先日、現代林業の苦境というか問題点を話しているときに、
「せめて吉野林業ぐらいは元気じゃないんですか」と聞かれた。やはり吉野林業は日本の林業の最高峰。材価も高いし、積み重ねた歴史から苦境に対処しているのでは……と思われたらしい。
残念ながら、反対だ(~_~;)。だって、吉野林業は今の林業の真逆の路線をこれまで歩んできたのだから。
質を追求し、量は出せず、コストも値段も高い。これって、質より量、低コスト化を進めて安価で売っていく道を強力(強引?)に押し進めている現在の林業政策と正反対ではないか。実際にも、大半の林業地とは別の道だから、ガラパゴス感が強い。
だったら吉野も量を追求し、低コスト林業をめざすべきか……。否。
いつも現代の吉野林業の悪口を言っている私(~_~;)は、最近になって吉野の路線こそ将来の林業に相応しいのではないか、と思い直している。そして、また吉野林業がリードする時代が来るのではないか、とさえ考え出した。ま、肝心の「将来」がいつなのか、それが難しいのだが。
それは黙っていてもそんな時代が来るというのではなく、そちらの方向に誘導すべき、努力すべきという意味でもある。
なぜなら、木材需要が先細りの中、量を追求するとさらなる価格の下落を招くから。だから少量でも利益が出る林業をめざさないと先がない。利益率を上げて少量でも純益を増やせる木材とは、材質を売り物にしなくてはならないだろう。
以前から強調していることだが、木材はもはや機能を売り物にすべきてはなく、官能を前面に出すべきだ。機能を無視しろというわけではないが、強度とか耐久性、耐火性……などは木材改質や、非木質素材の組み合わせでカバーできる。
だから木材は見た目が9割、いや9割5分くらいではないか。
見映えのよい木とは、ようするに銘木だ。銘木とは、一目で素敵と思わせる感覚を呼び起こす官能的な木である。
もちろん、天然木の自然に出来た杢などの銘木は、つくろうと思ってつくれるわけでなく、希少性が高い。だが四方無地、絞り丸太のように人工的に作り出せる銘木もあるだろう。
一方で、昔ながらの絞り丸太や四方無地がさほど売れるわけではない。こちらも先細り。
そこで今風の銘木を見つけ出さなくてはならない。木目や節の曲線の美しさを魅せるとか、木取りの技術で杢を浮かび上がらせるとか……新しい美意識と発想も必要となる。
つまり加工技術や最終商品と密接に結びつき、現代の銘木を生み出すことが吉野林業、ひいては日本林業の活路にならないか……。
そんなことを考えてみたのである。
柱の断面に、こんな紋様?の木目があっても面白いと思う。
フローリングの板が、こんな風に張り合わせてあるのも見せる木材だ。
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