興野家文書と林業技術のアレンジ
縁あって、「興野家文書」の資料をいただいた。
「興野家文書」とは、日本の林業遺産第一号になった「太山の左知」(とやまのさち)の興野隆雄(1790~1862)および興野家に関わる文書である。
興野家は、現在の栃木県那須地方にあった黒羽藩の重臣で、なかでも5代当主隆雄は林政家として知られる。傾いた藩政を立て直すため植林を進め、財政を立て直した。その経験をまとめたのが「太山の左知」である。太山とは太い木が生えている山を示し、左知は幸のこと。
隆雄はもともと江戸に住む幕臣の息子だったが、幼いころから樹芸を好み、植木屋で「種樹の法」を学んだという。黒羽藩の興野家に養子に入ってからも山林育成に熱心で、家臣や雇用人に任せるのではなく自ら山に入った。そして吉野にも視察に訪れている。
吉野林業を学びに行ったとすれば、おそらく川上郷大滝村に訪れただろうし、そこでは土倉家を訪問したのではないか、と想像を膨らませる。年代的には、土倉庄三郎の父・庄右衛門に面会しただろう。晩年なら若き庄三郎とも顔を合わせている可能性がある。(庄三郎は1840年生まれ。15歳で家督を継いでいる。)
ただ、吉野林業方式をそのまま持ち帰ったわけではない。実際に「太山の左知」に記されているのは、
1、樹下植栽
2、疎植
だからだ。一般に日当たりのよいところに植えるスギを、ほかの樹木の陰に植える方が活着しやすいというのは土壌水分の差だろうか。そして2間(約4メートル)間隔の植栽というのは、吉野の密植とは真逆で、早く肥大成長を進めて太くするという育林法だ。あくまで大径木を育てるのであって、木目を密にすることはめざさなかったようだ。
そのほか細かな点はさておき、吉野に学びつつ、吉野方式を丸ごと取り入れるのではなく地元の状況に応じている。それは立木売りが主流で、地元で製材や商品化はしていなかったことも影響しているのではなかろうか。
思えば明治になって、林業は「吉野に学べ」と吉野式の林業を教えるために庄三郎を筆頭に吉野の林業家が各地を出向いた話が多くあるが、実際に吉野式の林業が根付いた土地はほとんどない。せいぜい天竜ぐらいではないか。土地の条件が違えば、盲目的に真似ても根付かないのである。
現在の林政はすべてが画一的。1か所の成功事例(本当に成功かどうかも疑わしいが)を全国で真似させようとして失敗を繰り返している。それをもっとも推進しているのが林野庁なわけだが、ほかにも自分の体験を元に「このやり方が一番。このようにすれば林業は復活する」と声高に唱える意見が散見される。もっとも林業をわかっていない証拠だろう。
必要なのは成功事例のエッセンスを学びつつも、それをいかに土地に合わせてアレンジするかだ。それも目先の条件ではなく、広く地域も時間軸もとって考えねばならない。画一的な真似をするようでは、200年前の興野隆雄の境地にさえ達していないということだ。
私も、改めて過去の日本各地の林業技術について学んでみたく思う。かつては実にさまざまな形態が花開いていたようだから。
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