誤読の神様。またはバカの壁をやぶるアホの論理
私が書いた文章(しゃべったことも)が誤読・誤解されるのは、よくあることだ。これは私だけでなく、すべての文書、すべての発言は常に誤読と誤解にさらされている。それを私は覚悟している。
誤読をなくすのは不可能だと諦めている。だから、たいていの内容は無視するのだが、今回は驚いた。
太く育った木は生長を止めてCO2を吸収しなくなるので、伐って材木として使うのがよいと森林ジャーナリストの田中淳夫さんが『絶望の林業』で書いている……とTwitterで記されたからだ。偶然というか、『虚構の森』について誰かつぶやいていないかな、という気持ちでエゴサーチして発見した。
さすがに、これは誤読の枠を外れている。まったく正反対なのだ。『絶望の林業』ではバイオマス発電の項目などで、老木が生長しないという嘘や、木製品が炭素を溜めるから木を伐ってよいという発想のおかしさを指摘している。別の本と勘違いしたのかとも思うが、どこでどう解釈したのか。ちなみにこの点は、『虚構の森』ではたっぷり解説している。そもそも、この意見は林野庁の戯言である。まともな論理指向のできる理系人間ならすぐ見破れる嘘だが、何も疑問に思わぬ官僚の恐ろしさよ。
さすがにツイートは間違いを指摘して削除されたが、ちょっと心配になる。ここまで誤読することは珍しくないのでは……世の中には誤読の神様がいるらしい。人は自分の知りたい情報、思い込んでいる情報に合わせた内容を「読んだ」と理解するのか。
これは古くは養老孟司の「バカの壁」で指摘されたことで、最近では「正常性バイアス」とか「確証バイアス」などの心理学用語・脳科学用語で説明されることが増えた。いかに正しく伝えようと細かく説明しても(いや細かく説明すればするほど)、そんなややこしい部分は目に止めず、自分の知りたい内容に変換して理解したつもりでいてしまう。ネットでは特に多く、炎上も生み出す。
ある意味、論理性では解決しない。論理を振りかざせばかざすほど、無意識に拒否されかねない。人は根本的に論理に反感を持つのかもしれない。信じたくないものはフェイクとする。
むしろ感情的に伝えた方がよいのかな、とも思う。喜怒哀楽で、結果を誘導した方がマシ?
とはいえ、論理のない感情で意見が左右されるのも困る。
そこで相手の「バカの壁」に驚きという感情を励起する論理をぶつけて破壊することはできないか……そう考えたのが、「異論から考える環境問題」であり、書いたのが『虚構の森』(新泉社)である。でも、読まれないことには、どんな壁は揺さぶれないのである(> <;)。
やっぱりタイトルは、『バカの壁を破るアホの論理』とかにしておいた方がよかったか。面白そうという感情で、手にとる人もいるかもしれないから。
写真は、平城京の貴族が履いていた靴。これで歩くと痛そうだ。本文とは関係ないけど、驚きを与えようかと思って……(笑)。
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