無料ブログはココログ

森と林業と田舎の本

2024/01/31

龍治郎を探せ!(同志社時代の集合写真)

土倉家の貴重な写真を手に入れる。

新発見は、これだ。

1_20240131113601

京都・知恩院の山門前で撮られた同志社の学生写真。おそらく同志社にもない代物である。

問題は、ここに土倉龍治郎が写っているはずなのに、どこにいるのかわからない点だ。。。

そもそも撮影年代がはっきりしない。龍治郎は、6歳で入学しているが、20歳前後で卒業したはず。つまり幼少時から高等学校当たりまで教育を受けている。当時は大学はまだなく、同志社英学校だった。

もし幼少時なら、前の方に写っている児童かもしれない。そこで、その当時の写真を探してみた。

Photo_20240131114101

これは新島八重と一緒にいるところの写真を切り取った。6~7歳だろう。新島襄夫妻の世話を受けていた。八重さんにサーカスに連れて行ってもらい、象を見たという手記を残す。

人数が多いので、もっと大きくなってから(同志社も大きくなった頃)の可能性もある。そこで兄弟姉妹で撮った写真から拡大してみた。同志社時代という書き込みがあるから、卒業前か。ちょうど柔術と撃剣(今の柔道、剣道になる前)を習いだしたころだ。どちらも名人級になったという。同志社にも道場が建設された。

24

痩せて顔の輪郭は全然違うようになっている。

でも、集合写真から確実にこれだ、という人物が見つからないのである。ウォーリーを探せ、ならぬ龍治郎を探せ、状態。

誰か、挑戦してみないか。ちなみに外国人教師も写っているが、誰かわからない。

2024/01/20

千葉のシカは奈良のシカ?

このところ土倉庄三郎に関する新たな文献がいくつも見つかっている。もう私の中では終わらせたつもりだったのに…。

その一つは、『奈良に蒔かれた言葉』(奈良県立大学ユーラシア研究センター学術叢書1)である。
そこにある「大和近代の風景と自然観一考-杉と桜の文化資源学 本多清六「吉野山の桜制復古」(岡本貴久子著)という記事がある。

タイトルどおり主に取り上げているのは本多清六なのだが、彼にまつわる中で土倉庄三郎も紹介している。ただ、ここではそれを紹介しない。
内容的には、私にとって知らないものではなかったからである。

むしろ、それに付属したコラムがユニークだ。こちらに注目したい。

Photo_20240120151001

奈良公園の人気者「ニホンジカ」と東京大学千葉演習林…この記事である。

それによると、千葉県の清澄…とあるのは、現在の鴨川市のようだが、ここにある東京大学演習林には「野獣園」という施設があったらしい。そしてシカを飼育していたが、その元は、なんと奈良のシカだというのだ!

どうやら明治42年に、春日神社(現・大社)から東京帝国大学農科大学に奈良のシカ(ナラシカ)を3頭送ったというのだ。どうも本多清六が関わっていたらしいが、人に馴れているシカということで選ばれたとか。

もう、これは、千葉も春日大社の一部であり、奈良領だな( ̄^ ̄)。

さらに繁殖させると、千葉県の神野寺、神奈川県の江島神社、長野県の小諸公園にも分譲されたという。そうか。神奈川県も長野県も奈良領だったのか。全国のシカはナラシカの血を引いているに違いない。

ついでに言えば、本多は「野獣園林業」を提唱していたらしい。ようはシカのいるレクリエーション施設として利益を上げるのも林業だというのである。これは参考になる。ナラシカ輸出産業を起こしてもいいぞ。

 

 

2023/10/26

目黒駅前今昔物語

と東京に来ている。

今回は駆け足で幾つかの取材や用件を済ませる予定なのだが、次の目的地まで行くまでに、隙間時間ができた。約3時間だが、移動時間を引けば2時間というところ。

どうするか若干考えたが、目黒駅前を歩くことに。

ここに、かつて土倉龍次郎の屋敷兼農園があったからだ。それは広大な面積だったが、当時は目黒駅もなく田舎である。敷地内に川が流れていたほどだ。

もちろん、今は跡形もない。それでも感覚的なものをつかみたくて歩いたのである。

20231026_161701

このように高層ビルと、タワーマンションが立ち並ぶ。でも裏通りは路地が多く行き止まりになる魚の骨状だ。これも痕跡?

次に訪れたのが高速道路を挟んで庭園美術館。この庭にしばしたたずむ。

20231026_161640

ここは、かつて皇族の朝香の宮の邸宅だ。

龍次郎の家に朝香の宮が馬に乗って訪れたというエピソードがあるので、ちょっと感慨に浸ってみる(^-^)。

取材の合間の息抜き? いや、これだって取材なのだよ。



2023/08/31

市井のカエデ研究家逝く

朝ドラ「らんまん」の影響か、このところ草花研究に日が当たっている。研究者だけでなく、市井の愛好家の姿も描かれる。牧野富太郎は、全国の愛好家から植物標本を送ってもらって研究した。言い換えると、牧野の研究を支えたのは市井の人々だったわけだ。

そんなときに私の元にカエデの愛好家の訃報が届いた。

今年6月、こんな記事を書いた。毎日新聞の地元版である。

Photo_20230831172501

奈良には、カエデ専門の植物園がある。個人のコレクションが寄贈されたものなのだが、約3000本、約1200種のカエデが植えられている。それを集めたのが、矢野正善さん。カエデの研究というか育種を含めた栽培では日本でもっとも有名な一人だろう。
実は、カエデ以外にもある業界では有名人、というか大家。料理写真家だったのだ。日本の料理写真の創始者かもしれない。いっときは出版される料理本のほとんどの料理を撮影していたという。師匠は、入江泰吉……奈良の風景写真の大家だ。
取材で知り合ったのだが、80歳を超えているとは思えないほどひょうひょうとした人柄で、妙に話が盛り上がったのを覚えている。

取材したのが今年6月。元気だったのだが、先週22日に亡くなったという連絡が入った。突然自宅で倒れたそうだ。連絡を下さった方は、日常の食事などの世話をしていた人だが、当日の朝まで話をしていたそうで「決して孤独死ではありません」と言っていた。

20230831_164739
 矢野さんから買い取ったカエデの鉢植え。今夏の猛暑に一時期弱っていたが、持ち直した。

と、ここで無理やり土倉龍次郎に話をつなげるが、彼も前半生は、台湾の探検家にして事業家。林業に樟脳に発電に……と大活躍したのだが、後半生はカーネーション栽培にかけた。日本にカーネーションの栽培技術を根付かせた実業家だったが、後に育種に集中した。

Photo_20230831173701

カーネーション栽培をしていた温室の龍次郎。

場所は、東京府上大崎。現在の目黒駅前だ。巨大温室を建ち並び、川が流れ、馬が走れる広大な土地を持っていたそうだから、今なら超一等地である。

妙な共通点を感じてしんみりした本日であった。そのうちお参りに行く予定。

2023/08/30

朝ドラの描く台湾領有直後

本日の朝ドラ「らんまん」。いよいよ万太郎が台湾へ調査に出かけた。

これは史実の牧野富太郎が行った台湾調査をなぞっているのだが、私的には大いに注目している。というのは、日本が領有直後の台湾でどんな行動をしたのかに非常に興味を持っているから。ドラマとはいえ、NHKがその場面を描くにはそれなりに調べて映像化しているはず。どんな様子が伝わってくるのではないか、と注目しているのだ。

それは土倉龍次郎の足跡でもあるからだ。ドラマの調査団は、1896年7月出発と言っていたが、実際のメンバーは誰がいたか知りたい。おそらく人類学者の伊能嘉矩が入っていたはずだ。彼は1895年11月に渡台しているが、翌年7月に調査団に入っている。龍次郎は1895年の12月に上陸して、台湾を縦断(台北~台南)したうえに、96年9月に龍次郎と長野義虎で玉山(新高山)に登ったと目される。二人の足どりは重なっているのだ。

20230829-130243

国立博物館の里中氏(おそらく田中芳男がモデル)が調査の内容を説明。しっかり林業が入っている。

20230830-081556

当時は船で基隆に上陸した。当時の基隆港の様子が知りたかったのだが、さすがに港の映像はなかった。もしかして田舎の浜辺に艀を使って上陸したんじゃないかなあ。

20230830-081653

港で迎えの人が、地人にも現地人にも日本語を使えというのは、本当にあったのだろう。占領直後で日本語をしゃべれる中国人も少なかったろうに。なお戦前より台湾に潜入していた日本人もいて、龍次郎の通訳兼ガイドには彼らが勤めている。二人いて、尾形という名が伝わるが、彼らの正体もよくわからない……。

領有直後の日本人の態度はひどかったようだ。当時の資料をあさると、メチャクチャ。日本軍を歓迎していた人たちまで弾圧している。なんだか、ウクライナを侵略したロシア兵と似ている。占領したから何をしてもいいんだと思っていたんじゃないか。それに官吏の腐敗もひどい。それをルポした新聞記事は、政府批判もきつくする。また台湾総督を務めた乃木希典も、腐敗のひどさに触れている。

ただ山地原住民(いわゆる高砂族)には、当初は比較的融和的だった。放置と言ってもよいかもしれないが。後に高砂族の文明化を掲げて抑圧政策に変わるのだけど。もっとも日本人もよく首を狩られたようだwww。

日本の植民地経営を軌道に乗せて、ちゃんと法治を徹底して、人心掌握するまでには、時間が掛かっている。

20230830-081809

そして、何より気になるのが、この言葉。牧野は台湾を縦断したのか。龍次郎の縦断探検と同じなのか。どこか行動記録か日記でも残っていないだろうか。
その後も土倉龍次郎は台湾に滞在し続けるから、伊能や牧野と出会っていた可能性は十分にある。

Img_20230830111017

こんな文献も手に入れたよ。

 

2023/08/14

阿里山巨木林の日本人探検家たち

最近、マスコミに戦艦長門がよく登場する。朝日新聞に連載があったし、テレビでも戦争末期に洋上砲台と化した姿(ようするに航行できずに沿岸に留め置かれて砲台として使われた)が映し出された。

戦艦大和ばかり話題になることが多いが、実は連合艦隊旗艦として、開戦から終戦まで生き延びた唯一の戦艦である。そして米軍に接収された長門は,水爆実験に供せられた。が、一発では沈まず、二発目でようやく沈没する。もし乗組員がいて、排水もしくは注水してバランスを取れば、沈まなかったのではないかという推測もある。他の船が一発で吹き飛び沈んだのに比べ、圧倒的な不沈ぶりだった。 

とまあ、そんなことを書きたいのではなく、豆知識として、戦長門の甲板の木は阿里山のタイワンヒノキが使われた、ということを触れたかっただけなんだが。

そして、ちょうど今、土倉龍次郎が撮影したとされる阿里山の写真を解析していて、新たな事実を発見したのである。

最初に借りた写真はこのようなもの。

1_20230814165901

非常に色あせていて、森の写真とかろうじてわかる程度。ただ裏書きに「アリ山」の文字があるのだ。つまり龍次郎も阿里山を訪れているらしい。もしかしたら日本で最初であり、一般に言われる阿里山の巨木林発見より早い。長野義虎が阿里山を踏破し、斉藤音作と本多静六が大森林を発見したことになっている。その前だ。

もちろん、この写真がいつ撮られたのか確認しようがないのだが。

さて、今回はこの写真をもっと精密なスキャニングをかけて詳細に点検してみた。まず巨木の根元に人間らしきものが写っていることにきづく。これは以前にもそれらしくはあったのだが。より拡大し、コントラストや照度、色を補正していく。すると。

2_20230814170501

これが巨木の周り。すると、一人ではないのだ。何人もの人がいた。隣に一人、少し離れて何人か。それも軍の将校か警官のような服装をしている人物もいる。拡大してみてほしい。何人発見できるだろうか。

これはわりと大きな探検隊かもしれない。ここに龍次郎が写っていたらよいのだが……。そして人間の寸法からすると、巨木の直径は3メートル近いのではないか。

ともあれ、こうした日本人のタイワンヒノキ発見が、後の大伐採につながり、神社仏閣、そして軍艦の甲板に多用されていくのであった。

 

 

2023/08/02

台湾提供のヒノキ間伐材

首里城再建に、台湾から台湾ベニヒノキが5本提供されたというニュース。

台湾、首里城再建にベニヒノキ5本提供へ 20年に人工林で間伐 

外交部によると、火災前の首里城の木造建築に台湾のヒノキが使われていたことから、日本側からベニヒノキの提供に関して打診があったという。台湾では天然林の伐採は禁止されているが、人工林では定期的に間伐が行われ、間伐された木は貯木場で保存される。日本に贈られるのは、2020年に間伐された3.86立方メートル分だとしている。

Photo_20230802162901

5本でも提供されれば有り難いことだが、私が引っかかったのは、人工林のベニヒノキだということ。

タイワンヒノキと呼ばれる樹木は、大半が紅檜、ベニヒノキだが、台湾の固有種だ。かつてはご神木だった。阿里山などには直径数メートルものヒノキの巨木林があったことで知られる。今は伐採禁止になっているが、人工林もつくっているのだね。そして写真によると、間伐材でもこの太さ。比較するものが明確にないが、おそらく直径80センチ以上のものだろう。それだけの木が人工林でも育っているのか。

さて、ここで見てもらいたい写真がこれだ。

Img_20230725215621

これは土倉龍次郎の縁戚からお借りして私が複写したものだが、どうも龍次郎が台湾探検に歩いたときに撮ったものらしい。写っている背景にあるのが、直径1・5メートル級の大木。多分、タイワンヒノキ。これが、いつ、どこで撮影したものかわかるといいんだがなあ。

写真には、軍人ぽい姿の隊員も写っている。龍次郎は、1895年12月に台湾に渡って、それから数年間は台湾中を歩いたとされる。最初に台北から台南へ縦断し、その後、阿里山や玉山も歩いたと伝わる。その真偽を証明するかもしれないのだ。写っている人物がわかればなあ。

Img_20230802112943

こちらは先住民の村。やはり探検途上に寄った村だろう。薪用なのか、木片がたくさん転がる。

 

2023/07/12

石版印刷と吉野林業全書

朝ドラ「らんまん」で、石版印刷が登場する。ドラマでは槙野万太郎(モデル牧野富太郎)が、植物学雑誌、そして、いよいよ植物図鑑の刊行をめざして動き始めるのだが、そこで当時もっとも精密な印刷ができる印刷機として石版印刷が紹介される。実際、牧野も印刷所に通って印刷技法を身につけたらしい。

実は、私も石版印刷には興味を持っていた。というのも、「吉野林業全書」がその技法で出版されているのだが、肝心の石版とはどんなものかわからなかったからである。ドラマでは、わりと細かく説明されていて、だいたい理解できた。石版の上に毛筆で絵や文章を書いて、それを撥水させる方法で印刷するようなのだ。現在のオフセット印刷に近い原理ではないか。

ただ枚数を重ねると、石版を削って描き直すらしい。また原盤の保管もしない。大量印刷には向かないのか。原盤が残っていたら面白いのだが。

「吉野林業全書」のあるページ。

1_20230712100901

少し拡大してみる。

Photo_20230712102601

土倉屋敷もしっかり描かれている。部屋の配置や植木までわかる。また門前から河原には、筏を組むところが設けられている。柵があるのは何だろうか。魚の生け簀ではもいだろうが。

Photo_20230712102701

そして右ページにあるのが、割滝だ。吉野川の岩を削って筏を流せるように水路である。ちなみに道を歩く一間で描くのは、画工のこだわりか。
こうした細かな点まで描けるのが、当時石版印刷が一世風靡した理由だろう。ドイツ製とか言っていたが、世界的に広がったのかもしれない。

Photo_20230712101001

写真では、こんな具合。

この割滝について、毎日新聞に記事を書いた。

124 林業遺産を訪ねて/1 土倉翁の足跡・磨崖碑と割滝 /奈良 

ほとんと読めないけど(笑)。

Photo_20230712101201

小さくしておいたけど、頑張れば読めなくない(^^;)。

「らんまん」では、いよいよ石版印刷機を購入することになった。当時の1000円というのは、現在の2000万円ぐらいか。大奮発である。

「吉野林業全書」は、森庄一郎著で土倉庄三郎は校閲だが、450ページで挿絵102枚、筆工は中邨芳水、画家は小林芳崖、彫刻は田無瀬芳嶺である。そして出版費用は、土倉家が負担している。

 

2023/06/03

フェノロサ講演会に思う

今日は、急遽、浄教寺の本堂で開かれた「フェノロサ講演会」に足を運んだ。

講師は、西山厚・奈良国立博物館名誉館員。「奈良の仏像 フェノロサを読む」

6_20230603214001

アーネスト・F・フェノロサは、明治期の日本の「お雇い外国人」である。専門は哲学だったとのことだが、実質は美術、文化財となった。そして日本の文化財保護に大きな足跡を残した人物である。

奈良市の浄教寺は、そのフェノロサが「奈良ノ諸君ニ告グ」という講演した場所。1887年6月5日、今から136年前のことだ。寺の境内を借りて行われた講演会には、岡倉天心が通訳となり、数百人を集めたという。その中には奈良県知事もいたようだ。非常に注目を集めた講演であった。

そこでフェノロサがぶったのは、日本の絵画や彫刻、とくに仏像の素晴らしさであり、これは奈良の人の宝ではない、日本の宝だ、いや世界の宝である、古代ギリシャ彫刻に引けはとらぬ、ギリシャの最盛期は1、2世紀しか続かなかったが、日本は千数百年も続く、今も続いている、これを守らずしていかにせん! と檄を飛ばしたのである。

実際、フェノロサは、仏教徒になったうえ、アメリカに帰国後はボストン美術館に日本館を設けてキュレーターとなった人物だ。生涯を日本の美術に関わったのである。

さて、なぜ私がこの講演会に行ったのか。それは『山林王』を執筆中に浄教寺について書いたからである。それは土倉庄三郎が古社寺の文化財の保護に取り組んだ(『山林王』136ページ参照)章に関連してであった。

なぜ、庄三郎は、古社寺の保護を言い出したのであろうか。そのヒントとして浄教寺の講演会があったのではないか。もしかして、庄三郎も参加していたのではないか。これに刺激を受けて自らも文化財保護に乗り出したのではないか……というのが、私の仮説。

もちろん証拠はない。どこにも参加したとは書いていないし、講演会の参加名簿でもあればなあ、と思っている。

が、それから9年後、庄三郎は「古社寺保存ノ請願」を貴族院議長宛に提出した。その内容には、西洋の文化財保護の内容などにも触れており、とても個人では知ることのできない情報が含まれているのである。そして欧米諸国が日本の美術を称賛していること、これは大和のみならず日本帝国そのものの価値と記す。これって、フェノロサの言い分に似てはいないかい?

1_20230603215101

……とまあ、そんな気持ちで講演会を後にした。ちなみに、浄教寺には父の葬儀でお世話になった関係である。これも縁だ。

 

2023/06/01

土倉庄三郎の研究?「大和の国のリーダーたち」

『大和の国のリーダーたち』(京阪奈情報教育出版)という本が出たと知らされた。

奈良県立大学ユーラシア研究センター編、とあるが、ようするに奈良県立大学で行われた講義を元にした本のよう。近代奈良に現れた産業界のリーダー格の人たち8人を取り上げているのだが、その中に土倉庄三郎も加わっている。

Photo_20230601220901

その章は、「土倉庄三郎-不動の人」として編集責任者の中島啓介氏の執筆。

さすが学者らしく、私も知らなかった庄三郎の登場する文献を引っ張りだしてきて紹介している。そして吉野林業やインフラ整備、教育支援、自由民権運動などを取り上げて解説。ただ、林業のとらえ方も私とは違うところもある。それに庄三郎の行動をすべて家業である林業、そして吉野林業とつなげて分析しているのは違和感がある。道路や水路整備はともかく、自由民権運動を吉野林業の発展のために取り組んだ、とされてしまうとなあ。

私自身、以前は庄三郎の行動は、結果として土倉家が儲かるようにつながったのではないか、と感じていたこともあるのだが、『山林王』の執筆を通して、かなり見方を変えた。今で身、むしろ反対ではないかとさえ思う。そう言えば、本書の文献には私の前著『樹喜王 土倉庄三郎』が入っている。(『山林王』とは出版時期がかぶっているから、当然ながら参考にはできないはずだ。)

Ex-ex

まあ、それはよいのだ。ちょっと驚いたのは、これを「土倉庄三郎研究」の助走とするという文言があること。つまり、学問として研究対象とするらしい。これまで、私以外誰も土倉庄三郎の思想や行動履歴に手を付けていなかっただけに、ついに現れたか!という思いなのだ。

これまで部分的、たとえば板垣退助との関わりとか、『吉野林業全書』の成立とか、部分的に土倉庄三郎を研究する人はいたが、人物論として全人格的に論じる研究はなかった。だから喜ばしい。

私としては、もう先鞭をつけたので、後は研究者sがそれぞれの切り口で土倉庄三郎を研究してくれたらよい。私は、もう一線から外れるつもりだ。もともと私は、吉野林業を解読して描く道標として土倉庄三郎に目をつけたのだが、やがてミイラ取りがミイラになったように庄三郎という人物に魅せられてしまったのである。それにブルーオーシャンというか、誰も手を付けていない、未知の人物だから興味を持った面もある。今後大きな新事実などが出てきたらフォローはするだろうが、老兵は去る、つもり(^^;)。

私の興味は次に向かっている。人物としての面白さ、ドラマチックな生涯は、庄三郎以上と思っている。土倉龍次郎である。

 

 

 

より以前の記事一覧

February 2024
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29    

森と筆者の関連リンク先