伊能嘉矩と後藤新平の台湾森林
岩手行の中で見てきたのは、河童に天狗、あるいはおもちゃ美術館だけではない。隠された収穫を。
訪れた遠野市立博物館は、市立のわりに規模も内容も充実しているが、扱うのは遠野物語の怪異や妖怪だけではなかった。
たまたま、これまでの刊行物の一覧を見ていたら「伊能嘉矩」文献が並んでいたのだ。伊能嘉矩(いのう・かのり)は、人類学者でとくに台湾の先住民族の研究で知られているが、実は遠野出身だったのだ。そして、帰国後は遠野の研究にも携わっていて、柳田國男とも懇意な関係だ。
伊能は、1895年の日本の台湾領有直後に渡り、全土を渉猟して多くの少数民族の集落に分け入って調査している。膨大な文献もあるのだ。
私は、台湾に同時期に渡った土倉龍治郎の足跡を調べているが、残念ながら彼自身の行動記録は非常に少ない。何も記録をつけなかったらしい。しかし、全土、それも山岳地帯を隅々まで歩いたとされる。しかしどんな風景を見たのか、どんな人物にあったのか、どんな体験をしたのか、まったくわからないのではつまらない。そこで同じく台湾の僻地に分け入った人の記録から当時の台湾山岳地帯がどんな状況だったのか類推していこうと思っている。そして目をつけたのが、伊能嘉矩や森丑之助などである。彼らはほぼ同じ時期に台湾に渡り、山岳地帯に住む先住民族たちに会っている。とくに伊能の記録は詳細に残されているから貴重だ。その伊能嘉矩が遠野出身だったとは。
実際、遠野市は台湾大学と交流して、幾度もセミナーを開いているらしい。
その一つ、この文献を購入。2017年が生誕150年だったらしい。ちなみに龍治郎は、今年が生誕150年だ。ということは、年齢的には3つしか違わないわけか。この二人、おそらく出会い、交流していたはずなのだが、今のところ証拠は見つかっていない。どこかに資料が眠っているのではないか。伊能は、自宅の離れに「台湾館」を設けて収集した資料を展示していたというが……。
残念ながら遠野市図書館の郷土資料室は、コロナ禍のため閉鎖されていて、伊能文献を確認することができなかったのが残念だ。
ところで岩手から帰宅して、少しリラックスしようとブックオフに入って本を眺めている(これが、私の娯楽 笑)と、「後藤新平 日本の羅針盤となった男」(山岡淳一郎著 草思社刊)を発見。こんな本が出ていたのか。
後藤新平が、台湾総督府の民政長官として辣腕を奮ったことはよく知られている。実は、彼も岩手出身だった。そして、伊能嘉矩と昵懇だったようである。ちなみに後藤と土倉龍治郎もお互いよく知っている。後藤が龍治郎の事務所に来た記録は残されている。
本の方は、まだちゃんと読んでいないが、パラパラとめくると「笑いと涙の阿里山踏査」という項目があった。後藤が阿里山に登ったとは知らなかった。そしてその一行には伊能嘉矩も含まれているのだ。とにかく10日間ほど山中を踏査したそうである。「笑いと涙」のエピソードはともかく、そこにこんな描写がある。
「ヒノキの巨樹を筆頭に、ざっと見積もって針葉樹7万6000本、広葉樹37万5000本,毎年相当量を伐採しても80年分の需要を充たし、5億円の価値があると見積もられた」。
この本数は、どんな推定をしたのだろう。まあ、いい加減と思うが。そんな巨樹を80年で伐り尽くしたらアカンがな、とは思うが、当時は無尽蔵のイメージがあったのだろう。明治時代の5億円だから、現在の1兆円ぐらいの感覚だろうか。
ちなみに、後藤新平の一行の写真が、上記「伊能嘉矩」文献に載っていた。
実は、10月に再び台湾へ渡る予定だったのだが、台湾は日本のコロナ禍事情を見て、日本人観光客の解禁を取り消した。おかげで、行けなくなった。せめて、こうした文献を読んで過ごすかなあ。
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