『看取られる神社』考
このところ、暇を見つけては近隣の「散歩」をしているのだが、その際に発見に努めているのが「廃神社」。正確には仏教施設も含むし、神社=神道というより、新興宗教的施設も多いのだが、ようするに信仰を基盤とした「聖地」が廃れていった後の姿だ。
そして、生駒、少し広げて奈良というところは、そんな施設は少なくないのである。犬も歩けば、森林ジャーナリストも歩けば廃人、じゃない廃神社に当たる。。。
市街地でも建築物の合間に挟まるように藪があり、そこに潜入すると、たいてい祠とかため池がある。山に入れば、森の中に崩壊しかけた宗教施設の残骸が見つかる。なかにはパワースポット扱いもあれば、ホラーかオカルトの拠点かと思わせるところもあるのだ。
そうした所ばかりを見て歩くと、なんだか精神が病んでいるかのようなのだが、さまざまな幻の記憶が蘇る。その施設が勃興した時、栄えたとき、いつしか寂れていくとき。見ても聞いてもいないのに、感じ取れる。
そんな最中に読んだのが、『看取られる神社 変わり行く聖地のゆくえ』(島田奈穂子著 あいり出版)であった。
嶋田さんは、イマジナリー生態学を標榜して、聖地の研究をしている。現在、滋賀大学の非常勤講師だそうだ。
目次を示すと、
1章 聖地が生まれる
(災害の爪痕を、自然の恵みを願う場に 稲荷神社 滋賀県守山市服部/土地の先住者をカミに プーターの森 ラオス・チャンパサック県ノックコック村 ほか)
2章 育つ聖地
(筏流しの守護から、新しい村の鎮守へ 思子淵神社 京都市左京区大原大見/水神は、イノシシ除けのカミになった 大川神社 滋賀県高島市朽木生杉 ほか)
3章 看取られる聖地
(神社を看取った人 大山祇神社 福島県大沼郡昭和村畑小屋/神社の“墓標”を立てた夫婦 菅八幡神社 福井県越前市菅町 ほか)
4章 それでも、聖地が生き続ける理由
(誰もいなくなる土地に生きることを願われる聖地 白山神社 福井県勝山市横倉/合祀された「井戸」 沖縄県那覇市 ほか)
見出しどおり、聖地の誕生、育ち、看取り、そして復活を描いている。
神社の誕生として示されるのは、洪水被害地や、丸太の筏流しの拠点、そして何らかのストーリーがあるようだ。ラオスのコック爺さんなんか、村に先住していた人らしいのだが、なんだか可愛らしい。
そして過疎化の進展から消滅集落化によって看取られる。だが、神社がなくなっても信仰の地、聖地として残り続ける土地もあるようだ。
実は、私の訪ねた廃神社と重ね合わせると、どこかに共通点を感じる。もちろん、私は研究しているわけではなく、その神社の由来を調べるわけでもなく、現状の聞き込みをするわけでもない。ただ、見て、感じる。妄想に近いのだが。
たとえばため池が祀られることは、比較的多いようだ。池を掘ったときに、水の神様を勧進したのだろうか。ほか森、大木、巨石なども聖地になる。イマジネーションを刺激されるからだろうか。生駒山にはナナツモリの伝説があって、小さな森が聖地とされる。7つとは語呂合わせで、実際にいくつあるかわからないが、訪ねると、祠や石仏があったりする。
神社が廃される裏には、明治の神社合祀令があるが、これは半強制的なケース。私の見つけたものは、個人で建てたが、世代が変わって捨てられたものや、カリスマ的な教祖によって生み出された宗教施設も、カリスマがいなくなることによって消えていく。後を継ぐものの存在がいなくなれば、当たり前だが廃される。
しかし、信仰の記憶が続くと、いつしか記憶のバトンタッチがされて復活につながることもあるのだ。山がなくなっても、聖地は残る。
大豪邸の一角に祀られていたのだが、いつしか豪邸は空き家になり、神社も荒れ果てた。
新興宗教らしいが、山中に捨てられた。そこに教祖様のお言葉が掲げられている。
住宅再開発が進み、周辺の山はなくなってしまった祠が、近年になって建て直された。復活したのである。
ところで、最後に余談を。実は、著者にあったことがある。取材したのだ。それも東チモールのコーヒーについて。そのときのことを記していた。当時は思想生態学と名付けていたが、それはイマジナリー生態学になったようだ。
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