ネコロジー序説
たまたま訪れた吉野の世尊寺こと、比曽寺跡。6世紀に建てられたという日本でも最古級のお寺である。かつては行幸も相次ぎ繁栄した大寺だったが、その後没落し、豊臣秀吉には三重塔を奪われたりした。江戸時代に世尊寺と名を変えて存続しているのだが……。
その太子堂の縁側に、猫が……。
いやいや、騙されてはイカン。この猫はフィギアではないか。しかし、なかなか似合う。お寺に猫は相性がいいのか。ここにこのポーズで置いた住職のセンスはなかなかいいぞ。猫(模型だけど)がいるだけで、一気に寺の雰囲気が変わるではないか。これは、猫の何が人の心に触れるのか。
実は、小松左京の遺作集というか、アンソロジーを読んでいた。
ようは小松左京のエッセイや小説で、猫に関わる作品を集めたものなのだが……これは意外や?名作であった。
多くは飼い猫とのやり取りを描いているのだが(ベジタリアン猫とか、凶暴猫とか、巣作り猫とか……)、単にそれに留まらない考察が深い。深すぎる。今から40年50年も前に書かれたものなのに、現代科学でも考えさせられる切り口なのだ。「味」という点からの進化論。「愛する能力」。人間のファッション好きから昆虫の変態や「変身願望」。猫の巣作りから生物全般の巣作りへと考察した「ホーム・スイート・バイオホーム」。猫の凶暴性からの「個性」の考察。当時の生物学の知識が満載なのだ。これが40年前の知識か?と思わせるほどの博覧強記。昆虫から動物、微生物までの行動学から読み解くのだ。いやホルモン物質の生体反応から素粒子論まで登場する。
そして、これらが全部小松左京の飼い猫の話から始まるという……(^^;)。
とてつもなく刺激を受ける。
そして、今度はテレビ(Eテレ)で「又吉直樹のヘウレーカ!」で「猫とのつきあい方」を取り上げていた。これまた刺激的。又吉は猫が苦手らしいのだが、一方で本人が猫型性格。
そこで説かれるのは、「猫は人が捕らえて仕込んだ家畜ではない」こと。むしろ猫の方から人間社会に寄ってきたらしいのだ(人間の集落には獲物のネズミが多いから)。それゆえ、人とはつかず離れずの関係性を築く。逆に人が猫になついている。
ちなみに小松左京は、猫好きではあるが、抱いたりする猫可愛がりはしなかったそうだ。ただ、家に猫がいて、それを眺めているだけで満足していたという指摘が載っていた。なるほど、だから身近な猫も一見突き放した考察ができたのか。猫好きと称する人たちの中には、ほとんど猫に飼われている者も多くて、冷静に猫の存在を考察できない猫依存症バカ(私説)ばかり。世の中には猫(と犬)になると、冷静に動物論を話せない連中が多い。だが、小松左京はその点が違ったのである。
私も、人間と動物の関係には関心を持ち続けている。とくに、なぜ家畜が生まれたのか、家畜化は可能だったのか……に興味がある。またペットの存在は心理学的にはどんな位置づけになるか。今後は森林ジャーナリストは休業して、人と動物ジャーナリストになろうかとも思う( ̄^ ̄)。ちなみに家畜とは、森林にたとえれば人工林のようなものだし、ペットは雑木林か公園緑地か。共通点はあるのだ。
よし、私もネコロジーを打ち立てるか……と思ったが、今日はこの辺で序説にして終わろう。
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ここ、25年くらい前に行った覚えがありますが。猫のフィギアはなかった記憶がありますw
投稿: 有坪民雄 | 2020/01/09 23:01
25年前 (@_@)にはないでしょう。それとも、当時はまだ生きていた猫が、呪文(念仏ともいう)で石にされたのか。
投稿: 田中淳夫 | 2020/01/09 23:16