村尾行一先生、逝去
村尾行一先生(愛媛大学客員教授、ほか)が昨日亡くなったという報が入った。御年85~86歳である。
9月頃に愛媛に行く予定があるから、会える時間は作れるかな……とぼんやり考えていたのだが。突然の報に呆然としている。
本ブログでも、村尾行一氏に関しては、幾度となく記してきた。一つは著作の紹介だが、私にとって林業学の師である。もっとも影響を受けて、森林ジャーナリストへの道を歩むきっかけを作ってくださったと言ってもよい。
調べただけで、これだけ。ほかにも、いろいろな話題で村尾行一氏には登場いただいているはずだ。
改めて私との関わりを少し紹介すると、私は大学を卒業してから『山村のルネサンス』を読んだ。ショックだった。学生時代、林業の何を学んでいたのだ? と思うほど。林業とは森林生態学と社会学、そして経済学を統合して実学化したものなのだと悟った。すでに社会人になって、当時の仕事は林業とも森林とも縁遠かったが、いきなり(精神的に)時代を遡って、改めて森林学を学び返す決心させるものがあった。
この本(山村のルネサンス)で語られている中でも、ガツンときたのは焼畑だ。一般には熱帯雨林の破壊を進める原始的農法とされていたが、非常に精緻な技術体系であり、アグロフォレストリーであり、焼畑が林業をつくった第一歩……などと知った。そこで私は焼畑を見て聞いて体験するために、日本に限らずボルネオまで歩いたのである。
初めてお会いしたのは、私はすでに森林ジャーナリストとして独立してからだ。(当時、この肩書は使っていなかったけれど。)
宮崎県が中国に木材輸出する様子を取材するために日向を訪れて、そこで出会った。実は木材輸出の仕掛け人の一人が、村尾氏だったのである。相互造林という会社と組んで現地調査を行っていたのだ。
初の出会いは緊張したが、「山村のルネサンス」の話を持ち出すと「あれは悪書ですよ」と言われてしまった(笑)。
それでも、いろいろ林業に関して質問をしたが、ズバリズバリと返され、こてんぱんにやられた。村尾節というか毒舌に巻かれるがごとくの洗礼である。それでも、不思議と腹が立たなかったというか心地よかったのである。
その後も幾度かお会いしたと思うが、本格的に再会したのは、上記のリンク先にもある谷林業の勉強会である。
そして2018年に、奈良県知事の肝入りでつくられた新条例づくりの検討委員会で同席した。そもそもこの委員会は、知事が『森林業』を読んで奈良県の森を根本的に変えたいと組織したもの。そして私も委員に加えていただいたのだが、村尾氏と席を並べることになるとは思いもしなかった。
実は『森林業』の出版に関しては、私が版元につないでお手伝いした経緯がある。ともあれ、委員会のおかげで2か月に1度くらいの割合でお会いするようになり、しかも委員会は延長されて2年間も続いたから、わりと会う回数を重ねたことになる。
この頃には、村尾氏は毒舌は吐くが、なぜか私に関しては優しくなった。それどころか褒めちぎる。思わず「それって褒め殺しですか」と言い返すほどであった……(^^;)。
ともあれ、委員会は昨年末に条例案を出して終わり、懸案の新条例は今春成立した。いよいよ本番なのである。奈良県フォレスターアカデミーも来年より始動する。改めて指針を考えようじゃないか、という話もあった。その矢先の訃報である。
思わず書きなぐってしまったが、村尾氏についての記憶と語りたいことが頭の中に溢れ出る。私は何をすべきか考えがまとまらない。
合掌。
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