新島八重と暮らした子供たち
秘蔵写真公開、第2弾。
これは誰だかわかるだろうか。真ん中の女性が、新島八重。右が土倉龍次郎、左が土倉亀三郎である。明治14年に撮られたらしい。
新島八重、旧姓・山本八重については、そんなに説明はいらないだろうが、幕末・戊辰戦争で会津のジャンヌ・ダルクと囁かれる女性だ。鶴ヶ城籠城戦にも参加して、男装して狙撃兵として活躍、敵陣への夜襲もしたと伝わるが、敗戦後、京都に行ってそこで新島襄と結婚した。その点からすると同志社の母的存在だし、晩年は日清戦争で従軍看護婦の統括を努めたから日本のナイチンゲールとも言われる。
彼女は会津時代と新島との2回結婚しているが、どちらとも子供をもうけていない。では、この写真に移っている子供は?
彼らこそ土倉庄三郎の息子たちだ。次男龍次郎や3男亀三郎である。庄三郎は子供たちを新しい教育を受けさせるために同志社の新島襄に会い、その場で同志社大学成立に大金を寄付して応援を始めた。そのため新島は庄三郎に惚れ込み、息子だけでなく娘たちも受け入れる。
ただ新島自身は早くから病に倒れてしまった。その際に庄三郎へ手紙を書き、自分の死後の八重生活を面倒見てくれるようお願いした。その手段として、マッチ軸となる木を植えてその売上を当ててくれるようお願いした。またその植林費用は、息子娘たちの授業料でバーターする……というものだった。
さて、そんなわけで龍次郎と亀三郎も同志社に預けられたのだが、年頃は龍次郎10歳、亀三郎6歳である。どのような生活を送ったのかはっきりしないが、新島家が預かる形だったらしい。そして八重の世話になっていたらしい。八重は、二人の母親代わりとなるのである。(ただ亀三郎は女教師のところにいたという。なお娘たちも、アメリカ人宣教師に預けられた。)
ただ八重と息子たちはどうした関係だったかわかりにくい。庄三郎と新島襄の関わりはよく語られ文献なども残されているのだが。
この写真はその貴重な一枚。幼子にとっては母代わりだったのだろう。
八重は、襄の死後4人も養子を迎えるが、いずれとも親子の関係は上手くいかなかったようだ。疎遠になったり離縁している。一つは八重の気性の激しさもあるとか言われるが、果たして土倉兄弟とはどんな関係を結んだのか気になるところだ。
龍次郎は、晩年になって八重さんにサーカスへ連れて行ってもらい象を見たという思い出話を同窓会報に記しているが、果たしてジャンヌダルク(^^;)とどんな会話があったのだろうか。
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