『森林列島再生論』で知る林業のダメさ加減
日経BP社より出た『森林列島再生論』読了。各所でよく広告を見かけるので、版元も力を入れているのかな、と思う(^o^)。
まず目次を示そう。
グラビアとはじめに
森林列島を巡る旅を始めるにあたって
第1章 森林列島再生論序説
第2章 森林と建築をつなぐ
第3章 木材と建築生産、情報システムをつなぐ
第4章 森林と金融をつなぐ
第5章 森林とエネルギーをつなぐ
第6章 森林とサプライチェーンをつなぐ
第7章 森林列島を巡る旅を終えて
おわりに
Amazonにも、かなり詳しい内容が記されているので、参考にするとよい。
その上で記すのだが、タイトルに「再生論」とあるように、日本の林業を立て直すにはどうすべきか、ということが論じられている。だが、まず読むべきはその前の現状の日本林業の分析である。そのダメさの理由がよく描かれていて面白い(^^;)。
とくに建築の分野からの指摘は、耳の痛い人も多いのではないか。たとえば無策の象徴として取り上げるのが、梁や桁といった横架材のほとんどが輸入材に取られている点。主に強度の問題ではあるが、それはもっとも高く売れる商品を国産材は逃していることを意味する。国産材が担っているのは、そのほかの安い部材にすぎない。そして仕口だけのプレカットは、歩留りを落として木材全体の価値を下げてしまう。さらに大工に頼った施工図の限界……。
金融の説明は白眉。前半の森林経営における経理・金融に関しては林業関係者なら絶対に知っておくべきだろうが、一般人はスルーしてもよいかと思う。しかし後半のキャッシュフロー予測による「売り手市場への転換」は外せない。現在の買い手市場こそが、日本林業の問題点であることを浮かび上がらせる。そして要は情報であることに行き着くのである。苦境と言いつつ、素材生産や運送、製材、プレカットは赤字ではないのに、林業(森林と山主)だけにしわ寄せがあり赤字をかぶるのはなぜか。結局は情報の差なのだ。
金融力で森林の未来をデザインできるか、という項目は、改めて金融の視点の重要性を感じさせる。
さて、それらを踏まえての「再生論」は、著者の手がける「大型パネル」という建築構法の転換に行き着く。その点は、私もすでにYahoo!ニュースに記しているから、そちらをどうぞ。
国産材の有利さは「場所メリット」だ、という指摘は、まさにその通り。それしかない、と言い換えてもよい。国内で利用する場合、国産材は距離の強みがあり、それは時間の強みでもある。消費者の要望にスピーディーに対応できることこそが、国産材がメリットだ。そして場所メリットを活かすには、建築情報と森林資源情報を連結させる必要があるとわかるだろう。
本書では、3本の矢を示している。
3本の矢を放てば、森林が数百兆円の国富となる
① デジタル技術による国産材サプライチェーン1000カ所構築
② 木材を廃棄せず、木質バイオマス燃料に安定供給
③ 丸太や製材ではなく、サッシ、断熱材を組み込んだ木造建築部品として輸出
再生に必須なのは、やはり情報であり、サプライチェーンマネジメントの構築なのである。バラバラの動きは、全体の利益を削ることにほかならないのに、なかなか連係しないというかお互いを疑心暗鬼に見ている林業現場にある。
この点については、私は20年も前から様々なチャレンジがあって、ことごとく失敗してきているのを見てきている。そして絶望している。だが著者らは「大型パネル」でなし遂げようとしているのだ。少なくても建築側は協力的になってきているようだ。林業側は? そこで指摘するのが、国産材業界の閉鎖性。それを用語の特殊性で部外者を拒否しているとするのは、なかなかの見立てである。私は「業界脳」と一括しているが。
私としては、本当に機能するかどうか、もう少し推移を見守りたい。
ただし木質バイオマスエネルギーに関して、私はまったく期待していない。いや、無駄と思っている。その理由を書き出すときりがないのだが、実は答は本書にある。木質バイオマス燃料を安定供給するために必要な条件として上げられているものが、ことごとく非現実的だからだ。全木集材のために架線集材をしようとしたら100ヘクタール単位の伐採地が必要になるだろう。乾燥のために半割して桟積みしようとするとどれほどの労働強化か。さらにチッピングのためのエネルギー損失。何より価格が引き合わない。FITによる電力価格吊り上げも眉唾なのだ。20年後にはバイオマス発電所はコスト割れとなるから廃墟になるか、税金投入するかのどちらかである。そのどちらもがクズだ。
ものになるのは、せいぜい小規模な熱利用と自家発電ぐらいだろう。
林業の再生を考える場合、何よりの課題は人材だろう。実は機械などのハードやシステムなどのソフトを替えるのは難しくないし、すでに進んでいる面もある。が、それを運用する人間の問題が大きくかぶさってきている。新しい試みへの抵抗勢力や、とにかく補助金しか興味のない発想。それを日本の現場が克服できるかどうか。私の言葉で言えば、「業界脳」を払拭できるかどうかにかかっている。
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不可能と思っています。このような事ができるのならばとうの昔にできていたはずです。なぜできないのかといえば、その仕組を構築する主体、つまり国の執行機関(行政)がそれを邪魔している張本人ですから。
今の行政機関は長期間の展望に基づいて何かを成し遂げるのではなく、次年度の予算を獲得するだけの機関に成り下がっているためです。無駄な予算の獲得そして消化するために関係団体との協調は重要です。その狭い中で持ちつ持たれつ、その結果は今の国力の低下として現れてきています。
国としてどうするかという時代は終わり、一部の生き残りを模索したほうが少しは可能性があるのではないでしょうか。
投稿: フジワラ | 2022/09/08 08:49
行政機関は、長期の国の展望よりも自身の人気の数年間を優先しますからね。でも、林業家もほとんどが展望なく、目先の補助金に群がっているのだから同罪でしょう。
今後生き残るのは、産地や規模ではなく、当人の「将来を見る目」で区別されていくと思います。
投稿: 田中淳夫 | 2022/09/08 10:00