2018年1月17日は、阪神淡路大震災23年目。発生時刻、私はやはり夢の中でした(^o^)。
以前も記したかもしれないが、関西人(少なくても私にとって)は震災としては東日本大震災よりも阪神大震災の方がショックを受け、後々まで影響を与えた。もちろん年齢や当時何をしていたのかどんな体験をしたのかによって変わるだろうが……。
やはり距離の差、町など土地や人に関して、自らの知っている知識・記憶のレベルが違うからである。
そんなことを考えていると、私が執筆した『
チモール 知られざる虐殺の島 』のことを思い出した。この本を刊行した際に、どこだったか、図書新聞? だったような記憶もあるが、とにかく拙著を紹介してくれるそうで、そこに著者の執筆した理由や思いを書いてくれ、という依頼があった。
1988年発行・1999年増補改訂版発行。
そこで私が記したのは、以下のようなことだった。肝心の記事がどこに行ったのかわからないので記憶に頼るが……。
「地球の裏側に住む少年が交通事故にあった」ことに、どれほど共感するか。多分、ほとんどの人はお愛想で「可哀相だね」というかもしれないが、興味は湧かないだろう。
今の自分からもっとも遠いところに住んでいる、まったく見知らぬ少年が交通事故で怪我をした、亡くなったと知らされても、多分悲しくはならない。関心外である。
しかし、もし少年が日系人で、その祖父の出身地が自分の住む町だったらどうだろう。
あるいは彼のあった交通事故と同じような事故に、自分も巻き込まれた経験があったら。
それどころか少年は昨年日本に訪れていて、自分と知り合い一緒に遊んだ記憶があったら。いやいや少年が自分の家にホームステイしていたら。。。。
彼の容貌や癖や生活態度を知っていたら、彼の将来の夢を聞いていたら、他人事ではなくなるのだ。
そうした関係性があると、少年の悲劇は自分の心にも響く。
東チモールで起きている(当時)植民地支配と独立戦争による大きな被害、虐殺された人々のことについて日本人のほとんどは知らない。だから関心を持てない。
だが、その東チモールを、かつて日本軍が占領して3年半支配していた歴史があったことを知ったら。駐留していた日本兵と現地の人々との交流や、あるいは戦いを知っていたら。そして戦後も少なからず日本は東チモールに関わっていた事実を知ったら、どうだろう。
とまあ、そんな書き出しで、東チモールのことを知ってほしい、これほど日本と関わりがあった島とその住民のことを調べたから……という記事にしたのであった。(これ読んで、本に興味を持って買ってくれた人がいたかなあ。。)
情報を発信する報道の役割とは何か。かつて日本は中立国ポルトガル領東チモールまで侵攻したのだよ。そして軍政下において先住民を強制労働に動員したり慰安婦にしたり、何千人も死に追いやったのだよ、同時に日本兵も悲惨な経験を積み上げたのだよ、その中には密やかな日本人とチモール人の交流もあったのだよ。。。
すべての報道の意味は、そこにあるのではないか。震災のこと(阪神も淡路も東日本も熊本も)を具体的に知って、自らとの関わりを感じ取れなければ23年も、7年も、1年前でさえ、忘れてもいいんじゃない?という声も出てくる。記憶として忘れるというより、何の教訓も活かそうとしないということだ。
そして、森林問題も同じなんだろう。
チモールで知り合った少女ミミ。彼女は可愛かったなあ(~_~;)。と思い出に浸る(⌒ー⌒)。
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