アスペルガー症候群の人類史
国連の気候変動サミットにおけるグレタ・ショックは世界中に広がっているようだが、それとともに彼女に対する誹謗中傷も後を絶たない。世界中のメディアや、サイトにも、そして私の記事につくコメントにも読むに堪えない言葉が並ぶ。怒るだけでなく、否定し、あざ笑い、裏に陰謀があるとうそぶき、あげくは地球温暖化現象まで嘘だと言い出す。
彼女の演説内容は、実はシンプルだ。科学者が地球温暖化を指摘しているのだから、早く対策をとれ、と言っているだけだ。
なぜ16歳の少女が語ったことに、ムキになって貶めようとするのか。仮に意見が合わなければ無視すればいいだけなのに。しかも理屈で対応するのではなく感情的になるのか。そこには一種の怯えや歪んだ対抗心が見られ、深層心理からの自己防衛反応が見られる……と脳科学的に分析してみるのも面白いのだが、私は彼女が自身をアスペルガー症候群だと述べたことに興味がわいた。そして彼女個人の症状としてではなく、アスペルガー症候群の人の存在意義について考えてしまったのである。
以下は、そんな考察というか論考、いや私の思いつきの妄想である。
アスペルガー症候群は発達障害の一つで、一般に対人関係やコミュニケーション、そして想像力に障害があるとされる。いわゆる空気を読んで臨機応変に動くのが下手で、一つの事象に強いこだわりを持つ。それは、巨大で複雑で、多くの人と交わらねばならない現代社会の生活には不利に働くだろう。
地球史から考えると、生物は適者生存であり自然淘汰がなされることによって進化を遂げてきた。生存に不利な遺伝子は篩にかけられて消滅に向かうはずである。発達障害を持つ個体は、コミュニケーションが重視される人間界では生存しづらく減っていくはずなのだ。
それを説明するのに、一昔前には、これは遺伝子の転写ミスによって生じるという説があった。いくら自然淘汰されても性細胞が分裂する際のDNAの転写ミスによって生まれてくる、と考えられたのだ。しかし近年の研究では、むしろ積極的な役割があるのではないか、と考えられ始めている。つまり一見生存に不利に見える遺伝子も、何らかの点で人類に有利に働いている可能性があるというのだ。
たとえばアフリカには鎌状赤血球症と呼ぶ遺伝病があるが、貧血ばかり起こして生存には非常に不利なのに残り続けている。やがて鎌状赤血球は、アフリカに蔓延するマラリア病に対する耐性を持つという特性があったからとわかってきた。
話は変わるが、同性愛者は原理的には子孫を残せない。だったら、その遺伝子は次世代に引き継がれず消えていくはずである。しかし、いつの時代にも同性愛者は一定の割合存在するとされる(約1割という説も)。実は同性愛者も子孫を残すケースが多いのだが、それにしても生活に不利をもたらすはずの遺伝子保有者がなぜ減少もせず一定数存在するのか。……そんな研究もされており、同性愛にはそれなりの役割があるという結論が導かれている。
同じことが、アスペルガー症候群などの障害にも当てはまるのかもしれない……と思いついたのだ。
いや別にアスペルガーを持ち出さなくても、人同士の関係に漂う言葉にしない空気を読めない、一つのことに集中すると周りが見えない、常に他人と同じことはしたくない、という人は一定割合存在する。通常は疎まれる(時に社会を混乱させる)そうした性格の人も、自然淘汰にかからず人間集団の中にはいなくてはいけない、いることで集団の生存可能性を広げるのではないだろうか。
それは、集団全員が同じ方向に歩いている際、そちらは滅びの道だ、と叫びストップをかける役割かもしれない。あるいは誰もしないことに挑戦することで、新たな生存領域を発見することでもある。
歴史を振り返ると、多くの優れた発明家、技術者、探検家、芸術家、そして戦いの指導者などが、これらの役割を持っていた。そして彼らの多くは奇矯な性格の持ち主だったと伝記などに記されている。他者と同じ行動をとっては上手く行かないときに、突破口を開く役割を人類史の中で与えられていたのだ。ただし、それは日常の破壊でもある。日常に生きる人にとっては脅威だ。
……そう考えると、今の時代にグレタ・トゥーンベリさんが登場したことがわかるような気がする。彼女の意志そのものより、時代の意志、人類史の意志と言えるかもしれない。そして、多くの人が必死になって彼女を否定したがるのも「今の時代」「今の生活」を守りたいという旧人の防衛本能であると読み取れる。
ただ、彼女はそんな誹謗の声にまったく興味をもたないであろうことも想像できる。他者の反発なんて小さなことより、はるかに大きな(地球の)問題に「こだわり」を持っているからだ。
この考察が的中するかどうかの答は、そんなに長く待つ必要はないかもしれない。グレタさんのいうような気候変動のティッピングポイント(後戻り不可能の時期)を迎えるのが約10年後だとしたら、もう「今の生活」が守れなくなるまでさして時間は残っていない。その時に「あのときのグレタの演説はこのことを指摘していたのか」と語られるだろうから。
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