京都・龍谷ミュージアムで開催中の「大谷探検隊 吉川小一郎」展に行ってきた。

浄土真宗本願寺派(西本願寺)法主・大谷光瑞が行った中国・西域の仏教遺跡調査の第3次探検隊を率いた人物である。遺族の家から新たな資料が発掘されたことから開かれたとある。
吉川の展示物そのものは3階だけで、しかも主に書簡類が中心ということで地味な印象であった。人物も、いわゆる探検家的な豪放磊落さというよりは、生真面目な印象。大谷光瑞から命じられたことをしっかりこなした探検であった。それでも、幾つかの点で発見があった。
たとえば三島海雲(カルピス創業者)が探検を支援していたことを示す葉書があったこと。三島は、若いころ、中国に渡って内モンゴルに分け入って馬の買い付けなどに従事している。その時は、土倉五郎、つまり土倉庄三郎の5男と一緒だった。後に4男の四郎も加わっている。資金は土倉家が出して内モンゴルの王家と人脈をつくろうとしていた。また当時の清国公使は内田康哉であり、その妻政子も北京にいた。そこに大谷探検隊が絡んでいたのかもしれない。ということは、吉川は五郎や四郎とも会っていた可能性が高い。
庄三郎の次男龍次郎の息子(つまり庄三郎の孫)正雄の奥さん宣子さんに生前お会いしたとき、吉川小一郎と会った話を聞かせてくれた。
当時、宣子さんは友達と「シルクロードの会」というのをつくっていて、中国西域の勉強をしていたそうだ。そして吉川に会いに行ったのだ。1970年代と言っていたから、吉川は90歳前後のはず。ただこの展覧会では、吉川をインタビューした際のテープで音声を披露していた。そこでは元気に話しているから、十分あり得るだろう。
そしてメンバーの自己紹介をした際、「土倉宣子」という名の姓に反応したという。
「土倉さんにはお世話になった。上の人が言ったら、いくらでもお金を出してくれた」
そして感謝の意を伝えたという。上の人とは、大谷光瑞だろうか。
当時、法主である大谷光瑞も、探検隊の金を自由に出せなくなっていたのだろう。その後、金の使いすぎで失脚している。そこで土倉家に頼ったのではないか、と思われる。
ただ、吉川の探検隊は1911年出発だ。その準備期間中としても、前年の1910年か、せいぜい09年。その頃の土倉家は、身代が傾いていた。長男鶴松が野放図に事業に投資して破綻しかけていたのだ。09年には山林売却を家族会議で決めている。龍次郎も台湾の事業を売却して帰国している。
そんな時に、西域探検に金を融通するか? 鶴松ならやりかねない気もするが……(´Д`)。ちなみに鶴松は「在家の大谷光瑞」と呼ばれていた。二人とも、湯水の如く金を使うという共通点がある(笑)。
もっとも11年には済生会病院設立に1000円寄付した記録もあるから、その程度なら出せたのかもしれない。ただし、こちらは庄三郎の事績である。鶴松は家を出た。家政を破綻させたうえに妻の死去と即再婚などから土倉家にいられなくなったのである。
やはり、わからないことが次々と出てくる。土倉家のことは調べ尽くして、もう終りにしようと思っていたが、謎が謎を生み困る。
まあ、土倉家の破綻には、大谷探検隊も関わっているんですぜ( ̄∇ ̄) と言ってみたくもあるが(笑)。
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