津田梅子と土倉政子の接点
朝日新聞の別刷「be」の中に「はじまりを歩く」という見開きの巨大連載記事がある。ここに土倉庄三郎が登場していた。
実はこのコーナー、以前「割り箸」の「はじまり」を紹介する中で、拙著『割り箸はもったいない?』に少しだけ触れていたことがある。そのことは本ブログでも紹介したが、私的には第2弾?
今回は、女子高等教育の始まりの物語を取り上げていて、その中心は津田梅子と津田塾大学。そして後半が日本女子大学だ。
その日本女子大の創設に関しては、当然成瀬仁蔵を紹介しているのだが、そこに広岡浅子が登場する。が、それに付随して庄三郎の名が。
読めるように拡大したものを添付する。
ちゃんと成瀬に広岡を紹介したのが庄三郎と書いているのは喜ばしい。朝ドラ「朝が来た!」でさんざん広岡浅子が登場した際に、全然土倉に触れていないのはケシカランと私は随分アチコチに書きまくったものだが、ようやく触れるようになったか。広岡の功績をおとしめるものではないが、同じように支援をした土倉庄三郎を無視してはイカンだろう。そもそも女子教育に対する思い入れは、娘を梅花女学校、同志社女学校に入れた時期から強いのだから、浅子より早いほどだ。
そして、もう一つ重要な点として、津田梅子との接点がある。
津田梅子は日本で女子教育を行うために1889年にアメリカのプリンマー大学に二度目の留学をしている。なんと大学と交渉して授業料と寮費の免除を勝ち取っている。そこで出会ったのが土倉政子なのだ。政子は1890年に渡米した。私費留学生である。当然、庄三郎の援助があってだが……年間7000円とか、今なら1億円近いのではないかという仕送りを受けていたらしい。
残念ながら政子と梅子はどんな関係であったのかは記録が見つからない。梅子の留学は1年間だけなので滞米期間はすれ違い気味だが、わずかな日本人女子なのだから、会ってないわけはないのだ。政子はそれから7年間滞在し、97年に帰国する。梅子は帰国後学校づくりに奔走し1900年に女子英学塾を開くが、その準備期間が政子の帰国と日本女子大の設立運動と重なっている。政子が梅子の活動を知らぬわけではないだろう。ちなみに日本女子大学校が創設されるのは1901年だ。もっとも政子は99年に外交官の内田康哉と結婚しているのだが……。
津田梅子の伝記や研究書に目を通して二人の接点を探してみようと思っているが、誰か知りませんか。あるいは代わりに読んでくれ(^^;)。私は読む本が溜まっていて悲鳴を上げているです。。。
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土倉家の詳しい記述は本井康博先生の「新島襄の師友たち」「新島襄の教え子たち(出身地別)にあります。津田梅子と土倉政子の交流は「新島襄の師友たち」のP297にあります。
投稿: 津田道夫 | 2023/11/11 11:50
ありがとうございます。上記の本は確認済みです。たしかに二人は交流していたはずなのだけど、肝心の中身が具体的に見えないのが残念なんです。
どんな会話をしたのか。帰国後も出会ったのか。
なかなか記録には出てこない。政子のアメリカ滞在中の日記(英文)もあるのですが、梅子が登場しないんですね。
もしかして、境遇の差から、仲が悪かった?とか想像してしまう(笑)。
投稿: 田中淳夫 | 2023/11/11 13:31