『カルピスをつくった男 三島海雲』(山川徹著・小学館)を読んだ。
タイトル通り、乳酸菌飲料カルピスをつくり、長くカルピスの会社の社長を勤めた三島海雲の評伝である。
実は私も少しだけ登場している。というのは、三島と土倉家は縁浅からぬ関係だからである。私も『
樹喜王 土倉庄三郎』を執筆する際に、三島海雲についてはそこそこ調べている。
三島は、大阪・箕面の貧乏寺に生まれ、若くして大陸に渡った。そして土倉五郎、そして四郎とも出会い、一緒に事業を興して内モンゴルに足を伸ばしている。そこで三島はカルピスにつながる乳飲料を知る。その後辛亥革命で大陸の商売をすべて失った後に帰国してヨーグルトやカルピスで起業するのだが、そこでは土倉龍次郎が関わっているからである。
ただ、私の三島に対する印象は、そんなによくはなかった。そもそも大陸で五郎と組んで始めたビジネスが相当怪しい。資金は、ほぼ土倉家のものを湯水のごとく使った。
そして最初は行商とはいうものの、途中から馬や武器を扱いだす。なかには青島駐在のドイツ軍司令官の馬を日本軍司令官に売りつけるというお行儀のよくない商売もやっている。
そもそも五郎は、相当柄が悪い。山林王の息子というには品格もなさすぎた。彼と意気投合したというのだから、三島の心情も相通ずるところがあるのだろう……。
ところが、本書を読むうちに、別の視点が開けてきた。それは当時の「海外雄飛」という言葉に象徴される大陸等に飛び出した日本人の群像である。
そのほとんどは、現代の目からは侵略の尖兵だったことは間違いないが、彼ら自身にその意識は少なく、むしろ熱に当てられたように新天地を歩き「自分探しの旅」をしていた姿が浮かび上がる。旧弊にがんじがらめで窮屈で打開の糸口のない日本を飛び出して、乾坤一擲、人生の勝負を挑んだのだろう。
それは侵略か否か、善か悪か、といった判断ではなく、時代の大きな風を背に受けて進むヨットのごとき生き方を示している。ただ風の起こす大波に飲まれて流され転覆するのか、向かい風をも前進のエネルギーにするヨットの特質を活かせるのか。人の真価はそこで問われる。五郎は前者、三島は後者かも、と思ってしまった。
加えて言えば、土倉家の長男・鶴松も前者だろう。彼も自身で大陸に行ったわけではないが、蒙古王(内モンゴルの領主)に肩入れして、随分散財している。彼も大陸熱に煽られた一人だろう。
著者は、とうとう内モンゴルに渡って三島の歩いたルートをたどるのだが、そこではなんと100年前の三島の人柄を今に伝えている人々に会う。奇跡的な出来事だ。
もともと著者は、大学卒業後の進路に迷ってモンゴルなどを放浪した経験があるのだが、それ自体が三島の歩いた道と重なるようだ。
さて、帰国した三島は、内モンゴルの経験を活かして国内で起業しようと企てた。それに力を貸したのが、龍次郎だった。資金や人脈紹介のほか、商品開発でもアドバイスをしていたらしい。上等なヨーグルトやキャラメルよりも、その副産物である脱脂乳を利用した菓子をつくれ、というのだ。それが後のカルピスにつながる。
当時の龍次郎は、南洋進出を夢見て台湾に渡り、そこで多くの事業を興したものの、それらを全部処分して日本にもどってきたばかりの頃だ。土倉本家を鶴松が破産させたあおりだが、ある意味、三島が大陸で興した事業を全部失った状況と似ている。
だが、夢を諦めたわけではない。東京で新たな事業として温室園芸を模索していた。これは、当時では相当リスキーな起業である。その点でも、龍次郎と三島は似た立場だったのだ。そして三島はカルピスで、龍次郎はカーネーションで成功した。その点については、これまでも記してきた。
本書の後半は、カルピスで起業した三島の経営者としての歩みに移る。ただ一読、彼の経営者としての適性には首をかしげる。あるいは古き良き経営者像かもしれない。経済成長期に勘と度胸と努力で突き進む姿である。今の時代には通じない。いや、失格だろう。
ただ、会社が存続し続けたのは、カルピスの商品力と三島の人柄に引かれて支え続ける周囲の人々がいたからではないか。
ちなみに三島が社長を退いたのは、1970年、91歳の時である。後を継いだのは龍次郎の長男・冨士雄だった。
カルピスの発売は1919年7月7日。今や七夕は、カルピスの日である。
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