田中 淳夫: 虚構の森
世にあふれる森林を巡る環境問題。そこで常識と思っていることは本当に信じていい? 地球上の森は減っているのか、緑のダムは存在するのか。る? 地球温暖化に生物多様性、SDGsに則しているのか? 異論から考えると別世界が見えてくる。
田中 淳夫: 獣害列島 増えすぎた日本の野生動物たち (イースト新書)
シカ、イノシシ、クマ、サル……獣害は、もはや抜き差しならない状態まで増加している。その被害額は1000億円以上?しかも大都市まで野生動物が出没するようになった。その原因と対策、そして今後を見据えていく。
田中 淳夫: 絶望の林業
補助金漬け、死傷者続出の林業現場、山を知らない山主と相次ぐ盗伐、不信感渦巻く業界間……日本の林業界で何が起きているのか?きれいごとでない林業の真実を暴く。
熊崎実ほか編: 森林未来会議―森を活かす仕組みをつくる
現役林業家、研究者、行政万……など10人の著者が、日本林業の問題点を分析しつつ、未来に向けての処方箋を示す。海外事例も含め、希望を語っている。
有坪 民雄: 誰も農業を知らない: プロ農家だからわかる日本農業の未来
消費者はもちろん、学者も官僚も農家自身も、農業について全体像をつかんでいない。だからピンぼけ……。これは林業にピタリと当てはまる!
保持林業―木を伐りながら生き物を守る
保持林業とは新しい言葉だが、欧米を中心に世界で1億5000万ヘクタールの森で実践されている施業法だという。伐採後の生態系回復を早めるために行われるこの手法、もっと日本に知られてもよいのではないか。
田中 淳夫: 鹿と日本人―野生との共生1000年の知恵
奈良のシカは赤信号に止まる? 鹿せんべいをもらうとお辞儀する?カラスがシカの血を吸っている? 彼らを観察したら、獣害問題の解決の糸口も見えてくるはず。
山川 徹: カルピスをつくった男 三島海雲
カルピス創業者三島海雲の評伝。彼は内モンゴルで何を見たのか。何を感じたのか。その夢を乳酸菌飲料に結実させた足跡を追う。土倉家の面々も登場する。
田中 淳夫: 森は怪しいワンダーランド
森には、精霊に怪獣に謎の民族、古代の巨石文化が眠っている!そう信じて分け入れば遭難したり、似非科学に遭遇したり。超レアな体験から森を語ればこんなに面白い? 読めば、きっと森に行きたくなる!
村尾 行一: 森林業: ドイツの森と日本林業
林学の碩学とも言える村尾行一の林業論の集大成か?
ドイツ林業を歴史的に追いつつ比べることで浮かび上がる日本林業の大問題と抜本的な処方箋
田中 淳夫: 樹木葬という選択: 緑の埋葬で森になる
広がりつつある樹木葬。今や世界的な潮流となる「緑の埋葬」となる、森をつくり、森を守る樹木葬について全国ルポを行った。
田中 淳夫: 森と日本人の1500年 (平凡社新書)
日本の森の景観は、いかに造られたのか。今ある緑は、どんな経緯を経て生まれたのか。日本人は、どのように関わってきたか…。今ある景観は、ほとんどが戦後生まれだったのだ。今後必要なのは「美しさ」である!
田中 淳夫: 森林異変-日本の林業に未来はあるか (平凡社新書)
21世紀に入り、激動の変化を見せ始めた日本の林業。この変化を知らずして、日本林業を語るなかれ。果たして森にとって吉か凶か。そして「大林業」構想を提案する。
阿部 菜穂子: チェリー・イングラム――日本の桜を救ったイギリス人
もはや桜の故郷はイギリスだ! と感じさせる衝撃の書。ソメイヨシノ一色ではない多様な桜を守っているのは日本ではないのだ。そして日英交流史としても第一級のノンフィクションだろう。
田中 淳夫: ゴルフ場に自然はあるか? つくられた「里山」の真実
ゴルフ場は自然破壊? それとも現代の里山? このテーマに再び取り組んで『ゴルフ場は自然がいっぱい』を大幅改訂して出版する電子書籍。
谷 彌兵衞: 近世吉野林業史
吉野林業の誕生から江戸時代までの発展の歴史を緻密に描く目からウロコの著
田中隆文: 「水を育む森」の混迷を解く
森は水源涵養機能がある……と古くから唱えられてきた。しかし、科学的に証明されたわけではない。人々の思想や政策の方が先んじている。その歴史的展開と、野外科学のジレンマに焦点を当てる。
ヨアヒム ラートカウ: 木材と文明
人類と木材、ひいては森との関係を壮大なスケールで描いた大著。ヨーロッパが中心だが、目からウロコの記述がいっぱいである。
清和 研二: 多種共存の森: 1000年続く森と林業の恵み
最新の生態学の知見から林業のあり方、今後の進むべき道を提言する。多様性豊かな森こそ、安定していて収穫も多いことを思い知る。
村尾行一: 間違いだらけの日本林業 ―未来への教訓―
村尾林学の決定版! 眼からウロコが落ちるだけでは済まない。これまでの林業観を否定をして受け入れるか、読まなかったことにするか……。
田中 淳夫: 森と近代日本を動かした男 ~山林王・土倉庄三郎の生涯
三井財閥に比肩する大富豪として、明治時代を動かし、森林の力によって近代国家を作り上げようと尽力した山林王・土倉庄三郎の生涯を追う。そこから明治時代の森林事情が浮かび上がるだろう。
太田 猛彦: 森林飽和―国土の変貌を考える (NHKブックス No.1193)
森林水文学の視点で、日本の森林事情の変化が国土にもたらした驚異的な影響を語る。もはや森林だけを論じている暇はない!
田中 淳夫: 日本人が知っておきたい森林の新常識
森林ジャーナリズムの原点。森林や林業に関わる一般的な「常識」は本当に正しいのか、改めて問い直すと、新しい姿が広がるだろう。そして森と人の在り方が見えてくる。
日本の森を歩く会: カラー版 元気になる! 日本の森を歩こう (COLOR新書y)
森林散策ガイド本だが、第2部で7つの森を紹介。全体の4分の1くらいか。私が記すとルートガイドではなく、森の歴史と生態系をひもといた。
田中 淳夫: いま里山が必要な理由
名著『里山再生』(^o^)の内容を一新した改定増補版。単行本スタイルに変更し、美しくなった。里山を知るには、まずここから。
田中 淳夫: 森を歩く―森林セラピーへのいざない (角川SSC新書カラー版)
森林療法の成り立ちから始まり、森が人の心身を癒す仕組みを考察する。森の新たな可能性を紹介した決定版。 全国11カ所の森林セラピー基地のルポ付き。
田中 淳夫: 割り箸はもったいない?―食卓からみた森林問題 (ちくま新書)
割り箸を通して見えてくる日本と世界の森林。割り箸こそ、日本の林業の象徴だ!
田中 淳夫: 森林からのニッポン再生 (平凡社新書)
森林・林業・山村は一体だ! その真の姿を探り、新たな世界を描く
田中 淳夫: 日本の森はなぜ危機なのか―環境と経済の新林業レポート (平凡社新書)
かつての林業は木を売らなかった? 真実の日本林業の姿を紹介し、現状と未来を俯瞰した目からウロコの衝撃の書。
田中 淳夫: だれが日本の「森」を殺すのか
誰も知らなかった?日本の林業と林産業の世界を描いた渾身の1冊。
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NHK・BS1で「デジタルハンター」という番組を見た。これ、すごい。
ウェブで公開されている情報、とくに画像・動画なとを元に真相に迫る新たなジャーナリズムの手法だ。これをオープンソース・インベスティゲーション(公開情報調査)と呼ぶ。違法ではなく、公開されている情報から、政府や犯罪者が隠している情報を割り出していくのだ。
なにしろ、アフリカのどこともわからぬ殺戮現場の動画、それも数分のものから、映り込んでいる背景の地形、建物や木の大きさ……などを元に衛星画像と突き合わせて場所を割り出す。そして人の影から年月まで読み取る。
ウクライナで撃墜されたマレーシア航空機を誰が撃ったのかも、各地のSNSを精査して、ミサイルを積んだトラックを発見し、その走ったルートと行きと帰りは積んでいるミサイルが減っていることまで見つける。明らかにロシア軍の犯行だと証明したのだ。
ほかにも中国のウイグル族の強制収容所を見つけ出してそこで何が行われているか探り出したり、武漢における新型コロナ肺炎の蔓延具合をいち早く見つけ出したり、おそるべき調査能力だ。それを、すべて小さなパソコンだけで行ってしまうデジタル世界の新たなジャーナリストが生まれていることを知って戦慄した。彼らの多くは本来はゲーマーだったりするのだが、今や世界のメディアが競ってリクルートしているそうだ。BBCもワシントンポストも、みんな彼らを雇っている。
しかし、この時代、どんな閉鎖した国でも、ネットに上げられている情報があるものだ。先のミサイルも、市民が何気なくネットに上げた映像を拾いだしたのだから。
ただ私が思ったのは、これはデジタルの話ではない、ということだ。ようは情報を読み取る能力が必要なのだ。
対極にあるジャーナリズムの「現場主義」というのを、私はあまり信じていない。もちろん現場に行くのもよいが、そこで見聞きしたことをいかに分析する能力があるかが問われている。見たことが真実と思い込むのは浅はかだ。それなら幽霊を見た、UFOを見た、だから霊界は存在する、宇宙人がいる、と主張するようなものである。目にした現象がなぜ起きたのか分析しなけりゃジャーナリズムにならない。また被取材者の言い分を丸飲みするのも危険だろう。それこそ広報・宣伝に利用される。
現場百編、というのはもう古いのかもしれない。現場に足を運ぶのは一度で良いから、いかに情報を読み解くかが問われる。
私はとてもデジタル世界を精査する能力はないが、負けずにコツコツとアナログも含めた公開情報を分析して隠された事実を掘り出したい。(ちょっと武者震い)
ちなみに、この番組、明日の深夜にも再放送するみたい。BS1午後11時。
生駒山中腹にある宝山寺。いつも参拝に訪れる寺院だが、そのもっとも奥まったとところから山頂に連なる尾根に登るルートがある。急峻で滑りやすく、知る人の少ない登山コースだが、楽な道ではないものの、私は愛用?している。ここで他の登山客と会うことがないから。
それで、トレーニングがてらに登っていて、ふと気づいたのは、モミの木が目立つことだ。
生駒山の植生はコナラ林が基本だが、それが徐々にシイ・カシなどの照葉樹林に成りつつある。おそらく照葉樹が潜在植生というか、元植生なのだろう。ところが、たまにモミが目に入るのだ。それも圧倒的に宝山寺の周辺に多い。
しかも、結構な大木がある。胸高直径で30センチを越す。これだけの木はスギやヒノキにはない。
モミも生駒山の元植生なのだろうか。江戸時代は草山だった記録があるから、樹林はほとんどなかったはずなのに、そこにモミが残る余裕があったのか。もしかしたら宝山寺の境内ということで伐採を免れたのかもしれない。聖地扱いだ。
もしかしたら、植えた可能性だってある。モミの白い材質は卒塔婆に向いているから、お墓用に。
生駒山の歴史を、植生でたどって見られるかもしれない。
私が傾倒している学者というか著述家の一人にジャレド・ダイアモンド博士がいるが、現在読んでいるのは「第三のチンパンジー」(草思社)。
この本は、代表作の「銃・病原菌・鉄」や「文明崩壊」などのエッセンスを濃縮して、さらに新しい情報にアップデートしたような作品だから、オススメである。
ここで細かな本の内容は紹介しないが、大きな問題意識として人類の環境破壊がある。
一般に、古代の人類社会は環境と共生していたが、近代、産業革命以降は破壊を進めた、というイメージがある。とくに白人が世界中に進出していく過程で森林破壊は進み、人同士の殺し合いが頻発しジェノサイド(大量虐殺)を引き起こすようになった。なかには「日本人は自然を愛し共生社会を築いたが、西洋人の文明は自然を破壊しつくした」とゴタクを並べるトンチンカンな学者もいるが……。
ところが、そうでもない。そもそもジェノサイドは人間以外の動物でも起こす、というか人間以上にしでかす。異種だけでなく同族も殺す。そして人間も古代ギリシャ人やローマ人などは各地で行った。モンゴルもそうだろう。またニュージーランドのマオリ族の恐ろしさは、まさに各地でジェノサイドを繰り返していくつもの民族を滅ぼしたことにある。そして動物たちも殺して絶滅に追い込んだ。モアが滅んだのも、その一つだ。そして各地で森林を失っていった。
が、私が驚いたのは、中東ヨルダンのペトラだ。ここは映画「インディ・ジョーンズ」の舞台としても使われて有名になったが、細い渓谷の奥に岩に掘られた神殿のある古代都市遺跡である。まさに砂漠の中に眠る不思議な都市として知られるが、実はこの都市も、かつて森の中にあったというのだ。今でこそ、砂漠の奥に隠れた王国があったイメージだが、この遺跡に人が集っていた時代は、森に囲まれた都市だったのだ。
ほかにもエジプト、メソポタミア文明の各都市も、古代ギリシャもローマも、森に囲まれた都市国家群だった。インドや中国の各王朝も、北アメリカの大平原も、イースター島も、かつては森林に覆われていたらしい。人類の生きる場所はほとんどが森の中だったのだ。そして人が集まり都市をつくると、森は消えていった。これは日本でも当てはまるかもしれない。飛鳥時代は都をよく移したし、奈良時代以降も、周辺から遠くへと森林破壊をし続けた。
おもしれえ。人が住む土地は、常に森だった。そして森に人が集まると森を破壊してなくしてしまうのだとしたら。そこでその都市を捨てて別の森のある場所に移っていくわけだ。やがて都市を移動させずに遠くの森から資源を収奪して運んで来るケースも出てくる。が、それも森を破壊しないと生存できない人類の性かもしれない。
それは今も続いているが、そろそろ移る森が地球上になくなってきた。ようやく必死にSDGsなんていう「持続可能な開発目標」を訴え始めたが、かなり無理がある。クロマニヨン人数万年の進化の歴史に森林破壊が刻まれているとしたら。……止まらないかもしれない。
そうか、チンパンジー、ボノボに続く第三のチンパンジー(人類)の特徴は、森のない草原に出たことだと言われるが、それゆえ森を破壊し続けるのかもしれないなあ。
昨日とつながるのだが、近年は野生動物が増えている。そして獣害が発生するわけだが、そこでよく言われるのは「人工林には、動物の食べる餌がない」。だから、奥山が人工林化したので、里に下りてきた……という論法だ。
だが、そうだろうか。人工林に(草食動物の)餌はないのだろうか。
たしかに写真のような人工林もある。ここには下草も生えていないし、ドングリのなるような広葉樹もない。「緑の砂漠」というわけだ。
しかし、私の経験的には、こうした人工林はかなり少数派のように思う。程度の差あれ、人工林にも雑木や下草が生えている。荒れた、と言われる人工林ほど、雑木が多かったりする。もはや針広混交林になってしまったようなところは、動物には餌が豊富ではなかろうか。
これが裏山のスギ林。結構な雑木雑草が侵入しているから、ここならネズミやウサギやシカ(いないけど)は十分棲める。雑食性のイノシシやクマ(いないけど)だって餌があるのではないか。そして小動物がいたら、キツネやタヌキやイタチも棲める。
完全な天然林ほどではないにしろ、人工林の生物多様性は案外高いように思える。人工林と言ってもピンからキリまでだ。そこの動物層を調べたら、意外な生態系が見えてくるかもしれない。
そう考えると、現在の野生動物の増殖具合も説明できるのではなかろうか。
タナカ山林には、狭いながら結構な動物が出入りしているようだ。そこここに痕跡を見つけるが、今回目についたのはこれ。
ウンコやん(´Д`)。
それも見事?な形。これまでなら、これはイノシシ、これはウサギ、イタチ……とだいたい想像がついたのだけど、これはなんだ。
一瞬、人間かと思った(笑)が、周りに紙も落ちていないし、だいたい、こんな藪の中に入らないだろう。どちらかと言うとイヌの糞に似ている。ノライヌか。イヌに近い野生動物なら……生駒山にはキツネやタヌキもいるようだが、タナカ山林周辺では記憶にない。
そんなに大型動物ではなさそうだから、危険はないと思うが。すでに虫が群がっていたから、遠からず片づけられるだろう。
なかなか糞を見て楽しむのもオツなもんじゃ\(^o^)/。
Yahoo!ニュースに「計算し直すと、日本の森林蓄積は従来の1,5倍、生長は2倍以上に!」を執筆しました。
お分かりだろうが、数日前に書いた研究成果と施策の齟齬~森林蓄積量は過小に見られていた? を改めて書き直し、まともな記事にしたもの。
何しろ英語の論文だし、専門用語のオンパレードだし、多数の複雑な数式も飛び出すし、いやはや大変でした(^^;)。これを書くまでには、いろいろ助けていただいた研究者がおります。さもなきゃ理解できないよ。。。
ようやく私が一知半解ぐらいになって、それをYahoo!ニュース用に書く際に、またまた難しい部分を削って端折って強引につなげたり……という作業をして書き上げた。そしてこの記事の読者も、どこまで理解できたか。
つまり、これは論文筆者から拙記事の読者までの間に、幾度も理解しやすく、読みやすく、と伝言ゲームのように繰り返したのだから、実のところ意味がずれているのかもしれない。その点については、覚悟の上である。
私は、これはすべての記事において思っているのだが、全部正確に伝えるのは無理と開き直っている。だから末梢的なことは捨てても、根幹の部分を抜け落ちないようにする。これが私の努めだ。今回は、細かな数字の算出方法や森林の蓄積の意味などは大胆に切り捨て、従来の推定値の何倍あるかという結果だけに絞り込み、その上で「政策を作成するためには基礎データを大切に扱うべき」であることを中心テーマに据えた。それは伝わったかな。
最後にCOVID-19対策の政策でも一緒……と書きかけて、あざといので消したけどね。 (゚o゚;)
私は、かつて土壌ジャーナリストを名乗っていた。これは2015年の国際土壌年に合わせた肩書であるが、年が明けてから返上した記憶はないので、今も土壌ジャーナリストでもあるはず、だ。
そこで、久々の土壌、それも肥料の話題を。
「バイオスティミュラント(生物刺激剤・BS)」をご存じだろうか。農業ではまったく新しい発想の資材として注目されていて、とくに欧米を中心に広まりつつある。簡単に言えば、環境変異におけるダメージを軽減できる植物に育てる資材のことだ。
そもそも農業資材には、まず「肥料」がある。いうまでもないが、植物(作物)への栄養供給と土壌を化学的に変化させて植物を育ちやすくする。無機・有機に関わらず、植物の生長に必要な物質を補給してやるものだ。
次に「農薬」がある。こちらは害虫や病気、雑草(ライバル植物)といった生物が作物に与えるストレスを除去する役割がある。殺虫剤、殺菌剤、除草剤などだ。こちらも化学物質が主流だが、生物農薬と呼ばれるものもある。
さてBSは、これらとは違って、高温や霜、日照り、塩害、冷害、霜害、活性酸素、雹や風、さらに農薬による薬害などの環境ストレスを和らげる素材だ。非生物ストレス対策とも言えるだろう。そうしたストレスを軽減することで、作物が本来持っていた力を発揮させる。それで収穫量だけでなく品質もよくする。ストレス耐性を身につけさせる。さらに収穫後の農地の状態もよくして次の作付けにもよい影響を与える。
具体的な資材は、海藻やアミノ酸、タンパク質、腐植質、微量ミネラル、微生物など多種多様だそうだ。とはいえ、まったく新規なものではなく、日本ではボカシ肥料(油粕や米ぬか)がそれに相当する。日本の農業には、昔からBSの発想があったのだろう。
ちょっと飛躍して人間に例えると、病気を治す医薬品でもなければ、ビタミンなどの栄養剤や補助食品でもない。アロマとかお酒とか温泉とかヨガとか……ストレス発散に使われる消費みたいなものか。森林サービス産業という名で立ち上げようとしている「新たな林業」もその一種で、人間用のバイオスティミュラントか。
こちらも今流行っている。その代わり、怪しげなのも一緒(笑)。実際の効果は見えにくいし、肝心の植物の個性?によって効果も揺れ動く。
それでも、すでにバイオスティミュラントの世界市場は2014年に約1400億円、それが18年に約2400億円に達した。今後数年間の成長率は年10%前後と推測されているのだから有望かも。食料危機に備えるために作物の収穫量を上げるのに必要と訴えられている。そうしたセールストークも、人間に心地よい生活を与えるという森林サービス産業と一緒\(^o^)/。今ならコロナ禍に耐える身体づくりに必要と宣伝しているのではないだろうか。
日本バイオスティミュラント協議会も設立された。もはや農薬などの資材の売れ行きが今以上に伸びないと見た企業が参入し始めたのだろう。その点も、木材売上が伸びない林業に「サービス産業」を持ち込んでいるのと同じか。
でも、こうした資材を生産するのには森林はちょうどよいと思うよ。
「日本の林業は日本社会の縮図」。これは『絶望の林業』のあとがきの最後の言葉である。文字通り1冊の本の締めくくりの言葉。
これは、実はさほど早くから意識したわけではなく、あとがきを書いているうちにそういうフレーズが浮かんで、まさに最後に付け加えたのであった。
で、なぜこの言葉を今頃引っ張りだしてきたかと言えば、今日会った人に、ここを強調されたから(^^;)。
彼はコロナ禍の中、東京からやってきた。古くからの友人で、かつて彼もライターだった(優秀なルポルタージュも出版している)のだが、今は建設業界で働いている。そして、いうのだ。「建設業界もまったく同じ」と。『絶望の林業』で記した問題点の多くが当てはまるらしい。補助金づけから始まって、ブツギレの業界、労働者の安全問題、欺瞞の視察旅行……。
聞けば、視察旅行には、コンサルや業界誌記者も同行させて、自分たちは酒飲んで、名所旧跡見て回って、そしてそのコンサルか記者に報告書を書かせて提出するだけ。当然、コンサルは、自分の仕事に都合のよいように内容をでっち上げて書く。記者も業界批判はしない。それを視察の参加者は読むことさえしないという。視察報告書を専門に書くコンサルタントがいるとも聞いた。
たしかに林業界・木材業界も一緒かもしれない。業界誌記者は、絶対に視察を批判的に書かないだろう。そして視察者は、視察先で見聞きしたことを自身が実行に移すことはないだろう。
ともあれ、建設業界も不動産業界も、そのほかいくつもの業界が同じような状態だというのだから、日本社会って、どこに救いはあるの?
そして、言われたよ。第3部の「希望の林業」の項目はいらないね、と。希望より、最大級の絶望で締めくくるべきだった、と。(泣)。(泣)。
やっぱり、続編は『超絶望の林業』かなあ。
ところでネットに最近書かれた、『絶望の林業』の書評も見つけた。こちらもある。今でも読んで、書いてくれる人がいることに感謝。
コロナ禍でどこも仕事が停滞している中、不思議と素材生産業で休止したという話が出ないのだが……とりあえず現場は「3密」ではないし、年間契約か何かで木材を出せば金になるのかもしれないが、じりじりと引き取り手(製材工場、合板工場……など)の在庫が積み増し、市場の価格も落ちていくから、遠からず行き詰まるだろう。コロナ禍2波、3波の可能性も考えたら、長期的に動きにくい。バイオマス発電所だけは燃料不足でどんどん持ってこいや~状態かもしれないが。。。
そんなときに送られてきた宮崎県警本部長に当てた「宮崎県森林盗伐の仕組み・利権についての情報提供」が送られてきた。面白いから公開しちゃおう\(^o^)/。
盗伐問題、気にかかるけど具体的にどんな事態が起きているのかピンと来ない人、これを読めばわかる。もちろん、政治家が絡んだ利権などは証拠をつかめていないので推測だが、勝手に伐る業者、仲介業者の存在、警察、検察の不可思議対応、行政が違法業者に出す補助金……など一連の状況は、これで知ってほしい。
コロナ禍の影響は、直接的な罹患や外出自粛から来る仕事の激減だけに止まらない。
とくに学生にとっては試練になるだろう。新入生である1年生は実質的に入学できず、入試を控えた最終学年(だいたい中3、高3)は勉学の遅れが甚だしい。あるいは就職の内定取り消し、就活そのものの滞り。
挙げていけばきりがないが、慰めにもならない言葉を捧げるなら……「ケ・セラ・セラ」だろうか(^o^)。なるようになるさ、人生、想像どおりになったら魅力がない。最初からトリックや犯人のわかったミステリーと同じ。
と、まあこんなことを書きつらねたのは、大学で森林学を学んでいる4年生から、森林のことを伝える出版の仕事がしたい、森林ジャーナリストにどうしたらなれますか?的なメールが来たから。どうやら女子大生らしい。。。
とはいえ、ここで蘊蓄たれたり、説教するほどダサクはない。そんなことをしたら嫌われるのは娘で経験しとる(⌒ー⌒)。できるのはエールを送ることだけだ。
でも、少し考えた。森林に限らないが、勉強している内容と就職の関係は、両極端を言えば、もっと学びを深めたいと思って研究職などを選ぶという選択肢と、大学の勉強なんてのは教養と同じで直接仕事にするつもりはなくて、就職はまったく別の論理で選ぶものがある。
だが、その間に学んだ分野のことを他人に伝える仕事をしたい、というコースがあるのかな、と思うのだ。とくに専門分野が一般人には難解な場合は、それを翻訳して伝えるインタープリター的な役割が必要となる。
以前にも私の仕事にやたら興味を示して、目指したいといっていた研究者(の卵)がいた。こちらは男子だが(^^;)、彼は結局、どんな道を選んだのだろう。。。
私自身は、研究者になる能力に見切りをつけて、では何を仕事にするか、と考えたときに、自分が知らないことを知るのは楽しいし、自分が知ったことを他人に教えるのも楽しいなあ……といった発想で見つけた職業だ。森林ジャーナリストになるルートなんぞはなく、自分で切り開くしかない。ようは「なりたい」という思いの強さだけが決め手だ。
あえて付け加えるなら、適性はある。そこを外すと辛い。「伝える仕事」をめざすなら、何でも興味を持つことだろうかねえ。興味のない分野にも興味を持つ。森林とか林業のことだけに集中する人は、私は苦手(笑)。
以前から気になっていたのだが、木材自給率について調べたら、2018年は前年より0.4ポイントアップの36,6%だという。2011年から8年連続の上昇になる。総需要量も8,247万8,000m3と3年連続で増加したそうな。ま、それはドーデモいい。
気にしているのは、次の点だ。その記事の説明に、「木材自給率は2002年に18.8%と最低値を記録した」とある。
実際、昨年の森林林業白書には、こんなグラフが付いている。
この中の2002年のところに18,8%と記されているのが読み取れるだろう。
さて、ここで疑問。かつて木材自給率のボトムは18%とか、18,2%と言っていた。私が本を執筆の際に白書などを確認・引用しているのだから間違いない。その本にも当然、その数字を記した。
そこで過去の白書から取り込んだグラフを張り付けておこう。
どちらも18,2%と記している。まあ、ほかにも20%だという数値を示すものもあるのだが、それは大雑把に示したのだろうということにしておく。いずれにしても、最近になって18,8%に変えられているのだ。母数(総量)をいじったとしか思えない。
もしかして現在の統計がバイオマス燃料材も含めるようになったからか? しかし2000年頃にバイオマス発電はほとんどなかったから、それを外したら自給率を引き下げるほどの量があったのかなあ。こんなのもあった。
いつから、どのように計算式を変えたのか。その理由はなんなのか。その説明はどこかに載っているのだろうか。それともこっそり書き換えたのか。政府資料の破棄や書き換えが得意な現政権だけに、油断ならない。誰か説明してほしい。
過去の白書を調べても、そもそも木材自給率を毎年同じところに載せてないことに気づいた。わざと見つけにくくしているのだろうか。グラフも各年代に数字を入れていないものがある。ちなみに25年度の白書は18,2%だった。そして29年の白書は18,8%になっている。
困るんだよ~。私が昔の記憶で18,2%の数字を使ってしまった場合、私の間違いにされてしまいかねない。何より、白書が信用ならないことを示してしまうだけだろう。
滋賀県に「しが自然保育認定制度」ができたそう。なんで滋賀をしが、とひらがなにするのか疑問だが…。
自然保育とは、ちと耳慣れないが「森のようちえん」的な自然の中の保育活動を指すのだろう。実施要項には、
第1条 しが自然保育認定制度は、森・川・里・湖のつながりを重視し、森林、里山等を中心として、野外での保育および幼児教育(以下「保育等」という。)を行う団体であって、この要綱に定める基準を満たすと認められる団体を自然保育を行う団体として認定することにより、自然保育の社会的な認知および信頼性の向上を図り、森林環境学習のすそ野を拡げるとともに、子どもたちが心身ともに健やかに育つ環境の充実を図ることを目的とする。
とある。(これは条例になっているの?)
ようは滋賀県が示す一定の条件をクリアしたと認定された団体には、運営に関する助成金が受け取れるというものだ。助成対象となる経費の例には、以下のようなものが並ぶ。
・研修受講費・・・救命救急やリスクマネジメントの講習受講費、自然保育に関するフォーラム・シンポジウム・研修の参加費 等
・森林フィールドの安全確保費・・・枯れ木や枯れ枝の除去費、かぶれる植物やマムシが潜みそうな藪の刈払い費、ハチの巣の除去費、つまずく恐れのある林内歩道の修繕 等
・外部指導者の招へい・・・森林フィールドでの指導を依頼した自然観察指導員、森林インストラクター等への謝礼 等
・森林への移動経費・・・森林フィールドへ移動する際のバス、タクシーの借上げ費、レンタカー代、ガソリン代 等
・活動消耗品費・・・森林フィールドで使用する道具類(ロープ、ナイフ、スコップ等)、救急用品、殺虫・防虫用品 等
わりと細かい(笑)。運営費補助としてまとめて出すのではないようだ。申請書類づくりが大変そう…というのが私の感想だが、ともあれ県が後押しするのは大きな動きだろう。
実は、同じような森のようちえんの認定制度は、鳥取県を嚆矢として、長野県、広島県にもある。園舎を持たないなど、従来の枠に収まらない方針だけに、改めて行政機関が認定しないと運営が厳しくなってしまう。私も取材したことがあって、ブログやらYahoo!ニュースやらに記事にした記憶が。。。
ところで滋賀県でこの制度を担当するのは、林務系の部署のようだ。先行する鳥取、長野、広島は福祉系部署であるのと違って始めて……と紹介されている。おや、ちょっと意外。というのも、私が取材に顔を出した鳥取県では森林林業系の部署だった記憶があるからだ。そう思って調べると、福祉保険部の「子育て王国推進局」担当だったよ! すごいネーミングだ。。。立ち上げてから移したのだったっけ。
まあ、日常的な運営となると保育園管轄の方がよいのかもしれない。あるいは幼稚園管轄なら教育委員会か。
しかし、おそらく立ち上げ時には、保育や幼児教育担当者よりも森林関係部署の方が適切だろう。木育とか自然環境教育になると、そうした福祉や教育部署では門外漢になりがちだ。「木育の敵は、教育」という名言を発した木育関係者もいるから(by『絶望の林業』)
ともあれ、滋賀県も動き出したか。奈良県も、知事が「森のようちえん」に言及しているんだけどなあ。本当は今年がチャンスのはずだけど、コロナ禍で何から何までストップしてしまっているのが残念だ。
突然、論文が送られてきた。正確に言えば、論文サイト(オープンアクセス)のURLだが。
送り主は東大の大学院教授。なぜ送ってくれたのかわからないが、私が喜ぶと思ったのだろう。はい、たしかに喜びました(笑)。
肝心の論文の内容だが、これはネイチャー系のサイエンティフィック・リサーチ誌に投稿したもの? ちょっと詳しい背景はわからないのだが、せっかくだから、ここにも紹介しておく。
タイトルは、Carbon stock in Japanese forests has been greatly underestimated
「日本の森林の炭素貯蔵は、過少評価されている」ぐらいだろうか。
しかし、英語の論文ですからな(笑)。しかもネイチャー論文ですがな。私が読むのは辛いがな。。。。
それでも無理して概要を紹介すると、日本の総森林蓄積(炭素量に換算)は、これまで公になっていた数値の1・6倍だった、そして森林の生長速度(二酸化炭素吸収速度で換算)も1・5倍だった、というもの。
なぜ、これまで過小評価してきたのか、という点については、収穫表が古くなっていること。現在使われているのが1970年代に作成された数値を使っているが、現在の森林とはかなり違うらしい。そしてこの収穫表が、森林面積の約10%(220万ヘクタールにものぼる)を含んでいないため、としている。
もう一つは、直接フィールドで計測した数値だが、そちらにも年代によってズレがある。たしかに面積はもちろん、森林の樹種構成や樹木の幹体積などの関係は次代とともに変わる。そんなことは分かりきっているのに、これまで修正を加えなかったのか。
これを、ちゃんと証明しより正確な数字を出したのだ。と言っても、私は十分に読みこなせていない(-_-;)ので、誰か読み込んで正確に解説してほしい(笑)。
ただ、公表されている森林総蓄積が過少であることは従来から言われていたから、私自身はそんなに意外感はないかな。さすがに1・6倍という数字を示されると、誤差がデカすぎと言わざるを得ないけど。ちなみにスギとヒノキは日本の総森林の炭素量の34.5%を占めているらしい。
こうした数字が出てくると、今後の全国森林計画にも反映される必要があるだろう。林野庁や環境省は喜ぶか? この数字を使えば、日本の二酸化炭素削減量(森林吸収分)は一気に増やせるかもしれない。あるいは「日本の森林は飽和状態」という言い分を強調することにも使える。
ところで同じことは地球全体の森林面積にも言えるのではないか。私も記事にしたが、以前のネイチャー論文(2018年)で、地球上の森林面積は増えている、というものがあった。ほかにも幾つかの研究結果で森林の増加は紹介されている。中国やインドなどで造林面積が爆発的に増えているからだ。論文1本2本ですべて信じろというわけではないが、考察の大きな転換になるはずだ。
ところが国連の森林戦略計画(2017年)では、今も地球上の森林は減少しているとする。そして30年までに森林面積を3%増やすという目標を示している。ネイチャー論文などで示された新知見に基づいて方向転換する様子は伺えない。まだまだ「森は減っている!」と言い続けるだろう。
実際、今も世界の森林は略奪的林業のために減り続けている、と信じる人は多数いる。それに基づいて政策なども語られる。だが、実際はどうだろう。もはや略奪的林業を行っているところは少数派ではないか。熱帯地域でさえユーカリやアカシアなどの植林は進んでいる。あるいは1ヘクタールあたり1~2本の伐採なら破壊していると言えるだろうか。またヨーロッパの天然更新は、基本的に植林をしないが育成林業と言えるのか。逆に育成林業でも、乱暴で伐りすぎている地域は山ほどある。
もちろん質的な問題はあるが、少なくても量的には増えているとしたら、森林政策も考え直さないといけないのではないか。
科学的な研究成果が、実際に普及するにはタイムラグがあるのは仕方ないが、それが長くなればなるほど大きな齟齬が生じる。そして取り返しのつかないことになるかもしれない。
コロナ禍で「外出自粛」「巣籠もり」が“要請”されて、みんな自宅にこもる生活が続く。そのため娯楽はおろか職場も学校も行けなくなるわけだが、そこで頼りにされたのがインターネットを利用した情報のやり取りだ。リモートワークやオンライン授業はもちろん、自宅でも気持ちよく過ごせるようエンターテイメントまで多くのコンテンツが提供されるようになった。そこには多くの人々・法人が、これまで秘蔵、もしくは有償だったコンテンツまでネットに無料開放している。これって、すごいことだ。
私も、おかげさまで結構無料で映画などを見ているし、意外な情報を得たりもしている。
その中で、こんなものもある。
宮崎県椎葉村農林振興課の製作のようだが、おそらく通常はパンフレットとして配布しているものだろう。それをネットでも見られるようにしたものだ。(これがコロナ禍のために開放したのか、もともと開放するつもりだったのがこの時期になったのかは知らないけど。)
ともあれ、私のような「焼畑マニア」には楽しい。
ちゃんと、焼畑が「森を育てる循環農法」として「誤解」を説明しているし、「自然の理にかなった農法」であることも記している。この点に関しては農業からの視点だが、後半には「森づくりの手順」も説明する。広葉樹林の育て方もある。
改めて考えるに、焼畑には森と畑の循環がある。木を伐って燃やしても、また森にもどる。その点は常畑・水田のように一度農地にしてしまったら二度と森にもどさない農法とは違うのだ。
私は、スギ、ヒノキも含めて人工林を育てる育成林業の出発点は焼畑だろう、という視点で見ているので、この森づくりの伝統技術を手軽に手にすることができるのは有り難い。
ちなみに椎葉村と言えば、椎葉くに子・秀行さんの焼畑が有名なのだが、実は椎葉村内でも多くの焼畑があって、それぞれ手法が違っていることは、あまり知られていない。本当に伝統的な焼畑技術はどれか、というのは難しいのだが、ともあれ記録に残さないことには消滅してしまう。こうした試みは結構なことだ。
ちょっと買い物に出かけたが、それだけで帰るのはもったいない、しかし雨の中、山に入るわけにも行かない……と車を走らせていたら、「奈良県コンベンションセンター」の標識が。よし、ここを訪ねよう。
この施設、4月にオープンしたのだが、即休業。コロナ禍で出番を失っていたが、その中心テナントが蔦屋書店。かなり大規模書店という噂である。それが奈良県の「緊急事態宣言」が解除したのを受けて開業したと聞いていた。そこを覗いてみようと思ったのだ。
奈良県に大型書店は少なく、しかもほとんどがショッピングモールなど複合施設に入っているので、緊急事態宣言で閉められると、自動的に書店も閉まる。だから長くリアル書店に行っていないのだ。久しぶりにリア書店で本を眺めたくなった。
もっとも、蔦屋である……。いくら大規模と言っても、その品揃えは。。。だが大規模である(^^;)。どうなっているのか確認したい気持ちもあった。私的には、理系の書棚を眺めたいのだが、あまり期待できないかなあ……。
幸い地下駐車場もあり、1時間まで無料。これは有り難い。奈良の中心街の駐車場は1日1000円とか取るのだ。観光地価格である。30分で済む野暮用なのに、停めると一日料金を取られてしまう。まあ、いろいろ裏技を駆使するが、1時間あれば書店見学としては十分。
たしかに広さは十分。しかも1、2階を占める。期待できるか? もっとも蔦屋である……。
やっぱりオシャレですなあ。しかも内装には木をたっぷり使っている。奈良県産かどうかはわかならいが、相当質のよいヒノキ。
さて、品揃えは……やはり蔦屋である(^^;)。広い割には少ない。雑誌なんかほぼ全部平置きだもんね。表紙を見えるように陳列すれば、場所を取り数は減る。ただ全般に奈良を意識した本も多かった。観光関係はもちろん、歴史本や古建築、木工芸などわりとこだわりの本が目につく。
その一画に「サイエンス」棚があった。その中に農林業本も含まれる。やっぱりスペースを取ってグリーンインテリアなんぞもあって、オシャレにキメている。
ありました。森林・林業本はこれだけ。ま、そこに『絶望の林業』があったのだから、よい書店だ。蔦屋、頑張れ。
さて、これで所期の目的は達したわけだが、こうしたモダンな書店をウロウロすると、どうしても考えるのが書店の未来。いや出版界の将来。
1990年代と比べると、出版界の売上は半減している。書店数も半分近くになった。電子本はそれなりに伸びているが、ほとんどコミックだろう。そしてマンガ雑誌も売れていない。本当に本が売れない時代なのだ。
そして書店業界というのは林業界と並ぶほど、旧態依然として何にもしない工夫しない世界だった。単に配本を書棚に並べて、売れなかったら送り返すだけ。殿様商売、大仏商法だったと思う。
しかし、このところ、さすがに危機感を持って新しい取組を始める書店も現れた。その一つが蔦屋書店なんだろう。ビレッジヴァンガードもそうだ。スタンダードブックストアもあったか。
その方策と言えば、まず本だけでなくほかの商品も並べる。CD、レンタルビデオ、ゲームソフトもあったが、ほかにもグッズ類。これまでの、せいぜい文房具ではなく、積極的なグッズ販売だ。さらにカフェとかバーを設けたりもする。いわゆる多角経営。そして著者を招くなどトークイベントも主催して集客努力を行う。
それはよいのだが、問題は売れるのは本ではなくグッズの方が大きいこと。すると、だんだんグッズが主流になり、本の置き場が縮小されがちになる。たたでさえ本の数は少なめなのに。そのうち本屋ではなくなりそう。
やはり本丸の本を売ってほしい。最近は逆手にとって、グッズを扱う店に本を並べる動きもある。扱う商品に合わせて工芸本とか、服飾店にファッション雑誌とか。ほかスポーツ店などにもある。これも努力の賜物。頑張ってほしい。本を置くことで店のステータスを上げ、インテリア的な効果があるのかもしれない。だが……。
書評が出ても、あんまり影響力がなくなっている。そのくせSNSには反応するんだから、専門家の影響よりも身近な人のオススメが重要なのかもしれない。何か本に関する情報の流し方を根本的に考えないといけない。書店も独自にポップをつくって書棚に張り出したり、書店の店員が選ぶ(小説の)本屋大賞を設けたり努力していただいている。まあ、私的には、書店員が選ぶと文系本に偏りがちという恨みがあるのだが……。
出版点数は減っていないというか増えている。ロットは減っているのにアイテムを増やしている。これは多様性が出てよい面もあるが、書棚に全部並べられなくなり売りにくい。コスト高にもなる。書籍とは、マニアックなものになっていくのだろうか。
どうも書店の未来が見えにくい。執筆側としては、私は書き上げたら売るのはおまかせ、次の本の内容を考えるのに専心したいと思うのだが、そうも行かない。悩みは深い。
ちなみに蔦屋書店でもっとも気に入ったのは、これ。
ガラスの壁をよく見たら、シカや鳳凰やらが描かれていた。奈良だなあ、と私は喜んだのである(⌒ー⌒)。
や
真っ直ぐ伸びることが自慢のスギの中にも、曲がる木はある。それも傾いたり曲線を描く程度のは珍しくない。
が、S字を描くのはちと珍しい。それも2本並んでS字とは。
2本とも、そこそこの太さがあり、樹齢は50年以上あるだろう。周りのスギより太い。ちょうど同じ条件が2本に降りかかって同じように曲がったのか。生えた土地の傾きなど地形や土質、風の通り道、光の当たり方、そして栄養……とまあ、いろいろ考えられるが、これはスギとしては健康体なのだろうか。
真っ直ぐが信条のスギが曲がったのだから不健康……と思ってしまいがちだが、いやいや真っ直ぐ育って素性のよいスギは伐られて木材にされてしまう確率が高い。その点、こんなS字カーブを描けば「木材には使えないな」と見過ごされるかも?
役に立たないから長生きする可能性がある(笑)。
そういや、屋久島の屋久杉、とくに縄文杉などは凸凹でこぶがいくつもあるのは、そんな性質なのではなくて、江戸時代に屋久杉が大量に伐られた際、凸凹のスギは木材にならないから残された、それが今の屋久杉である……という説明を聞いたことがある。
つまり人間にとって使いにくい木ほど伐られずに済む。そして大木になり、種子をつけてもDNAにはその形質が遺伝する……。
これも自然淘汰の賜物だ。将来のスギは、みんな曲がって育つよう進化するのである、知らんけど。
拙著『森を歩く 森林セラピーへのいざない』(角川SSC新書)という本を出版した(2009年)のだが、そこで森林セラピーを紹介した。
当時の私は、森林療法にハマっていたのだが、それが森林セラピーになった途端にうさん臭くなったので、森林セラピーに関しては批判ばかりしていた。だから、この本の執筆に迷った記憶がある。
ま、そこは版元と妥協しつつ(^^;)書き上げたのだが、その中で森を歩くことの癒し効果をもたらす物質や行為を科学的にいかに説明するか悩んだ。
森林セラピー研究会(当時)では、大学生を使った実験で、森歩きの前後で有為にストレスホルモンが減少するなどの結果を示して「これがエビデンス」と主張していた。しかし、私には納得できないというか怪しげに感じていたのだ。統計的手法によるには検体が少なすぎる(10人、12人程度)し、統計的有意差以前に、肝心の癒しをもたらす原因を示せていないからである。もちろん完全な証拠を出すのは無理でも、それなりの仮説でもいいから、森の何が人間のどこにどんな影響を与えるのか説明できないと信頼性が低い。当時の「科学者」の説明は、“人類の進化の記憶”とか、“マイナスイオン”まで持ち出して、まるでスピリチュアルな世界に陥っている。
そこで、文明科学研究所の大橋力氏の研究で、熱帯雨林には超高周波音(100ヘルツ以上)が満ちているという事例を引っ張りだして、森に響く聞こえない超高周波音の影響も考えられるのではないかという仮説を紹介した。
さて、長々と昔話を記したが、実は昨夜Eテレで「又吉直樹のヘウレーカ」という番組を見た。テーマは「皮膚はすべて知っている?」である。
皮膚が触覚を持つのは当たり前だが、実は光も感じれば、嗅覚や味覚、そして聴覚もあることを紹介していた。その聴覚の中には、超高周波も入っているのである。耳では感じ取れない高周波を皮膚は感じることができること。そして、そのことで脳深部を活性化させ、免疫機能の増加やストレスホルモンの減少を引き起こすことを実験で証明したというのだ。さらに超高周波音が混じった音楽(ハイレゾですな)は感動が増すことも示している。
10年以上前に考えたことだが、仮説が少しずつ前へ進んだ気がする(^o^)。
しかし、この森の超高周波の正体は何か。おそらく無数の昆虫など生物体の出す音、鳴き声ではないかと言われている。風ではこんなに超高周波は出ない。
ということは、「癒される森」では、多くの生命体が棲んでいなければならない。熱帯雨林ではなく、日本の温帯林ではどうだろうか。そして人工林では……残念ながら生物多様性はぐっと落ちるだろう。これまで森の癒しの正体を、草木の出すフィトンチッドとか、木洩れ光の視覚効果とか、単なる運動療法じゃないの? とか、いろいろ言われてきたのだが、虫の鳴き声となると、一気に見方を変えなくてはならない。その森に虫がどれだけ棲息するか? 超高周波音は響いているか? これが大切になる。
森を利用した癒しとか、教育とか、療養効果とか、期待したいことはたくさんあるが、それを科学的に説明するのは難しくもどかしい。
Yahoo!ニュースに「超有用な外来植物の野生化が進む…日本の自然に影響はあるか」を執筆しました。
「外出自粛」が言われてから、ほとんど毎日出歩いているわけだが、そんなときに目に止まった、この紫の花。ヘアリーベッチと気づいて各地に観察に出歩くことになった。
そして、ああだこうだと考えつつ執筆したわけだが……実は本文に書いていない大きな事実がある (@_@)。
いろいろヘアリーベッチについて検索していると、意外なサイトに出会ったのだ。
なんと、奈良県のヘアリーベッチ、それも私が観察した大和川ほかの川が登場する。おお、先行研究があったのか、と思って執筆者を探したのだが、なかなかわからない。ようやくわかったのは、科学技術振興機構という国立研究開発法人が主催した、若者向けの研究のポスター発表のようだ。そして手がけたのは奈良教育大学付属中学生?であろうということ。
私が気づく4年前に、すでに奈良県内にヘアリーベッチが野生化して増えている報告があったというわけだ。ひえええ。中学生に負けた(笑)。もっとも、彼ら?は今は高校も卒業して大学生になっているかな?
その点を記事にも記そうとしたが、ちょっと助長になるうえ、研究者名がないので外した。だから、こちらに報告(^o^)。
まあ、ヒマな時は身近な動植物の観察して、いろいろ考察するのも面白いと思いますぞ。
しかし、改めてその増殖具合を確認して、そら恐ろしさを感じましたな。。そのうち、大問題に発展しそう。
3月の霞が関の農水省地下・三省堂書店のランキングが出た。
あああ、8位か。さすがに落ちてきたが、ここは林業本が出版後8カ月経ってもランキング入りしていると褒めておこう。
ちなみにAmazonのランキングは乱高下。品切れで視界外に去っていたが、ようやく入荷して先日はノンフィクション部門で1000番台だったのに、今夜は7000番台まで落ちているよ(涙)。
ところでAmazonを始めとするネット書店では、流通の負担を減らすため出入荷を絞っているそうである。そしてAmazonの倉庫でも底がつく。こうなると絶版扱いになりかねない。リアル書店も、なかなか開いているところが少ない(奈良では、大きめの書店はみんなショッピングモールとか百貨店などに入っているので、それが閉まると自動的にたどり着けない。)のだから、いよいよ紙の本は買いにくくなっているようである。しょうがない?のでブックオフに行ってしまう(笑)。いや、その前に購入してまだ読んでいない本が100冊以上自宅に積まれているのだから、そこから手を付けるべきか。
しかし、紙の本は生活必需品でないことを改めて思う。
コロナ禍は、世の中の「不要不急」性を洗い直す役割を果たしそうだ。同時に無駄な部分をそぎ落とすかもしれない。
そういえば食品ロスの量は、 17年度は推計約612万トンだったそう。これでも減ってきたのだが、各家庭から出る「家庭系食品ロス」約284万トンと、外食産業や食品製造業で出る「事業系食品ロス」約328万トンだ。家庭系の部分を国民1人当たりで見た場合、1年間で約48キロになる。やはり多いだろう。
しかし20年度になったら、多分事業系がガクンと減って、家庭系が伸びるのではなかろうか。ただし、生産現場(農業)で莫大なロスを生み出すかもしれない。出荷しなくても生育してしまう作物もあるから。
その調子で、木材の「不要不急」でのキャンセル量とかなんぞを計算してみてもいいなあ。ただし生産ロスは出ないようにできるはずだ。樹木は伐らなければ腐るどころかどんどん生長するのだから。いっそ、休養してその間に太くなった樹木の伐り方や製材・加工の仕方を研究しておくのが未来に備えることなんではないか。
林業全体が不要不急と言われないように。私も自身の執筆する記事の不要不急といわれないかと感じてしまう。
コロナ禍騒動が続く中、奈良のシカが取り上げられている。
最初はコロナウイルスが広がりだして、国の内外の観光客もシャットアウトされだした頃、「奈良のシカが鹿せんべいをもらえなくなったので凶暴になっている」という記事が出回った。
最初はSNSだ。私の見たのはツイッターだったが、一読「これはネタ」と笑い飛ばしたものだ。たしかに観光客が減ったら鹿せんべいを買って与える人が減るので、それ目当てに公園にたむろしているシカにとっては困る。そこに少人数の鹿せんべいを持つ人が現れたら群がってせがむ。その様子をユーチューブでアップしている人もいたし、鹿せんべいを欲しがるシカを「凶暴」という言葉で表現すれば笑えるのだろう。
私自身は、よくできたネタと思っていたのだが、それがネットで拡散され、そのうちテレビのワイドショーが取り上げ、さらにはニュース番組や新聞まで取り上げた。それも笑い抜きの「奈良のシカが凶暴に」である。この現象自体が笑える。
もっとも、すぐに奈良のシカ愛護会が声明?を出して、「鹿せんべいはおやつぐらいの役割しかなくて、主食の草や芝をたっぷり食べているから飢えていないし凶暴にもならない」と説明した。おかげで私は、Yahoo!ニュースに同じことをアップするチャンスを失った(笑)。
ところが、最近また取り上げられている。それも、今度は鹿せんべいが食べられなくなったから、シカが街の中まで進出してきた、という記事。
まあ、これもネタだろう(笑)。たしかにシカが商店街や駅前を闊歩したり、たまには店の中にまで入ってくることはある。アーケード内で雨宿りしているシカを見たこともある。また園を出て、群で駅前とか住宅街をほっつき歩いたり、ときに暴走することもある。が、それもコロナ禍とは関係のなく昔からの風景なんだから。
ただ最近は、あまりに観光客が増えすぎて、商店街も人通りが多すぎてシカが歩けなくなっていた。それが、コロナ禍のおかげ?で人通りがなくなったのだから、また進出し始めることもあるだろう。ちなみに奈良のシカは慢性的な餌不足でもあるので、餌となる草を探しに遠出することもあるはずだ。それはそれで可愛い奈良のシカの風物詩復活として捉えよう。
こうした記事がよく出るのは、みんな奈良のシカが人に依存して生きている、つまり飼育していると思っているからだろうか。鹿せんべいも必ず欲しがるものと想像しているのだろう。しかし奈良のシカは、あくまで野生だ。人には馴れているが、懐いてはいない。
だいたい今の季節は、もっとも新芽が伸びて、美味しい草が増えているとき。冬ならともかく、飢える心配はない。
私は、シカも鹿せんべいばかり食べたら栄養が偏って病気になるんじゃないか、と思っていた。鹿せんべいは基本的に小麦粉だからデンプン質であり、糖質と言ってもよい。またタンパク質のグルテンも含む。これは依存症になりやすい。人間も「グルテンフリー」を心がける健康法があるぐらいだ。
だから現状の奈良のシカは、(鹿せんべいを)食べたくても食べられないから鹿せんべい依存症から回復して、さらに散歩の距離も伸ばして、むしろ奈良のシカは健康になっているんじゃないか、と想像している。
コロナ禍のせいで自宅にこもり、インスタントのでんぷん・糖類が過剰な料理やお菓子ばかり食べ、運動不足になった人間より、奈良のシカの方が健全な生活を送っているかもしれない。
アメリカのCNNによると、医学誌に「都市部に木々を植えることが早死にの抑制につながる」かもしれないという研究結果を発表したそうである。その研究チームとはどこか、なんという研究者なのかに触れていないのだが……。
医学者もコロナウイルスの研究ばかりで飽きたんじゃないのか、と不遜なことを想像してしまった(笑)。
ともあれ今回の研究によれば、ペンシルベニア州フィラデルフィアで木陰の量を5年以内に20%から30%に増やせば、最大403人の早死にを抑制できる可能性があるとしている。それは年間40億ドル近い経済効果を生み出すとか……。草木の種類は触れていないが、今回の研究では樹木の方が良い影響があるらしい。樹冠が覆うと日射を遮り気温を下げる効果のあるからかと記しているが、私は目の前で草木を見るよりも上から緑に包まれている感覚が精神的によいと私は解釈したい。
ちなみに昨年の研究では、7カ国の800万人に行った調査によって、近くに緑の空間がある都市部の住人は早死にする可能性が小さくなるという結果を出したそうである。その続編か。自然を取り込むことがストレスの低減や精神状態の改善につながる可能性があるという。
別にこうした結果が出たことを疑うつもりはないし、批判もしないが、アメリカぽい研究の仕方のように感じる。早死にの人数って、どんな計算の仕方をするのか。合理主義社会の裏には、ロマン主義というか自然に対する過剰な期待が隠されているよう。
でも、これって裏返せば(緑の少ない)都会は健康に悪いという前提で語っているのではなかろうか。コンクリートばかりが目に入るような場所では、ストレスもたまるし、早死にしやすい……それに対してと緑を持ち出すわけね。
となると、普段から緑いっぱいの田舎では早死にしにくいのか。樹冠の下で働いている人はどうかとか、ツッコミドコロがいろいろある。
というわけで、今日も私は山歩き。通常のときよりよく出歩く。雨が降りそうな空模様なので、ザックに雨具を入れて、今日こそ道から外れないぞ、という強い決意を持って出発。
生駒山を越えて大阪側に越境し、県外に出てしまった。天候のせいか、山を歩く人は少なめ。途中見かけた人影は、トレイルランをする人のほかはトライアルバイクの一団か。こいつらは、いつ行っても群れてバイクを噴かしている。自粛の言葉を知らない。
ともあれ1時間半ほど緑の中にいたから、早死にしにくいはずだ、多分。
「外出自粛」の中、お出かけ。って、毎日出かけているが、今回はちょっと遠出して、橿原神宮とその隣の神武天皇陵。
コロナ禍、退散!祈願である(^o^)。
さて、この2カ所の森の写真。
上が神宮で、下が天皇陵。一目でわかる森の違い。
さて、なぜこんなに違いが出たのか、というのが問題だ。
といっても、両者の生い立ちを知らないとわからないだろうが、場所的には、奈良県橿原市で畝傍山麓。隣同士である。どちらも明治時代になって作り上げた神宮と陵。それまで集落があって言えや田畑畑のあったところに、強引に古墳と神社をつくった。そして、森を造成する。幾度か改造はしていて、神宮の森は最初松林だったが、昭和15年(紀元2600年)に大改造してカシの森にした。
ゼロから森をつくるというのは明治神宮と一緒で、事実、真似た部分もあるのだけど、今では明治神宮の森とかなり違うようになった。
参考までに、明治神宮の森の写真も付けておく。神武天皇陵の森に近いだろう。
Yahoo!ニュースに「輸出木材の保管費用もコロナ禍対策?輸出拡大をめざす農林産物の怪しげな内容」を執筆しました。
実を言えば、最初に問題視したのは有林水産物の輸出額を5兆円へ! の方だった。ただ農業や水産業は専門ではないので、Yahoo!ニュースにはどうするかな、と迷っていたところに「コロナ禍対策に輸出木材の保管費用」の項目を発見。
これは昨年の日本農業新聞の記事と合わせたらイケる、と踏んだ次第。
もともと統計の数字なんぞを読み取って分析するのは苦手だったはずなのだが、『絶望の林業』を執筆する際に七転八倒したので、少し馴れたかな。デスクワークでできる貴重な実証となるし。せっかくだから図表を。
同じ縮尺にしたら、5兆円が飛び抜けるので、多少変形してある。まあ、馬鹿げた目標値だねえ。
改めて林産物の額の小ささを実感。目標の中でも4%くらいしか占めない。ただ水産物の輸出額や内訳までは手が回らなかった。そこは残念。
相変わらずせっせと山を歩いているが、連休中は本当に人が多い。マイナールートでも先客ハイカーとすれ違ってばかり。
やはり、接触を避けるには道のないところを歩くしかない! というわけで道から逸れて斜面をトラバースして進む。
生駒山に関して言えば、道がなくてもわりと歩きやすい。なぜなら照葉樹林化が進んで、林内が暗くなり林床に下生えが少ないからだ。多くは低木にアオキなどがあり、その上にツツジやツバキが多い。そして高木のシイ・カシが広がる構造。コナラはナラ枯れでかなり減ったように思う。全体に森林の高齢化が進んでいる。一方で、昨今の台風などで倒木や土砂崩れを起こしたところも少なくない。倒木を避けたり乗り越えて進むのは、結構面倒だ。
それでも微妙な地形を読みながら自分の進む先に何があるか想像するのは楽しい。そして、何より他人と会わずに済む。
ところが、そんな中でも急に明るい一画がある。
一瞬、道路か何かで切り開かれているのかと思うが、何もない。というか、倒木が転がっている。数本の大木が倒れて、それで林冠が開いたのだろう。典型的な「ギャップ」だ。森の中に開いた明るい空間。そこには草や稚樹が生え始めている。森の新陳代謝。極相に近づいた森は安定するのではなく、ギャップができることで若返るのだ。暗い照葉樹林では生えにくい、下草や落葉樹の稚樹が芽吹く。
同じようなところをナラ枯れ跡地でも見かけるが、そう考えると台風やナラ枯れのような被害も、森林の若返りに必要なんだろうな、と思ってしまう。短期的には「荒れた森」も、長い目で見て「森の世代交代」現象で必要ではないか、と。
さて、ここを抜けてしばらくすると、尾根の山道に出て、すぐ生駒山山頂であった。ここには山上遊園地があるのだが、時節柄、休園。入園料は採らないので中に入れるのだか、当然ながら人気は少ない。見る人のいないところで花壇の花が満開になっていた。来客を迎えるために昨年から植えて育ててきたのだろうに。
遊具はみんな止まっている。駐車場と園地を結ぶケーブルカー「どんぐリス」は、今年完成したばかりなのに、一度も稼働させないまま休園だよ……。
でも、考えてみた。この休園も、長い目で見たら必要だったと言えるのかもしれない。いや、日本社会、世界の人間社会そのものが、コロナ禍のおかげで「立ち止まれた」という日が来るかもしれない。人類の世代交代、若返りのために。
本当に、とっておき秘蔵写真、というか文献。
こんなものが今頃出てくるなんて……『樹喜王 土倉庄三郎』を書き直したいと思ったほど。また、どこかで土倉家文献の紹介とか最新研究発表とか行えないかと思っていたのだが、これなんか目玉になるんじゃね?
某所で見つかった、土倉庄三郎が、いつどこに寄付したのかを記した目録だ。細かく寄付した年や金額を記している。しかも庄三郎の直筆の可能性が高い。
庄三郎が各所に膨大な寄付をしたことは知られていたが、これまで明確な証拠なり金額なりはわからなかった。『評伝』など二次文献に記されている以外の裏付けができないケースが多かったのである。一つは庄三郎自身が表に出るのを嫌って匿名の寄付だったり、文書(契約書や領収書)をとらなかったからだろう。
この目録は何のために記したかわからないが、どうも奈良県に自分の実績を示した上申書のたぐいではないかと想像している。つまり、これまでこんなに社会貢献してきたことを記して、何かの採択とか許認可などを受けようとしたのではないか。
明治27年までは記されているから、記したのはその少し後にしたためたように思う。
しかし、内容には新事実がてんこ盛り。吉野川の水路には1万5000円、大滝小学校には300円……から始まり、大阪の立憲政党新聞社に2万円、板垣退助の洋行費内に1万円、私学校芳水館に8000円。なかには川上村貧民施しに300円という項目もある。また新十津川村(現在の町)開拓祝いに1万円。同志社にも500円とあるが、これは大学開校資金とは別口のようだ。ほかにも道づくりや村に山林購入をさせたりと幅広く社会に還元している様子が浮かぶ。
価値は時代によって変わるが、ざっと2万倍にすると現在の貨幣価値に近づくと思う。たとえば1万円は2億円と換算すると、寄付の規模が想像できるだろう。
巷間伝わるものと額が違ったり、始めて知る寄付先も多数ある。残念ながら十分に読めないのだが、資料的には相当な価値があるはずだ。
先に吉野高校の林業博物館から発見された文書を紹介したが、まだまだ眠れる資料は発掘されそうである。これらを合わせると庄三郎のまた別の実像が浮かび上がるのではないか。
秘蔵写真第三弾……を考えていたが、今日は5月5日のこどもの日であった。
そこで、秘蔵というより、ちと変わった写真を。
パソコンの画像ファイルから見つけたのだが、かなり古い。データでは2004年に撮影になっている。
見た通り、樹上に架設したテントである。これって、究極の秘密基地ぽくて憧れないか?
叙情にあるテントとか宿泊施設的なものなら、いわゆるツリーハウスがある。完全な小屋タイプもあればデッキだけでそこに天幕を張る形式のものもあるだろうが、こちらの樹上テントは文字通り樹上空間に仮設したテントである。木に一辺一メートル程度の合板の板を持って上がり、それを木の枝に引っかけたザイルで吊りつつ、展開することでデッキをつくる。そしてテントを張るのである。
これ、原形は関西大学探検部がマダガスカル島のジャングルで行った樹上移動の際に開発したものだ。ただし写っているのは、そこに参加した大阪芸大探検部の入江さん。
樹上に上がるというと、一般にはツリークライミングを想像するだろう。それを応用したかアーボカルチャーも流行っている(こちらは仕事だけど)。それも面白いが、どうも身体を動かすスポーツ的な感じがして、私自身はもっとゆったりと樹上に滞在したい気持ちが強い。こんなテントで樹上生活を送る経験をしてみたいものだ。
ちなみに常設の樹上テントとしては、こんなものはいかがだろう。
樹上、というより宙ぶらりんのコクーン(笑)。四方八方からのワイヤーで吊ってある。入室するには梯子を昇るんだよ。
こちらは青森県八戸で見学させていただいた。でも、寝っころがると揺れます。それに仲に入ったら密室である。樹上に産みつけられた繭の中のサナギみたいな気分かしらん。こちらに泊まるのはちょっと抵抗あるな。もし真夜中にもよおしてトイレに行きたくなったら、真っ暗闇を梯子で下りなくちゃいけないんだよ。。。。まあ、それは樹上テントの方がもっと恐いけど。
こんな森林施設をつくったら、それなりに人気を呼ばないかなあ。でも、泊まりたい人が殺到するまでにはならないだろうな。世の人の多数派は安全第一だろうから。これを面白い!と思うか思わないかで、その人の子供心(子供だけでなく大人も)がわかる。
秘蔵写真公開、第2弾。
これは誰だかわかるだろうか。真ん中の女性が、新島八重。右が土倉龍次郎、左が土倉亀三郎である。明治14年に撮られたらしい。
新島八重、旧姓・山本八重については、そんなに説明はいらないだろうが、幕末・戊辰戦争で会津のジャンヌ・ダルクと囁かれる女性だ。鶴ヶ城籠城戦にも参加して、男装して狙撃兵として活躍、敵陣への夜襲もしたと伝わるが、敗戦後、京都に行ってそこで新島襄と結婚した。その点からすると同志社の母的存在だし、晩年は日清戦争で従軍看護婦の統括を努めたから日本のナイチンゲールとも言われる。
彼女は会津時代と新島との2回結婚しているが、どちらとも子供をもうけていない。では、この写真に移っている子供は?
彼らこそ土倉庄三郎の息子たちだ。次男龍次郎や3男亀三郎である。庄三郎は子供たちを新しい教育を受けさせるために同志社の新島襄に会い、その場で同志社大学成立に大金を寄付して応援を始めた。そのため新島は庄三郎に惚れ込み、息子だけでなく娘たちも受け入れる。
ただ新島自身は早くから病に倒れてしまった。その際に庄三郎へ手紙を書き、自分の死後の八重生活を面倒見てくれるようお願いした。その手段として、マッチ軸となる木を植えてその売上を当ててくれるようお願いした。またその植林費用は、息子娘たちの授業料でバーターする……というものだった。
さて、そんなわけで龍次郎と亀三郎も同志社に預けられたのだが、年頃は龍次郎10歳、亀三郎6歳である。どのような生活を送ったのかはっきりしないが、新島家が預かる形だったらしい。そして八重の世話になっていたらしい。八重は、二人の母親代わりとなるのである。(ただ亀三郎は女教師のところにいたという。なお娘たちも、アメリカ人宣教師に預けられた。)
ただ八重と息子たちはどうした関係だったかわかりにくい。庄三郎と新島襄の関わりはよく語られ文献なども残されているのだが。
この写真はその貴重な一枚。幼子にとっては母代わりだったのだろう。
八重は、襄の死後4人も養子を迎えるが、いずれとも親子の関係は上手くいかなかったようだ。疎遠になったり離縁している。一つは八重の気性の激しさもあるとか言われるが、果たして土倉兄弟とはどんな関係を結んだのか気になるところだ。
龍次郎は、晩年になって八重さんにサーカスへ連れて行ってもらい象を見たという思い出話を同窓会報に記しているが、果たしてジャンヌダルク(^^;)とどんな会話があったのだろうか。
連休と言っても、何の動きもなくて話題も少ない……。
ここは秘蔵?写真を紹介しておこう。
まずは、川上村の成瀬氏からいただいた明治時代の奈良公園、おそらく東大寺の参道の写真だ。
奈良のシカ、ナラシカは、今と変わらぬ姿でいたことになんか微笑ましい(笑)。
この写真は明治30~40年ごろと思われるが、実はこの直前までナラシカは酷い目にあっていた。明治になって赴任した県令が、ナラシカを撃ってすき焼きにしたり、馬車を牽かせたり、あげくは柵に閉じ込めて大量餓死に追いこまれたりしています。38頭まで減ってしまったとか。
ようやくナラシカ保護策が立てられたのは明治10年、そして12年に奈良公園が設立される。そこから徐々に数を増やして元の「町中をたむろするシカ」状態にもどっていったのだろう。写真の頃はナラシカの数も元にもどり、蛇の目をさす人の手から鹿せんべいを受け取るまでになっている。写真の左隅には、鹿せんべいが売られている模様だ。
このころは日本の歴史上、もっとも獣害が問題にならなかった時代だ。正確に言えば、明治30年~昭和40年ぐらいの間か。もっとも獣害が極端に減ったのは、野生動物が減ったからだけど。その中で保護されたナラシカは、もっとも平和な時代だったのかもしれない。
さて今の奈良公園、観光客がいなくなって鹿せんべいをもらえないから狂暴化しているという噂が飛び交っている。まあ、おやつがなくて苛立っているかもしれないけれど(笑)、今は草木がもっとも新芽を出す時期。食べるものに困ることはない。むしろ少し野性味を取り戻しているかもしれない。最近のナラシカは、ちょっと人に馴れすぎだったから。
ちょうど今年初の子鹿も生まれた。
相変わらず、毎日出かけている。外出自粛なんぞどこ吹く風、と出かける。
めざすは他人に会わない山。まあ、完全に誰もいない道は少ないのだけど、人のいないマイナールートを探す。これが毎日になると大変なのだ。メジャーな生駒山登山ルートや幾つかの森林公園内ルートは、常にハイカーが行き来している。まあ濃厚接触というにはほど遠いから気にしなくてもよいのだが、私自身が他人に会わないで歩きたい。結局、道のないところを歩くのが一番てっとり早いのだが……。
今回選んだのは、山というには低すぎて、しかも範囲も狭い矢田丘陵の北の端。標高は200メートル程度なのだが、結構谷が細かく、溜め池多い。そんな麓に隠れてある小さな寺の裏側から谷ををよじ登り、細い尾根をかき分けて行く。尾根には山道があったのだが、それが迷路のように枝分かれしている。でも、人影はゼロだった。
そんな山中をぐるぐる歩いて出くわした小さな溜め池。…そこで撮った写真がこれ。なかなかモネっぽくて水面の反射が美しい。
注目してほしいのは、中央付近に何か赤いものである。水面が新緑を写す中で赤いアクセントとなる影……。
これヒゴイ、つまりニシキゴイである。池野恋、じゃなく池の鯉なのである。少なくても2匹いた。かなり大物。体長は50センチ級だ。こんな小さな池(奥行き20メートル程度)にコイが複数いて、餌に困らないだろうか。もっとも、放されたのは今日昨日ではなく何年も生きているのだろうが。
しかし、この溜め池には川はなく、そこに魚類がいるのは当然人間が持ち込んだわけだろう。とくにニシキゴイだから自然界にいるわけではなく、誰かが放流したと思われる。自宅では飼えなくなって放したのだろうな。
ただ、この池にたどり着くのは、結構大変だ。かろうじて道はあるのだが狭い山道で、それも枝道だから、誰もが通るところではない。わざわざ、池に放そうと持ち込んだとしか考えられないだろう。
ちなみにコイは、基本的には外来種とされる。最も縄文遺跡でも骨が見つかっているから、ほとんど在来、自生と言ってよいのだろう。
ただ、コイは日本の自然を破壊していると言われる存在だ。外来種だからというより、非常に貪欲な食欲でなんでも食べるからだ。在来魚類はもちろん、水棲昆虫も食べてしまう。狭い水域に放すと生態系を破壊すると言われている。
ただ赤い色は目立つので、よく鳥に狙われる。我が家の庭の池に話していた大型の金魚は全部サギにやられてしまった。しかしこのぐらいの大きさのニシキゴイは、大きすぎて狙われないのだろうか。
小さな山の、小さな池の生態系。このニシキゴイは池の主になれただろうか。
Yahoo!ニュースに「アベノマスク納入業者の扱う木質ペレットから読み解く読み解く怪しげなバイオマス発電」を執筆しました。
これ最初に大失敗した。なんたってアップしたときのタイトルが「マベノマスク」になっていた(泣)。指摘されて大急ぎで直しましたよ。。。一瞬、区別がつかないけど、やっぱりマズいわ(笑)。
最近はYahoo!ニュースでも徐々にコロナ関連でない記事も増えてきた。一時期はランキング10位までほぼ全部コロナに関する内容だったからなあ。私は「輸入木質ペレット」の怪しさは以前より把握していたのだが、執筆チャンスをつかめなかった。一般論で書いても読者を惹きつけない。そこにアベノマスクに登場したユースビオが扱っていると知って、こりゃ書けるかも、と思った次第。
ところで我が家には、アベノマスク届かないなあ。心待ち?しているのに(⌒ー⌒)。
ちなみにマスクの効用については全然信用していない。このような記事もある。
日常生活でのマスクの着用は、新型コロナウイルス対策にどこまで有効なのか? いまも賛否両論の科学者たち
しかし買い物に出て見かける人の95%ぐらいの人はマスクをするようになってきて、こちらがしていないと相手を不安・不愉快にさせるかも、と思いだした。いわゆる伊達マスク、エチケットマスクである。しょうがないので、家を出ても車に乗っている間はせずに店に入るときだけすることにした。1日20分くらいだけど。
しかしそんな見かけのために高いマスクを調達するのもシャクだ。今のところは大昔からストックされていたマスクを使用しているが、アベノマスクよ、早く来いと思う。できればユースビオ輸入のものを求む。そこにアベノマスクと記そうかな。。。
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