19世紀、台湾の山岳地帯ははげ山だった
「帝国日本の近代林学と森林植物帯」(執筆者は、米家泰作氏と竹本太郎氏)。という論文に目を通した。具体的には日本が台湾を領有して行った山岳調査の記録をひもといたものである。
登場するのは、斎藤音作と本多静六。二人は同い年で東京山林学校で学んだ日本最初の林学者だ。斎藤は官僚に、本多は研究者の道を歩んだが、日本が台湾を領有した直後に、斎藤は現地の署長として赴任。そこへ本多も調査だ、と押しかけている。
で、1896年11月、当時のモリソン山、その後の新高山、今の玉山への登山を試みる。もしかしたら世界初の登頂になるかもしれない……と。実際に日本では、わりと新高山を最初に登ったのを本多静六とする説が流布している。(もっともその直前9月に登った長野義虎や10月の鳥居龍蔵、森丑之助……といった面々がいるのだが、それは別の話。)
ただ、これを読んでいると、なんと本多はベースキャンプで発熱して休養をとり、山頂アタックには参加していないと書いてあるではないか! それなら斎藤はともかく、本多は登頂者でさえない。ええ加減だ。
そんなことより、私が気に留めたのは、記録には先住民(いわゆる高砂族)の集落の上は茅ばかりで、木がないとあることだ。その後、高地に登っても疎林と草原しかない。先住民が火入れをしていることも聞き取っている。焼き畑であり、シカなどの獲物を取るために見通しをよくするためだった。かなり上まで登って、ようやくスギやヒノキ、トウヒ、ツガなどの巨木林が登場する。
しかし、その頃までの台湾は清国支配だったとはいうものの、山岳地帯と先住民社会は放置状態であり、中国人が開発して木を伐ったということではない。植生が荒れていたのは先住民によるのだろう。
なんだか未踏の大森林を進んで未踏の山に登ったイメージがあったが、あまり森林はなかったらしい。そして森林限界を超えて岩の山に入って山頂にたどりつく。なかなか面白い記録だ。
日本だって当時はそうなのだが、山といえばはげ山なのだ。江戸時代から山の木は過剰に採取され、明治に入って一基に収奪が進んだ。木材を得るためというより燃料として伐採が進んだのだ。近代化とともに開発が進んで森林がなくなったのではなく、生活のためだったようである。
ちなみに土倉龍次郎の台湾写真を発掘した際に、山の写真は意外と草原が多かった。龍次郎が台湾に渡ったのは1895年であるから、斎藤・本多とほぼ同じ。
この写真には、阿里山ソーロガナ頂と記載がある。阿里山と言えば大森林と思いがちだが、このとおりはげ山が写っている。
歴史的な森林破壊の流れを再認識すべきだろう。森は近代化直前に破壊され、近代化と経済発展によって回復する、という仮説が台湾でも立てられそうである。
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