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2020/03/04

三島海雲と土倉家の関係を示す写真見つかる

カルピスを世に生み出した三島海雲。彼と、吉野の山林王・土倉家は、深い関わりのあることを幾度も紹介してきた。


カルピスの日に思い出す、二人の「カルピスの父」

ただ、上記に記したのは、土倉庄三郎の次男・龍治郎との関係だが、先に知り合ったのは、五郎と四郎である。とくに五郎とは、三島と二人で日華洋行という貿易会社を立ち上げて商売をしている。土倉家の金で仕入れた雑貨を中国~満州で売って歩いたらしい。さらに内蒙古には軍馬の買いつけに動いている。

このことは三島も語っているのだが、それを示す物証的なものがなかった。

 

それを見つけた。龍治郎の孫に当たる方から提供を受けたのである。それが、この写真。

Photo_20200301163901

写真に書き込みがあるが、前列左が三島海雲。そして右が土倉五郎。後列に四郎がいる。おそらく日華洋行時代に撮影したものと思われるが、一緒に写真に写っているのだから、確実である。ほかにも山田などの書き込みのある人物がいるが、何者かは確認できていない。おそらくビジネス仲間だろう。

明治時代、多くの日本人が大陸に自主的に渡った。そこで何をしたのかは千差万別だろう。仕事もあれば、研究、そして探検的な行動もある。なかには大陸浪人と呼ばれる怪しげなことに手を出した人も多くいた。ある意味、国家権力の空白地帯のような地域になっていた中国~蒙古である。

五郎は、三島との商売を止めた後は、馬賊のようなことをしていた時期もあるらしいが、結局は金を食いつぶしただけで日本にもどる。

四郎は、わりと早く大陸に見切りをつけて日本にもどって横浜正金銀行に勤める。そしてアメリカに派遣されて支店長を務める。ただ比較的早死にしたようだ。

そして三島は、辛亥革命によって財産を全部失って日本にもどるが、再起を図り、内蒙古の経験からヨーグルトや乳酸飲料の開発に挑み、カルピスにつなげた。そして90をすぎるまで社長を勤めている。

同じ場、同じ体験をしても、その後の人生はさまざまだねえ。。。

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