海路会所を設立している。水路整備、つまり川の浚渫や開削を行う会社である。そして川上郷のより上流まで川幅を拡げる工事を行った。
割滝も、その際により広く開削したのだろう。当時はダイナマイトもなく、ノミで削るほか、岩の上で長時間焚き火をして岩を割ったと伝わる。
戦前の絵はがきより。なかなか勇壮な筏下りシーンである。
これまで存在自体はよく知られていたが、対岸ゆえにわざわざ調べた人はいなかったらしい。それを調査したのである。おそらく筏流しが消えて数十年、眼前に見た人も少ないに違いない。また大滝ダムができてからは水質も悪くなって、川で泳ぐ人もいなくなった。
間近に見ると、こんな感じ。これは下流側。これだけUの字型に掘削している。
計測調査中。
結果として、長さ約88メートル。幅は3~5メートル1深さは1~1・8メートルだった。これも、いつか精密な測量をすべきだね。

概念図。ちゃんとした測量図ではありません。
ただ調査では、削岩機で穴を開けた跡があり、おそらく昭和に入ってからも拡張を行ったのではないかと思われる。どこまで庄三郎の手のつけた部分なのか区別できなかった。文献調査なども加えて、いつの時代にどんな工事を行ったのか調べるべきだろう。
ちゃんと調べたら、森林学会、土木学会等に発表できるんじゃないか?
今回は、その触りということで。
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