「喪失の国、日本」で知る木の文化
ブックオフだったかで見つけた古書『喪失の国、日本・エリートビジネスマンの「日本体験記」』(文春文庫)。
インド文化というか、インド人のメンタリティを知りたくて購入。日本は近年、インド経済圏に食い込もうとしている。だが、中国人も音を上げるインドビジネスの厳しさに、日本人が太刀打ちできるのか? ちょうどカシミール地方で起きている不穏な動きも気になるところ。多文化が混濁?しているイメージのあったインド文化だが、今やヒンズー至上主義が席巻しているらしい……が、私は肝心のヒンズー文化をよく理解していない。新たな世界のホットスポットだけに注視したい。……という気持ちであった。
これは1990年代前半に日本に滞在したインド人の記録なのだが、訳者の奇跡的な著者との出会い、余りに詳しい日本社会の描写などから想像するに、訳者の意訳?部分が相当入っている気配はする。原著は私家版だとかで、他者が確認することもできないだろう。ただヒンズー教徒インド人のメンタリティを知るには恰好の書となった。
一つ一つのしぐさや思考方法がここまで違うのか!と感動するほどで、カーストの文化?も、いかに根深いか思い知る。一つ一つを取り上げても侃々諤々の議論ができそうだが、まず奈良を訪れた際の感想を紹介したい。
「おどろいたことに、いたるところに鹿がいた。牛も、馬も、ラクダも、象もまったく見かけなかった日本で、突然鹿があふれているのを見て、私はどう理解していいのかわからず、佐藤氏に「これは食用か」と訊ねて笑われてしまった。」
この一節だけでも楽しい(^o^)。奈良の鹿に関しては、「インドだって牛が町中を歩いているじゃないか」という声があるのだが、発想が違う。
その後、法隆寺や中宮寺などを訪れて、日本人の樹木への深い理解に驚嘆したという。
「日本は、思想と美学のすべてが木への解釈と共振している国なのである。」
「インドでは、大樹の樹上はジャッカルや魔物の棲む所だが、日本では神が降りる場となっている」
「インドやヨーロッパでは、古くから「生命樹」という紋様が愛された。しかし日本では生きた樹木そのものが愛された。抽象と具象との差は大きい。日本では、樹木は生活の中に「生命」のイメージをもって深く浸透し、精神世界で大きな規矩の役割を果たした。」
「日本人が木を生きたまま捉えようとした証拠は、「白木」と呼ぶ塗装されていない状態を好むことにもよく現れている。」
その後、大阪に行くが、コンクリートだらけで「木の文化」の片鱗も見られず、別の国みたいだと、不協和音を感じている。
そして日本の木の文化を論じる。
「日本人はこの二千年、何を作るにも木を用い、木と向かい合って生きてきた。木と相対する無限の時間の中で、人生と美とを学んだ。木の中に神を見、木の中に心を見た。木は人生の教師であり伴侶であった。そのような木との交感の中に、日本文化が生まれたのだと私は考える。」
さて、どうだろうか。本当に2年足らずの滞在だったインド人がここまで深い考察ができるのか?なんか日本人が望んでいる日本文化論ぽくないか?……という疑問はさておき、インド的視点を知るつもりで読めば興味深い。
ちなみに、彼の滞在中(1992年~)にインドではヒンズー至上主義者がモスクを焼き討ちするアヨーディヤー事件が起きる。それは各地に飛火し、パキスタンの核保有へと広がり世界を震撼させたのだが、それについて彼の見解も面白い。ただ、当時は過激派の犯行とも言えたが、今や国の指導者が同じようなことを口にするのだから、現在の方がより深刻だろう。
著者は、当初日本の文化に感動していたのだが、やがて幻滅し始め、インドと日本の文化的狭間に落ち込んでいく。そして文明社会への危惧・絶望を強めていった……らしい。
若干古い本(初出2001年)だが、インドとの結びつきを強めようとしている今だから読んでも面白いのではないか。
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