「解像度を上げる」
以前、某氏とメッセージ交換した際、私は「林業性悪説に染まってしまいました」と記した。
その返信には「ジャーナリストの仕事は、解像度が上がりすぎて、希望が持てなくなることはあります」と返ってきた。実は某氏も、元ジャーナリストなのである。そして、今は林業の周縁部にいる。
この「解像度が上がり」とは何を意味するか。いろいろ情報を知りすぎて通常見えない点まで見えてくる、というくらいの解釈でよいかと思うが、では情報が多ければよいのか。「解像度」という言葉は、それから気にしている。
情報を多く知れば解像度が上がるというものではないと思うのだ。その情報から導き出される結論をいかに紡ぎだすか。単に情報をツギハギしただけでは「解像度」は上がらないのではないか。ようは手元にある情報に、おかしな穴、矛盾、バグがないか。整合性をいかにとった結論を導き出せるか。そこまで到達してはじめて「解像度が上がった」と言った方かよいと思う。
たとえば今では、スマホで撮った写真に余計なものが映り込んだ場合、AIで部分的に消して、そこに周辺から類推しておかしくない映像を当てはめることができる。この場合、周辺の情報から消した部分に違和感のない別の映像で埋めている。これは解像度を上げたことになるか?
見た目は、おそらく違和感なく埋めることができる。それが優秀なAIだ。しかし、現実との乖離はないか。
先日、NHKBSで『有罪、とAIは告げた』というドラマを見た。裁判所にAIの導入実験が行われ、「参考意見」として判決文まで書いてくれるのである。抱える裁判の数が膨大な裁判官にとっては大助かりである。そしてある事件で使用してみると「有罪」と出た。おそらく人間の裁判官も、与えられた情報から類推すると有罪と判断するはずだ。
だが、ドラマでは最後に別の真実が暴かれる。
果たして、有罪としたのはAIが悪いのか。人間も同じぐらい間違うのではないか。それを解像度が低いと言ってよいのか。
実は、私は裁判にAIを導入することに賛成である。個人の判断よりマシだろう、という気持ちからだ。現在の裁判は裁判官の属性や個性に寄り添いすぎ、という思いが強いから。だって、同じ事件でも裁判官によって判決が変わることは、現実だからだ。判決は誰が担当しても同等であるべきだ。しかし……。
このドラマでも、もし過去の莫大なデータを全部読み込ませれば、有罪でない可能性も導き出したのではないか。
情報は量も必要だが、分析力の方が重要だ。むしろ情報が十分でなくても分析・解像度が高ければ、少ない手がかりから正確な類推をできるはずだ。私がジャーナリズムの「現場主義」に疑問を持っているのも、現場でいくら情報を集めても分析力「解像度」が低ければ……。
これ、背景に電柱やら家屋やらいっぱい写っていたが、AIで消して「のどかな蓮畑」にした。違和感ない。というか、こちらの方が自然な風景。
« クマ……の出番 | トップページ | 現代ビジネスに「ゴルフ場……」記事を書いた裏事情 »
「森林学・モノローグ」カテゴリの記事
- パイオニア松!(2026.06.11)
- 高さと太さ。台湾杉はどっち(2026.06.10)
- “快適な森”は、木が少ない?(2026.06.08)
- 『箱の中の羊』の「木と人」(2026.06.06)
- 台湾檜と台湾杉を見るツアー(2026.06.02)






























コメント