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森と林業の本

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2018/08/21

訃報・土倉庄三郎in 山林

頭が煮詰まったときは、やたらめったら文献をひっくり返す。最近はネットサーフィンを繰り返す。そこで何を読むか知るかはあんまり関係なくて、とにかくザッピングによる情報で思考の整理と精神の安定を図るのである。

 
とはいえ、その途中で興味深い情報に触れることもある。
今回ネットで見つけたのが、この記事。
 
19178_2_219178_1_2
 
「山林」の1917年8月の記事である。
 
土倉庄三郎逝去のニュースが、大日本山林会の「山林」に掲載されていたのだった。もっとも元の記事は大阪朝日新聞かもしれない。
 
たしかに庄三郎は大日本山林会に深く関わっていたから、その訃報が掲載されるのは何の不思議もない。というか載らない方がおかしい。
ただ、「山林」のバックナンバーをネットで見ることができるようになったのは最近のことなので(私が土倉庄三郎について調べている頃はなかった)、今頃発見したということである。それに死亡時の状況はほかにもいくつか詳しい情報源があったので、さほど熱心に探さなかった。
 
 
さて、今回の記事で内容的にさほど新事実があったわけではないが、死因を急性肝臓炎としている。私が手にした記録では髄性肝臓ガンとあるから、多少ズレている。
 
また村の子供たちを教育する私塾・芳水館の建設に2万円を費やしたという点は、初めて目にする記述だ。2万円というのは、建設した明治時代なら現在の3~4億円相当であり、ちょっと高すぎるように思えるが……。おそらく大正年間の換算だろう。それなら数千万円か。
 
そのほか国からもらった藍綬褒章や勲六等については知らなかったわけではないが、ほとんどスルーしていた情報である。もう少し確認しておくべきだったか。
成瀬仁蔵の日本女子大学校をつくった点も記されている。現在、設立協力者としては、広岡浅子の名前ばかりが有名になっているが、当時は広岡より土倉の方が世に知られていたのではないかと推察する。
 
こうした記事・文献は、掲載された時代にどのような目が向けられていたかを想像するのに役に立つよ。
 

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