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森と林業の本

2024/10/23

朝ドラで気づく土倉家の物語

現在の朝ドラ「おむすび」は、「カンナの無駄遣い」というそうだ。何も大工道具の鉋を無駄遣いしているのではなく、橋本環奈の魅力を思い切り殺す役柄だから。なんで彼女をこのキャラに配役したのか不思議なほど。

私は、BSの「カーネーション」に夢中。そしてBS11の「半分、青い」。いやあ、どちらとも面白い。とくに「半分、青い」が描く高校生の姿は、いいなあ。会話が断然いい。「おむすび」は、同じ高校生でも、まったく会話が弾んでいない。

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そして気づくのだ。「カーネーション」は、日本人、とくに女性が着物から洋服へ移り変わる時代を描いているのだなあ、と。だいたい大正から昭和初期の時代だ。(その後に戦後編に移る。)その陰で悪戦苦闘をしている主人公にはワクワクする。実際に、こうした開拓者がいたのだろう。

そう言えば思い出した。土倉庄三郎は、明治9年に川上村の大滝小学校の生徒に制服として洋服をプレゼントしている。生地はちょっとジーンズに似ていて、デザインはブレザータイプ。横浜の店でつくらせたという。「カーネーション」より時代的には60年以上早い。実際、早すぎて根付かなかったわけだが、奈良の山村に洋服を着た子供たちがいたことは特筆すべきだ。なお土倉家は、みんな洋服を着て写された写真がある。当時は、写真館で洋服を貸し出して写真を撮るのが流行ったらしい。まあ、コスプレのような……。

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ちなみにタイトルのカーネーションは、何を意味するのか。ドラマの中では、子供の頃に洋館のパーティで見かけた花として描いている。時代は、やはり大正か。

日本にカーネーションが広がったのは、土倉龍次郎が温室栽培に成功してからだから、大正10年以降。ぴったり符合する。土倉家二代に渡る朝ドラとの縁。こじつけだけど(^-^;

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土倉龍次郎の著した『カーネーションの研究』より。

 

2024/08/29

保護司制度の原点と林業

朝日新聞に、保護司制度の原点の記事が掲載されていた。

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保護司とは、刑に服した元犯罪者の社会的立ち直りを支える役職だが、大津市で保護司の男性が、担当した元受刑者に殺害される事件が起きて注目を集めた。そもそもボランティアで、こうした重要で難しい役に就いていることにさまさまな意見が出ているのだが、その原点を探ると、明治期の静岡県の実業家に行き着いた……というのだ。その実業家とは、金原明善。

金原明善。ご存じだろうか。天竜川の治水に尽力したことで知られるが、元々は農家(と言っても豪農)であったが、全財産を注ぎ込んで治水事業に取り組んだ。その治山の一環で林業も始めた。それが現在の天竜林業につながるのだから林業家と言ってもよい。

そして、その林業は、吉野の土倉庄三郎に教えを請うたことでも知られる。庄三郎も天竜を訪れたはずだが、川上村から林業技術を教えるために人を派遣し、彼は一家を上げて移住したという。

そのほか明善は、製材業や木材輸送業、さらに銀行も興している。その点では、森づくりと木材生産にこだわって、事業を広げなかった庄三郎との違いである。それは吉野にはすでに周辺産業が育っていたこと、天竜にはなかったことが関わってくるのだが……。

その明善が、「出獄人保護」の会社をつくっていたとは。出獄後の生活や仕事の斡旋などを行っていたらしい。

庄三郎に似た活動をしていたとは聞かないが、無職の人を林業に招き入れる提言をしていたと記憶する。

そういや奈良県では、元受刑者の仕事として林業を斡旋する事業を行っている。現在どうなっているのか知らないのだが、少なくても何人かが林業に就いているはずだ。強制するわけではないが、選択肢としてはよいと思う。農業、林業など自然の中の仕事は、誘惑が多い町の仕事より心を落ち着ける効果があるだろう。

 

2024/07/22

Y!ニュース「津田梅子の学友・内田政子の生涯」を書いた裏事情

Yahoo!ニュースに「津田梅子の学友・内田政子の生涯」を執筆しました。

内田政子というより土倉政子と書いた方が、どんな人物かわかりやすいかもしれないが、そこは結婚後の姓を優先。

このところ、Yahoo!ニュースではコメントを付けることに注力している。実はYahoo!ニュース編集部の要請に従ったことなのだが、気がつけば7月も終盤。一本も独自の記事を書いていない。これはまずい、と選んだのが内田政子である。

もともと新紙幣で津田梅子がよくマスコミに登場するのを見て、同じ時代にアメリカ留学をした内田政子もいるんだけどな、と思っていて7月初旬に書くつもりだった。それがズルズルと……。

拙ブログの読者には説明しないでもよいかもしれないが、内田政子は『山林王』の土倉庄三郎の次女。政子のブリンマー大学在学時代、津田梅子も在籍している。小さな大学だし、日本人女性は当時梅子しかいないところに政子が入学したのだから、絶対に交わっているはずである。ただ交流した記録がない。年の差、あるいは官費留学と私費留学の違い、もしかしたら出会ったものの仲良くなれなかった?とか想像はするが、もちろんわからない。もしかしたら、そのうち何か交流記録が見つかるかもしれない。

それでもタイトルに津田梅子を謳ったのは、まあ、流行りだし(^_^) 。西太后も考えたが、どちらが有名かということと、政子の外交人生は清国だけでなく、その後も華々しい。自力ではなく(外交官の)夫人とならなければ実力を発揮する場を与えられなかったのは時代のなせる業であり、残念でもあるが、ある意味したたかな生き方かもしれない。

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庄三郎(前列中央)と政子(後列洋装)

全然関係ないけど、現在の皇后の雅子さんも、外交官だったのに皇族と結婚したことで政府の外交舞台からは引っ込まざるを得なくなった。そして今は皇室外交に関わっている。今も英会話は天皇より上手いのではないかな。

政子さんも、内助というより「外助」で活躍したのである。

2024/06/05

電力の父・土倉龍次郎と思わぬ電気利用

台湾では、獅子頭山に登る予定があった。ここは、土倉龍次郎が租借した山林地帯に近く、原住民(いわゆる高砂族)のテリトリーと接している。そこで隘勇線(あいゆうせん)と呼ばれる襲撃に備える防備エリアの痕跡が残っているというので楽しみにしていたのだが、あいにくの雨。

朝、さすがにザアザア降りを見て諦めた。その代わりに訪れたのが台湾博物館の南門館

これは本館とは別の場所にあり、元は樟脳と阿片の工場・集荷場だった所を改装したものだという。

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ここで樟脳関係の資料を見ていた(龍次郎は、クスノキを伐採して樟脳製造を行っていた)のだが、それとは別に2階に「台湾電力の歴史」コーナーがあった。そこで驚きの展示。

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この展示文をよく読んでほしい。土倉龍次郎の名があるから。そして亀山水力発電所の建設にかかわったことに触れている。台湾で初めて本格的な発電所をつくったのは龍次郎だということを記してあるのだ。実際の発電所は総督府に買い取られてしまったから、龍次郎は、これまで「台湾の隠れた電力の父」的な認識だったが、なんのことはない、台湾ではすでに電力事業の創始者として名が刻まれているのであった。

それだけではない。こうして供給されるようになった電気の利用法として、わりと大きく取り上げているのが、隘勇線。

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隘勇線の写真。木を伐って見通しをよくして鉄条網など防護柵を築いている。ところが、高砂族は、そんな防護柵を乗り越えて侵入し、首狩りを行う。随分、日本人も殺されて首をとられたそうだ。実は龍次郎の部下たちも殺されている。

だが、それを防ぐのに抜群の効果を見せたのが、電気柵だった!

そう、電力のもっとも有効な利用法の一つが電気柵だったのである。しかも、かなりの高圧電流を流したらしい。誤って触った日本人が死んだ記録もある。当然、高砂族も多くが電気ショックで亡くなったのだろう。

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今の獣害対策で設置する電気柵を連想する。通常の防護柵を破る害獣の対策に、電気柵は有効だという。言い換えると、高砂族を危険な害獣扱いしていたようなものだろうか。

もっとも現在の獣害対策用の電気柵の電流は弱い。シカやイノシシ対策にはなってもクマには効き目は薄いという。イノシシだって、鼻先以外の皮膚に触っても効かないらしい。そのうち凶暴なクマが町に出没するようになったら、電力出力を上げることも考えられるかもしれない。

ここでことの善悪を論じるつもりはないが、明治時代の台湾電力利用の思わぬ一面を知ってしまった。

 

2024/06/04

政治大学にて

台湾にある国立政治大学を訪れた。

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政治と名がつくが、研究テーマを眺めていると、日本でいう社会系の大学と思ってよいだろう。

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いただいた大学の冊子。読めないけど(^^;) 。でも茶園をAI管理するとか、里山再生の話も登場する。

こちらの方も興味深いが、私のお会いしたのは、王准教授。台湾の原住民(日本でいう先住民、高砂族)の研究をされている方であり、同時に土倉龍次郎の研究者でもある。なんと、台湾に龍次郎の研究者がいたのだ。これだけでも感激だろう。そして、数々の情報を得ることができたのである。

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『山林王』をプレゼントした。するとランチをご馳走になった(^_^) 。

 

 

2024/05/10

「母の日」の黒歴史に寄せて

5月7日にYahoo!ニュースで「「母の日」提唱者と花卉業界が繰り広げた確執の黒歴史」を執筆したことを、ブログで告知するのを忘れていた(´_`)。

別に義務ではないが、拡散する気合が入っていない。まあ、明後日が今年の「母の日」だから、遅ればせながら紹介しておく。

ここでは母の日とカーネーションについて書こうと思っていたら、なぜかたどり着いたのが提唱者であるアンナ・ジャービスと花卉業界の確執なのであった。そもそもアンナが母の日制定に向けて動いた際は「白いカーネーション」をシンボルにしていたのに、花卉業界はそれで白いカーネーションの価格を30倍にも引き上げたとか、足りないから赤にしよう(城は亡くなった母)とか、結構いい加減なキャンペーンをしていたらしい。

もともとカーネーションは高貴な花としていたのが、今ではカジュアル・フラワーとして安く大量生産型になっている。別に悪いことではないが、花卉業界の都合に振り回された感はあるだろう。

話は変わるが、日本にも大正時代に入った頃から花卉業界が成立しだすのだが、その立役者の一人が土倉龍次郎だ。カーネーション栽培を大型温室でに取り組み、大量生産の基礎を築いた。

たまたま手に入れた資料に、龍次郎の名前が登場する。

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2年前に、東京、大田区郷土博物館でこんな企画展があったらしい。そのパンフレットだが、その一部にかろうじて龍次郎の名が。

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よく読んでほしい。龍次郎は目黒区の住人だからか、あまり大きく紹介していない(^^;)。それでも、先駆者だったことはわかるだろう。
ちなみに龍次郎探索をいよいよ復活させるが、後半生の園芸家としての龍次郎にはまだまだ謎が多い。

 

2024/03/26

台湾山岳案内!

数十年ぶりかに買ってしまった「山と渓谷」。4月号である。
目的は、別刷?付録である「台湾山岳案内」をゲットするため。

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ちょっと付録だけのためにはお高い雑誌だった(笑)。

Photo_202403260904011320円。

山と渓谷社の雑誌とは、20年ぐらい前に仕事をしていたのだが、あまりにギャラの安さに逃げ出したことがある(笑)。当時は倒産寸前だったかのような記憶が……今は、経営もギャラも改善されたかなあ。

さて、台湾には、昨年のコロナ禍解除以来、幾度も行こうと構想を練るものの、常に先送りになってしまった。今年に入っても2月、3月と考えたが難しく、4月は、、、どうだろうか…。玉山登山をコロナ禍に邪魔されて4年も経つのか。どうも海外への行き方を忘れてしまったようで、いざとなるとおろおろする。昔は、へらへら行けたのに、何か心理的障壁ができたかのよう。まずは2泊3日で台北観光ぐらいして、リハビリをする。

とはいえ、台湾へ行く目的はやはり山である。前回は玉山だったが、今の気分は、阿里山も歩きたい。巨木林を見ておかないと後々後悔するという思いが強い。

そのきっかけは、こちらの写真である。

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土倉家からお借りした龍次郎の台湾写真なのだが、最初は、木の前に一人の人物がいるのかどうか……ぐらいにしか見ていなかった。ところが高精度スキャンをして拡大してみると、ここには5人以上の人物が写っており、服装からもあきらかに探検隊なのである。

ここから推測できることは、土倉龍次郎は阿里山を探検していることだ。従来の記録では、日本人で初めて阿里山と玉山を探検したのは、1896年の長野義虎ということになっているが、長野と龍次郎は親戚筋であり、長野の探検には土倉家が金を出して行ったと伝わる。そして龍次郎も、その探検に同行したと思われる。つまり龍次郎は阿里山の巨木林を最初に発見した一人ではないか、そして玉山初登頂をしたのではないか……と想像しているのである。

とまあ、そんなことを考えながら、「台湾山岳案内」を読む。これは、女性モデルが台湾の山々に登る形をとったほぼガイドブックであるのだが、ちょっと気分をアゲるのによいのであった。

 

2024/03/02

古代メキシコ展と広岡浅子展

大阪の国立国際美術館で開かれている古代メキシコ展に行ってきた。

以前より気になっていた子供時代からの憧れの古代遺跡。私の推し?は、エジプト派より中南米派で、やはりマヤ、アステカ、インカ文明に興味津々だった。今回はそれに加えてティオティワカン文明も。本当はオルメカ文明も入っていたら嬉しかったんだけどね。あの、巨大石面像があったらたまらん。

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なかでも圧巻は,やはり日本初お目見えの「マヤの赤の女王」。このとおり遺骨が真っ赤に水銀朱に染まっている。この時代、そしてこの文明では、金よりも緑(エメラルド)、そして朱(硫化第二水銀)に重きを置いていたと言われる。

実は、日本でも古代では金より朱の時代があった。まさに邪馬台国時代だ。当時の古墳の石棺には、朱が一面に塗られているのだ。当時、大和は朱の産地であり、邪馬台国~大和王権は朱の王国とも呼ばれる世界だった。なかなか類似性を感じるではないか。さらに飛鳥時代は、マヤ文明に共通する石の文化、石の装飾が多数ある。

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この図で気付いたことがある。私は、子供心にマヤ文明が衰退してからアステカ王国が誕生して征服し、それがスペイン人に滅ぼされたように記憶していたのだが、どうやらスペイン人がきた時も、まだマヤ文明(王権のある国の形を取っていたどうかは定かではないが)は存続していたのだね。そしてはっきり滅んだ年数もわからぬまま消えていった文明なのだった。

ほかにも見どころ満載で、古代文明ファンには美味しい展覧会であった。

ここを出て、前を通ったのが、大同生命本社ビル。そこに「大同生命の源流~広岡浅子の生涯」の展示があると記されていた。すぐ飛び込む。

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広岡浅子は、日本の赤くない女王だった! というわけでなく、目当ては日本女子大創設に関わる運動をいかに紹介しているか、である。すると、渋沢栄一だの大隈重信だのは登場するのに、肝心の土倉庄三郎には触れていないのだ(-_-;)。そりゃ、おかしい。どう考えても運動を支えたのは土倉翁だし、金も多く出している。浅子は吉野の土倉邸を訪れて泊まっている。また土倉家と加島家は、子供同士の縁談まであったほどの結びつきだというのに。

なんだか、浅子の事績を強調するために、わざと避けたようにも感じる。

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わずかに土倉庄三郎の名が登場するのは、ここだけであった。これは成瀬仁蔵側の説明である。

アンケートに文句書いてきた(笑)。

2024/01/31

龍治郎を探せ!(同志社時代の集合写真)

土倉家の貴重な写真を手に入れる。

新発見は、これだ。

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京都・知恩院の山門前で撮られた同志社の学生写真。おそらく同志社にもない代物である。

問題は、ここに土倉龍治郎が写っているはずなのに、どこにいるのかわからない点だ。。。

そもそも撮影年代がはっきりしない。龍治郎は、6歳で入学しているが、20歳前後で卒業したはず。つまり幼少時から高等学校当たりまで教育を受けている。当時は大学はまだなく、同志社英学校だった。

もし幼少時なら、前の方に写っている児童かもしれない。そこで、その当時の写真を探してみた。

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これは新島八重と一緒にいるところの写真を切り取った。6~7歳だろう。新島襄夫妻の世話を受けていた。八重さんにサーカスに連れて行ってもらい、象を見たという手記を残す。

人数が多いので、もっと大きくなってから(同志社も大きくなった頃)の可能性もある。そこで兄弟姉妹で撮った写真から拡大してみた。同志社時代という書き込みがあるから、卒業前か。ちょうど柔術と撃剣(今の柔道、剣道になる前)を習いだしたころだ。どちらも名人級になったという。同志社にも道場が建設された。

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痩せて顔の輪郭は全然違うようになっている。

でも、集合写真から確実にこれだ、という人物が見つからないのである。ウォーリーを探せ、ならぬ龍治郎を探せ、状態。

誰か、挑戦してみないか。ちなみに外国人教師も写っているが、誰かわからない。

2024/01/20

千葉のシカは奈良のシカ?

このところ土倉庄三郎に関する新たな文献がいくつも見つかっている。もう私の中では終わらせたつもりだったのに…。

その一つは、『奈良に蒔かれた言葉』(奈良県立大学ユーラシア研究センター学術叢書1)である。
そこにある「大和近代の風景と自然観一考-杉と桜の文化資源学 本多清六「吉野山の桜制復古」(岡本貴久子著)という記事がある。

タイトルどおり主に取り上げているのは本多清六なのだが、彼にまつわる中で土倉庄三郎も紹介している。ただ、ここではそれを紹介しない。
内容的には、私にとって知らないものではなかったからである。

むしろ、それに付属したコラムがユニークだ。こちらに注目したい。

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奈良公園の人気者「ニホンジカ」と東京大学千葉演習林…この記事である。

それによると、千葉県の清澄…とあるのは、現在の鴨川市のようだが、ここにある東京大学演習林には「野獣園」という施設があったらしい。そしてシカを飼育していたが、その元は、なんと奈良のシカだというのだ!

どうやら明治42年に、春日神社(現・大社)から東京帝国大学農科大学に奈良のシカ(ナラシカ)を3頭送ったというのだ。どうも本多清六が関わっていたらしいが、人に馴れているシカということで選ばれたとか。

もう、これは、千葉も春日大社の一部であり、奈良領だな( ̄^ ̄)。

さらに繁殖させると、千葉県の神野寺、神奈川県の江島神社、長野県の小諸公園にも分譲されたという。そうか。神奈川県も長野県も奈良領だったのか。全国のシカはナラシカの血を引いているに違いない。

ついでに言えば、本多は「野獣園林業」を提唱していたらしい。ようはシカのいるレクリエーション施設として利益を上げるのも林業だというのである。これは参考になる。ナラシカ輸出産業を起こしてもいいぞ。

 

 

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