小笠原諸島で見た陣地
今年6月に大学探検部の後輩が亡くなった。そこで追悼集をつくる話が進んでいるのだが、彼に関わる(探検部時代の)もっとも大きな思い出は小笠原諸島だ。探検部の遠征は、都合6度も行われたが、彼はその大半に参加している。
彼が写っている当時の写真を探していたら、奇しくも戦争遺跡がいくつも浮かび上がった。
今は観光開発が進んでどうなっているか知らないが、40年前の小笠原諸島は、まだまだ手つかず(というか、戦後も放置され続けていた)の地域が多かったのだ。道端にトーチカが普通に並んでいたし、地下壕もいたるところにあった。それらを探索するのも「探検目的」の一つだった。
そんなトーチカに私は一つ一つ潜った。上記の写真は、まだ入口が大きいが、なかには這いつくばらなければ入れないところも多かった。そして、多くは内部に、戦時の残骸が転がっていた。
同じ諸島の一角である硫黄島で死闘が行われたのは知られているだろう。島には数千の兵がこもっていが、硫黄島の状況を知りつつ、次は自分たちかと観念していたのだろう。
ちょうど父島の洲崎飛行場沖の海底に、零戦?らしき残骸が沈んでいることを新聞に報じられていた。特攻に飛び立った機体だろうと記されていた。ここから硫黄島の米艦隊に向けて出撃したのだろうか。
高射砲が転がっていた海岸もあった。もしかして、崖の上の陣地から破棄されたのだろうか。
さらに岩山に登ると、その山の中にも地下壕が掘られていて、その奥に進むと、なんと岩壁に窓が設けてある。そこから覗くと見えるのは……
美しい海と海峡だが、ここから通交する敵船に砲撃する魂胆だったのだろうか。まあ、1発撃ったら、すぐに砲台の場所がバレて、艦砲射撃で全滅させられていただろう。
トーチカ内にしばらく佇んで外を伺う。じりじりと暑い。虫が這う。南国の風が吹く外とは、隔絶した空間。学生の私は、その時何を考えたのだろう。
せめて、単に歩いて見て回る「探索」だけでなく、きっちり調査して場所と内部の目測図でも描いていたら貴重な戦跡記録になったのに。学生時代がもったいない。多分、小笠原には全長十数キロに渡る地下壕が張りめぐらされていたはず。地下の戦いを想定したのは、硫黄島だけではないのだ。
そんな75年以上前の遠い過去と、40年前の少し近い過去を思い出す終戦記念日。
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