無料ブログはココログ

森と林業の本

« 山中の地蔵菩薩の花 | トップページ | 10代目木製腕時計 »

2024/08/11

辻谷達雄さんのこと

昨夜、川上村の辻谷達雄さんが亡くなった知らせを受けた。享年91歳。

昨年お会いしたときは、足は多少弱っていたが、元気そのもので頭もしっかりされていたので、安心していたのだが……。

私が森林ジャーナリストを名乗って活動する中で、もっとも世話になった人を上げると、辻谷さんが筆頭である。
フリーになって森林のこと林業のことを本に書くぞと決めて、まず訪問したのが川上村だった。ここで林業、とくに吉野林業について学ぼうと思ったからである。そして役場で紹介されたのが辻谷さんだった。

それから月イチくらいで村に通って林業の一連の作業を経験した。最初の頃は村に前日に入って泊まり掛けだったが、やがて朝4時に家を出て6時に着くようにした。それから山に登る。それで地拵え、植林、下刈り、徐伐、枝打ち、間伐……そして230年生のスギの伐採まで体験(および見学)させていただいた。

一応、取材でありどの作業も真面目に取り組んだのだが、それが評価されたようだ。これまで体験で来た人は、たいてい途中で逃げ出す……と言われたものだ。

体験だけでなく、その過程で辻谷さんのヤマツ産業の皆さんにさまざまな林業についての理論と考え方を学んだ。それが私のバックボーンになっているのは間違いない。辻谷さんだけでなく、誰に聞いてもズバリ本質的な答が返ってくる。正直に言って、ほかの林業地でそんなことはない。

それらの体験と勉強を元に『「森を守れ」が森を殺す!』を出版。これが森林ジャーナリストのスタートだった。

その後、つじたにさんの半生記を執筆する仕事も行った。それが『山が学校だった』である。この本の執筆のために幾度も辻谷さんの元に通い、ときに泊めていただいたりしながら人生を聞いた。

Img_20240810234841

出版が1998年だから、今から26年前、取材時は27年前になるか。ここで聞いた辻谷さんの人生が吉野林業の理解に大きくつながる。

後の土倉庄三郎についての執筆にも影響を与えた。土倉庄三郎について理解するためには、林業とくに吉野林業について理解していなくてはならないし、さらに川上村を理解していないと書けない。つまり、辻谷さんとの関係がなかったら、『山林王』は書けなかったわけである。

ちなみに私は、人物論は手がけないと決めていたのだが、『山林王』などはそれを破って初めて書いた伝記……と思っていた。が、その前に辻谷さんの半生を描いていたのであった。

でも、書き上げたとき辻谷さんは60歳過ぎ。今の私より若いのではないか(゚д゚)。。。

その後、林業現場を離れて森林環境教育に取り組む中で、続編を書く企画もあったのだが、なんとなく流れてしまった。その時のタイトルは『山が病院だった』にしようとか言って笑っていた。

まだ昨日の今日で、これまでの記憶がまとまらない。合掌。

« 山中の地蔵菩薩の花 | トップページ | 10代目木製腕時計 »

ニュース」カテゴリの記事

コメント

> つじたにさんの半生記を執筆する仕事も行った。

えっ!そうだったんですか。

本当だ。
【構成・田中敦夫】

初版持っていますよ。
そおかあ、現在島根で貧乏暮らしをしているのは田中様のせいだったんだ。
(^-^;;

購入した当時は、地に足が着いた暮らしをしたくて、都会の生まれ育ちだった自分が最先端分野関係の仕事を止めて、生き方の模索中の頃。
其の時に出会ったバイブルの一つでしたね。少なくとも人生のガイドラインの参考書となっておりました。
「山が学校だった」は、東京西部で山仕事に参入した頃に手にした本だったのですよ。印象深かったです。

その後も、色々な仕事をしていますが、辻谷先達の生き様は多々参考になっています。

現在、島根で相変わらず山仕事、里山整備に関係している其の基本的精神というか、出発点は此の本にある様です。

と、申しますのもこの度の記事を拝見してから「山が学校だった」を読み直してみると再確認できる事が沢山ありますね。

そして、書かれている伊勢湾台風後の復旧の下りの辻谷先達の体験は、過疎の農山村に暮らすものにとって、現在でも相似的に通じる内容でしょう。

自然豊かな地で自立的に暮らして地域を守って行こうと思うのであれば、今後も山仕事に関わる技術や智恵、経験値がことさら大事だと思われます。

さて、貧乏になったのは田中様のせいかも知れませんが、同時に夫婦で地縁の無かった島根まで来て田舎暮らしを満喫して幸せに暮らしている(夫婦共々都会に戻る気なし)のも田中様のお陰と感謝御礼申し上げます。
(^-^)

そして、辻谷先達は、先達から先人へとアッセンションされ、その精神を我々に遺して下さったと心より感謝する次第です。

そんな辻谷先達がご活躍だった1990年頃には川上村は何度か通り、もっと奥で山釣りをやっていたんですけど、当時は山のことがよく解って居なかったのが残念。
でも、その後、川(と生き物達)の状態は山の様相に関わることを実感しました。
其の様なことを含め、次世代に伝えていくべく活動をしておりますのも「山が学校だった」が基本。
良いタイトルですね。

田中様のお仕事を通じて知り得た辻谷先達のご冥福を心より祈念させて頂きます。合掌
令和甲辰歳お盆の中日に記す。
有難うございました!

人生のバイブルとまで言っていただき恐縮です。でも、貧乏になられた責任は負えません(笑)。

改めて先進的な方だったと感じますし、未来に続く人がいることに希望を感じましょう。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 山中の地蔵菩薩の花 | トップページ | 10代目木製腕時計 »

September 2024
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

森と筆者の関連リンク先