年はじめに、少しは「希望」のある話題を。
「ニイタカヤマノボレ1208」をご存じだろうか。1941年12月2日。日本海軍連合艦隊司令部が発した真珠湾攻撃の暗号電だ。12月8日に攻撃開始という意味。かくして太平洋戦争は口火を切った。
これが希望? と言われたら困るのだが、この際戦争もパールハーバーも関係ない。ニイタカヤマ、新高山である。これは台湾の最高峰にして東アジア最高峰、標高3952メートル。台湾が日本領になって富士山より高い山だというので新高山と名付けられたのだ。
この新高山に最初に登頂したのは誰か、という課題がある。一般には鳥居龍蔵と森丑之助ということになっているが……そこに長野義虎の方が先だったという声もあり、さらに長野とともに土倉龍次郎も登っていたのではないか? という可能性もある。その点については、Yahoo!ニュースの
ニイタカヤマに初登頂したのはだれだ? 知られざる探検家を探れ
こちらを参照のこと。
さて、龍次郎は1870年10月生まれだということがわかった。思えば父庄三郎が1840年生まれ。つまり今年は土倉龍次郎の生誕150周年であり、土倉庄三郎翁生誕180周年であったことに気づいた。これは、ちょっと「希望」が持てる(^o^)。
そして私は龍次郎の孫に面会することができた。そして見せていただいた写真に仰天した。
実に興味深い写真が幾枚もあるのだが、とくに台湾時代のものが多い。
そして見つけたのだ。

この写真の裏書きに「新高山」とあるのだ。頂上ではないが、新高山に行ったのは確実になった。そして阿里山と書かれた写真も。

阿里山ソーロガナ頂、と裏書きがある。ということは阿里山にも入ったことは間違いない上に、写真を見てほしい。映りはイマイチだが、樹木の根元に小さな人間が写っている。それに気づけば、この樹林の大きさ、太さがわかるだろう。
そう、龍次郎は阿里山の巨木林も発見したことになる。
もちろん撮られた年代がわからないから、確実に一番乗りとは言いづらいのだが、龍次郎の台湾滞在期間と全島を組まなく歩いて探検したという逸話から、極めて初期、おそらく1895年から数年間の間になるだろう。
阿里山のヒノキの巨木林は、撫墾署の署長の齋藤音作が本多静六とともに1900年に玉山登頂を試みた際に発見したと伝えられている。また1906年に、小笠原富次郎が巨大なタイワンヒノキ「阿里山神木」を発見したという公式記録がある。
もしかして、龍次郎がそれより先に発見している可能性が出てきたのだ。これを確認できたら登山史の書き換えであり、確実な証拠はなくとも一石を投じることになるだろう。
登場人物がみんな明治の林業界に関わりのある人が多い上に、当時の探検家も続々と登場する。台湾は、日本にとってフロンティアであり、1900年代の世界の残された数少ない探検フィールドであったこともわかった。
私も「ニイタカヤマノボレ2020」という気運になってきた\(^o^)/。
※現在は、新高山ではなく玉山である。
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