人は森が好きだ、緑を見ると癒やされる……とまあ、自明の理のごとく繰り返されるのだが、それはなぜ?
そんな疑問を持っていた。実際、それに疑問を呈した記事を書いたこともある。何も森で癒やされることを否定したいのではなく、緑に惹かれ、森を愛する気持ちを論理的に説明できないか、という思いからであった。
そんなときに見つけたのが、こちら。
なぜ人は自然が好きで自然に癒されるのか?に関する進化的な仮説を提案した論文の日本語解説
これはイギリスの論文https://besjournals.onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1002/pan3.10619 を翻訳したものだが、訳したのは、千葉大学園芸学部の深野祐也氏。
結構な長文であるが、面白かった。まだ精読にはほど遠いが、あえて紹介したい。
バイオフィリア(自然愛)仮説では、進化の結果として、人間には「生命や生命に似たプロセスに注目する生得的な傾向」があり、「情動」と「魅力」というふたつの心理的反応がそれらと結びついていると仮定しています。そして「情動」と「魅力」は、ストレス軽減理論と注意力回復理論という2つの仮説の基礎となりました。どちらの仮説も、ポジティブな心理的感情(=ストレス回復理論)や魅力(=注意力回復理論)を呼び起こす自然の景観やその要素には、人間の生存や繁殖に役立つ生息地の手がかりが含まれているという進化的仮定に基づいています。
しかし、この両仮説には問題点も多い。
これまでの膨大な研究結果は、ヒトは、景観の種類に関係なく、「緑のある景観」に対するポジティブな心理的反応を持っていることを示しています。例えば、人為的に作られた農業景観、屋内植物、人工芝、仮想現実における自然の眺めに対してですら、私たちはポジティブな心理的反応を示します。これらの知見は、ヒトが安全なシェルターや食料資源に関連する特定の景観要素ではなく、様々な種類の「緑」に対してポジティブな心理的反応を示すことを示唆します。この「緑」の強い効果は、ストレス軽減理論と注意力回復理論では説明できません。
そのうえで新たな「緑仮説」を提唱している。
私たちは「人間は緑の有無を干ばつの手がかりとして使った心理システムを進化させた」と考えます。干ばつによる長期的な水不足は、人間を含むすべての生物の生存と繁殖に深刻な生態学的影響を与えます。 干ばつが長く続くと、多くの食用となる植物が枯れ、狩猟採集生活を営む人間にとって重要な食料資源である草食動物が死んだり移動分散してしまいます。そのため、極端な干ばつ期と湿潤期は、初期の人類進化における重要な環境要因であったことが示唆されています。実際、深刻な干ばつはヒトの栄養状態を悪化させ時には大量死をもたらすので、人間の身体的・心理的形質に対して強い選択圧として作用したと予想されます。実際、現代において、厳しい干ばつの間、乾燥・半乾燥地域の狩猟採集社会の人々では飢饉や感染症による死亡率が高くなるという報告があります。
なるほど! 「干ばつの不安」から「緑の安心」へと結びつけたか。これも生存に関わることから心理的に大きく焼きついたことを想定できる。
詳しくは、この記事、さらに原論文を読んでいただければよい(私は、まだまだ)が、こうした進化心理学という分野があることに感動した。この論文は、何か実証的な実験などをしたのではなく考察したという次元ではないのかとは思う。いわば進化論と一緒で再現性はない。
しかし、人の心がいかに作られるかという命題は、実に気になる。
そして、最大の命題は以下の部分かもしれない。
緑がある地域に住む人に比べて、砂漠や北極圏に住む人々の方が、緑を経験した時のポジティブな心理的反応が強いと予想される。この考え方は、緑の少ない都市住民と緑の多い農村住民の対照的な予測の、より極端なケースと言えます。
そのような環境では、緑の量の変化に対して心理的反応を示さない人々が自然淘汰で有利になり、緑の喪失/回復に対するポジティブ/ネガティブな心理的反応が適応的に失われている可能性があります
これは、最初に記されている「・都会の人工的な緑には大きな保護運動が起きるのに、地方の貴重な自然はあまり見向きされないんだろう?」という私の大きな疑問というか、憤りにも関わる(笑)。
そのうえで、以下のように緑だけでなく水辺や砂漠についても記す。
緑と同様に、水辺に対する迅速で肯定的な心理的反応は、身体活動を活性化させる適応的な機能を持つ可能性があると予測できます。
「緑」を好む人間の心理的傾向は、魅力的でないけれども希少なハビタット(湿地・沼地・干潟・砂漠など)の保全を困難にしている理由かもしれません。
今後は、私が熱帯ジャングルに憧れるのはなぜなだろう、という考察もしてみるか。
最近のコメント