ブラタモ「法隆寺」編で考える木材の出所
先週の土曜日にNHK『ブラタモリ』で「法隆寺」を取り上げていた。テーマは、“なぜ法隆寺は1400年愛され続けるのか”であった。見た人も多いかと思う。
私も法隆寺前はしょっちゅう通っている。実は先日も車で参道前を走ったのだが……幾度か中に入ったものの、最後は何年前かなあ。数十年経っているような気も家するが……(^^;)。
番組では法隆寺は世界最古の木造建築であることを強調しつつ、一度建て直されている(それでも1300年の建築である)ことや、創建直後から不具合で出て軒が落ちてきたので支柱を入れていること、柱も含めてかなり修理で部品を入れ換えているなどの説明があった。その点は満足なのだが……。やはり触れられなかったのは、「法隆寺を建てた木材はどこから来たの?」である。
私にとっては、それが最大の知りたいことなのだが、ようは謎のまま、誰にもわからないということだろう。法隆寺および法隆寺を形作る木材についての本はたくさん出ているが、肝心の出所はほとんど触れられていないのである。
なにしろ五重塔の心柱は、直径2・5メートル以上のヒノキを四つ割して使われている。すべて芯去り材というわけだ。しかし直径2・5メートルのヒノキが生えていたのはどこだ?そして、どうやって輸送したのか。
私なりに考えると、普通木材は川を流して運ぶだろう。それは昭和初期まで続いた木材運搬法だ。しかし法隆寺の近くの川は大和川。ここの上流は飛鳥であり、すでに飛鳥時代の多くの都の建築物が建てられてきた。つまり木材は枯渇していたと思われる。天武天皇が禁伐令を出すほどである。
なお平城京を造営する時は近江の国から伐りだして琵琶湖と瀬田川を下って途中から木津川を遡り、最後は奈良坂の峠を人力で越えたらしい。しかし平城京と斑鳩はまったく別の地域で河川もつながっていない。
それに聖徳太子の時代には、いくつもの巨大寺院の建築が行われており(20くらいはある)木材の奪い合いがあったのではないか。かといって、ほかの地方から伐りだし大阪湾経由で大和川の下流から運ぶのは当時の技術では難しそう。
となると可能性のあるのは、大和川の南北河畔に接する生駒山と金剛山辺りぐらい。大和川に近いから、なんとか人力でも運べただろうか。距離的に近いのは生駒山だけど……山の深さは金剛山か。
ちなみに法隆寺と同じく聖徳太子が建てた難波の四天王寺を建てた大工集団は、百済から招いた金剛重光率いる金剛組である。彼らが法隆寺建設に関わったかどうかはわからない(建設年は四天王寺が578年、法隆寺は607年なので辻褄は合う)が可能性は残る。そして別に名前が同じだから金剛山の木を使ったという推定も怪しいが。
なお金剛組はその後も続き、現在の株式会社金剛組につながっている。1400年続く世界最古の建設会社である。こちらの方が価値があるんじゃね? 宮大工集団として知られるが、2000年初頭に倒産しかけて、今は高松建設の傘下だったかな。
それにしても、金剛山あるいは生駒山に巨木林があったという痕跡を見つけることはできないものか。我が家の裏山に直径2メートル級の巨木が林立していた時代を想像するのは楽しい。
あと、気になったのは、法隆寺を遠見に見るシーンに写る電柱と電線。あれはなんとかしてほしい。歴史的美観地区としては恥ずかしい。
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