連日の猛暑で「危険な暑さ。不要不急の外出は控えましょう」なんて天気予報で言っている。実際私も、このところあまり出歩かずに、多少とも身体を動かす場としてはショッピングセンター内を歩き回るぐらいになっていた。
これはイカン。本当に「危険な暑さ」なのか、危険な状態とはどんなものか、何も疑問を持たずに従うのは思考停止だ。それなら「危険な暑さ」を体験してみようじゃないか。そう思って裏山に登ることにした。
とまあ、こんなあまのじゃくなことを思いついたのは、このところ「身体言語」について考えているから。
私も常日頃から、「現場至上主義」を批判している。報道やルポルタージュの世界では、つい「現場に足を運べ」「現場百編」……とかいう。だが単に現場に行けばいいわけじゃない。それでは幽霊を見た、だから霊界は存在する。UFOを見た、だから宇宙人が地球に訪れている……というのと同じだ。その幽霊の正体とか、UFOに相当する現象は何が引き起こしたのか、怪奇現象があったとしても、それと宇宙人をなぜ結びつけてるのか……と考える知識と思考がいる。
一方で、机上で自らの習得した言語だけで考えればよいのか、という点でも疑問を持っている。理論物理や数学ならいざ知らず(いや、それだって実験や観測結果を元にしているだろう)何らかの脳内思考とは別の言語で思考しなければならない……と思う。
それは言葉で紡ぐ理屈ではなく、体感もしくは外野の情報を修得することで生み出した言語と思っていて、それを身体言語と呼んでいる。
その身体言語を身につけるためには現場に行かねばならない。新たな身体言語を身に感じさせるのだ。
たとえば木を伐るのは自然破壊か、という命題に対して、現場で木を伐ってみると、その一帯に光が差し込むかもしれない。そして数か月後、そこに見知らぬ草花が咲くかもしれない。それを五感で感じたうえで言語化を試みる。伐られた木は死ぬかもしれないが、新たな生命を芽吹かせるかもしれないと感じることで「木を伐る」=自然破壊=悪とは別の視点を得る。
AIは、ディープラーニングで大量の情報を覚え込ませることで、何らかの判断を導き出す。しかし、100万の情報を学んだAIと、1万しか情報が与えられなかったAIでは、導く答が違うはずだ。これを人間に当てはめると、情報量の差となる99万の情報の多くが身体言語ではないか。そんな仮説を立てている。
だから、私もたまには山を歩き、森を感じて、身体言語を磨くのである。
森の中の沢にかけられた丸太の橋なのだが、よく見ると、丸太が腐っていてそこに植物が生えている。草やシダ類が多いが、稚樹もありそうだ。丸太の下は空洞だが、いつまで成長できるのだろう。
そんな観察も、身体言語の.修得である。
ちなみに、森の中は暑くなかった。木々に覆われ日陰だし、土の地面は濡れていて、気温も低め。もちろん登っているときは汗をダラダラとかくが、「危険な暑さ」を感じない。道から外れて急斜面を登ろうとすると土がぬるぬると滑る。地形に不自然なところがあり、過去人の手が入っていることに気づく。
自宅から登山口まで・登山口から自宅まで、住宅街の中を歩く時がもっとも暑かった。
帰ってから水のシャワーを浴びるとキモチイー! これぞ、身体言語(^_^) 。
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