土倉庄三郎

播州清水寺

兵庫県の播州・御獄山清水寺を訪れた。

このお寺は、とてつもなくすごいのである。まず西国二十五番札所である。

創建は1800年以上前の推古天皇の時代。なんと、日本に仏教が伝来するより前なのだ。

そして聖武天皇勅願で、行基が大講堂を建立している。

また坂野上田村麻呂が刀剣を奉納して残っているし、菅原道真の直筆が展示されている。

平清盛の文書もあれば、弁慶が使った囲碁盤もあり、そこには碁石がめり込んでいる。

ほかにもいろいろな歴史上の有名人が登場する。これほど古今の宝物が揃う古刹も珍しいのではないか。ただ、国宝や重文に指定されていないのが不思議だが……(^^;)。

021 根本中堂

もう一つ注目すべきは、寺領の山林が900町歩近くあることだ。以前は940町歩あったそうだ。もともとスギやヒノキの大木が林立していたそうだが、明治時代の写真を見せていただいたところ、ほとんど禿山状態だった。

いろいろ騒動があって立木を伐って売ったのだが、その際に間に入って事件を納め、伐採する代わりにちゃんと植林するからと、吉野の川上村から職人まで送り込んで森を再生したのが、土倉庄三郎なのである。その御礼として支払われた2万円(おそらく現代の2億円相当)を使って、寺までの道づくりも行っている。

庄三郎最晩年の仕事であった。

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「垂不朽の碑」。土倉庄三郎の事績が刻まれている。

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幻の土倉屋敷

吉野に行ってやりたかったことは、先に書いた「吉野林業全書」のことがある。

これが、川上村大滝の図。

                                                         Img037                                                 

                                               

見た通り、大きく吉野川が蛇行するところに大滝集落があるのだが、この曲がり鼻のところで、上流から流されてきた原木を集めて筏に組み直して下流へと下る。

その筏を組む様子の図版もあるのだが、こちらの図版には、曲がり鼻の所に屋敷が描かれている。これこそ、土倉屋敷だろう。

土倉屋敷は豪邸だったと伝えられているが、具体的にどんな間取りだったとか家屋は何軒あったとかはわからない。すでに記憶の彼方だ。

しかし、この図を見ると、きちんと屋敷や蔵などが何棟あるか読み取れる。

ただ、そんなに敷地が広いわけではない。やはり急峻な山肌と川に面した場所に、そんなに平坦地を確保できないからだろう。敷地いっぱいに家屋が立ち、庭らしきものはほとんどなかったようだ。ただ家の前にマツの木が植わっていた。

P7100054_2                                               

実際、伊勢湾台風で崩壊した家屋の写真を見ると、マツの木が写っている。かなり画質は悪いが、貴重な土倉屋敷の全容だ。

現在は、手前に高い建物ができたせいもあって、この曲がり鼻をうまく見ることはできない。ただ道が拡張されて、屋敷跡の敷地はかなり削られたようだ。加えて、郵便局と駐在所を建てるために土地を提供したから、残っている敷地はわずかだ。

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一部に銅像が建てられたが、ここには礎石があるだけ。

後ろに土塀がボロボロになりつつも残されていたが(以前、前ブログで紹介)、それも今回見たところ撤去されていた。いよいよ、当時を忍ぶものはなくなっていく。

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吉野林業全書、入手!

土倉庄三郎が出版に関わった、「吉野林業全書」。

著者は、森庄一郎となっているが、事実上、土倉が執筆したんだ、ということになっている。

さて、真偽は……。

ということもあるのだが、この本、戦後に復刻されている。私は、それを図書館で重要箇所をコピーを取って手元に置いていたが、この本について調べようと思うと、やはり全編欲しくなった。

そこで、ネットで調べると、意外や簡単に復刻版なら手に入るようだ。価格も、そんなに高くない。もちろん原本は馬鹿高いが、復刻版の方が現代語訳もついているし、関係者の序文なども添えられていて、都合がよい。

そこで注文したのが、ついに届いた\(^o^)/。

Img036                                                 

                                                

写真は、原本の方の表紙。重々しい(^^;)。

挿絵が豊富なんだが、なかには吉野・大滝の筏場の風景もある。そこに描かれているのは、おそらく土倉家の家屋だ。

焼失した土倉家の往時の姿を推測するには、この図版は貴重だ。

というわけで、明日は吉野に行っていま~す(^o^)。

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庄三郎は中国の土を踏んだか

忘れたころの、土倉庄三郎ネタ。

目先の仕事に追われて遅々として進まない作業だが、またもや庄三郎の子孫の方より連絡があり、また新しい情報を得られそうな予感がする。少しずつでも進めないと。

と思って、庄三郎の講演録を読み返している。

これは、旧仮名遣いの上に漢字カタカナ文で、しかも句読点が一切ない。行替えも極めて少ない代物。おまけに、しゃべった言葉をそのまま起こしたらしく、言葉の繰り返しや詰まった言葉まで記述している。それだけに本人がしゃべったままということで正確さに期待が持てるのだが、極めてよみにくい。

それでも拾い読みしているうちに、重大な発見をした。

支那ヲ視察シテ何心ナク鴨緑江ヲ流ス材木ヲ見ルト……」という文節が登場したのである。

それまでもアメリカや中国の森林事情を語っていたりしているのだが、それだけなら聞き取りの可能性がある。が、ここにははっきり「視察して」とあるのだから、自ら訪ねたことになるではないか。それも鴨緑江を見たというからには、朝鮮半島から中国領に入ったことを示すだろう。

土倉庄三郎が、海外に渡った記録は、これまでなかった。すると、新発見だ!

庄三郎研究に新たな事実が……と感激してしまった。まあ、土倉庄三郎を研究している人が何人いるのか、この事実を知って感激してくれる人が果たして世間に何人いるのか、定かではないけれど(^^;)。

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朝日新聞記事「カーネーション100年」

昨日の朝日新聞夕刊に、「母の日の花 日本に100年」という記事が載った。

このプログにも書いた「カーネーション栽培100年」を紹介している。そこには、当然のことながら「カーネーションの父・土倉龍治郎」が登場していた。台湾で電気事業や林業をしていたことにもサラリと触れられていた。
龍治郎の四男である正雄氏もコメントを寄せている。「親族の経営失敗のあおりで、父は自分の事業を手放さねばならず」と、ここでもサラリと触れている。だが失意と人間不信の合間を、舶来から渡ってきた花が埋め、やがて魅せられていくのだ。

この裏に、吉野の土倉家、とりわけ土倉庄三郎の物語が隠されているとは、記者も知らないだろうなあ……と妙な感慨に耽った(^^;)。

ちなみに、私はこの記事で、明日が「母の日」であることに、ようやく気づいた(>_<)。
でも、私はこれから京都の北の方に旅立つのである。明日は舞鶴当たりを彷徨しているだろう。だから母の日のプレゼントはなし。何か日本海のお土産でも、買って帰るか。

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カーネーションの父

2009年は、日本でカーネーションの生産が始まって100周年である。そして「カーネーションの父」と呼ばれているのが、土倉龍治郎である。

そう、名前から想像がつくとおり、土倉庄三郎翁の息子(次男)である。

今日は少し趣を変えて、カーネーション創世時代のご紹介。

1909年、アメリカ・シアトル在住の澤田氏が帰国の際にカーネーションを持ち帰り、東京に温室を建てて栽培し始めた。だが、栽培方法がわからず、生産も軌道に乗らないまま病没する。その後を引き継いだのが、土倉龍治郎だった。

彼は、台湾に渡り1万町歩の土地で林業を進め、また台湾で初めての水力発電所を建設するなど活躍するが、本家の傾きにより、すべての事業を三井家に譲渡して金を本家に差し出す。そして帰国後は東京に居を構えて、目黒に温室を建設、カーネーション栽培に乗り出すのである。

種子は、あらためてニューヨークの会社から取り寄せるほか、シアトルにいた弟・四郎から送ってもらったり、駐米大使の夫人となっていた妹・政子の手で輸入したりしたようだ。

その後、苦労して栽培方法を確立し、その技術を秘匿することなくオープンにした。それがカーネーション栽培の拡大につながるのである。また品種改良にも取り組んでいる。大規模な温室を経営してカーネーション生産を事業として成功させる。龍治郎の後半生は、こうして花卉産業に活路を見出し、それなりの成果を上げたのだ。

その後目黒の土地も、川上村の土倉本家に差し出す形となり川崎に移るが、1931年には大日本カーネーション協会を設立する。また「カーネーションの研究」という名著も記した。林業でくじかれた壮途を、可憐な花で取り返した、不思議な人生を歩んだのだ。
そして1938年に亡くなるが、その際には「カーネーション葬」でおくられたという。

ちなみに台湾では、「水力発電の父」として業績に光が当てられているし、帰国後もカルピス誕生にも手を貸すなど多方面に活躍するが、これまでカーネーション界では、謎の人物だったらしい。

実は、カーネーション生産100周年の記念誌を作るために尽力されていた方が、土倉龍治郎を調べている過程で、拙ブログに行き着いたそうだ。そして山林王・土倉庄三郎の次男であることがわかり、さらに存命の龍治郎の子孫とも出会うこととなった。末子の正雄氏は、記念式典に出席し、感謝状を受け取り挨拶したと聞く。正雄氏は、庄三郎翁よりも、父・龍治郎への思いが強かっただけに、感無量であっただろう。

そして私の手元にも、丹精した立派な記念誌が届いた。多少とも、龍治郎の名が世に残ることになったのは喜ばしい。

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智頭の石谷家

今日は、急遽、鳥取県の智頭町に行った。日帰りだから、きつい……。

もちろん仕事だが、わずかな時間を割いて寄ったのが、智頭宿の石谷家住宅。国の登録文化財にも選ばれ、ちょっとした観光地にもなっているが、大正時代に建てられた地元の名士の豪邸を開放しているのだ。

建てたのは、石谷伝四郎。衆議院議員やら貴族院議員にもなったり、農民金融を手がけて町の発展に尽くした篤志家だが、その基本には山林経営があった。智頭林業の立役者なのである。

土倉庄三郎のことを調べていると、智頭の林業家との交流も出てくる。また智頭林業自体が、吉野林業に学んだところが多いようだ。そこで、何らかの関わりが見つかるかも、ということと、戦前の林業資本がどれほどの財産を持っていたのかイメージするのによいと思ったのである。

たしかに凄い豪邸である。一体いくつの座敷があるのか。二階には邸内に橋までかかっている。中庭だっていくつもあるし、庭園がまた広い。
そして掛け軸、屏風、鴨居の彫刻……など当代の逸品揃い。おそらく観光客の多くは、そちらを見るために訪れているのではないか。でも私は……。

まず見たのが、土間の上の吹き抜けに見える梁だ。直径1m近いマツの大木が何本も使われている。そして大黒柱は辺60センチはあるケヤキ。通常の柱も、おそらくヒノキだろうが、いずれも無節なのだ。全部、自分の山から伐りだしたのだと説明を受けたが、これほどの太い木が無節ということは、大昔から手入れをしていることになるが、智頭林業にそれだけの歴史はあるだろうか。(智頭林業自体は、江戸初期に起こされたが、枝打ちや間伐などの手入れが行われたのは、おそらく明治からだろう。)

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写真は、土間部分だが、広い。ここで、山番(吉野の山守と同じような制度がある)が当主に拝謁?して、仕事の打ち合わせをしたそうだ。

かつての土倉家の屋敷も、このような土間とその奥に座敷がいくつもあったそうだ。ちょっと当時の雰囲気を想像する。

ただ話を聞いているうちに、伝四郎は庄屋としても財を成していたそうだし、むしろ農業や金融で稼いだ金を山林につぎ込んでいたらしい。
また庄三郎と交流があったのは、伝四郎ではなく、分家の石谷源蔵ではないかと思えた。同時期に吉野を訪れて林業技術を伝えたのは、源蔵だからだ。

ともあれ、智頭林業も林業界に覇を競った時代があったことを忍ばせた。

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林業資本と銀行

先日、銀行の方々と面談。テーマはともかく、思わず土倉庄三郎の話になった(^o^)。

というのも、庄三郎は銀行の設立にも関わっているからだ。

その一つが、吉野材木銀行。明治31年のことで、本店は現在の吉野町上市に置いていた。発起人筆頭が土倉庄三郎である。ただ経営には携わらずに、顧問に就いていたようだ。この銀行は、後に吉野銀行に吸収され、吉野銀行もその後ほかの3行と合併して、現在の南都銀行となる。

ほかに奈良農工銀行の監査役も勤めている。この銀行はその後、日本勧業銀行-第一勧業銀行-みずほ銀行へとつながっている。

当時は、各地に小規模な銀行が勃興する時期だったのだ。そして、その設立には少なからず林業資本が参画していたようなのだ。それほど当時の林業は、資本蓄積が可能な国の重要産業であったのだろう。私は、GDPの何割かを林業が生産していたのではないかと睨んでいる。今は見る影もないが……。

もともと土倉家は江戸時代から金融機能も持っていて、川上郷の造林や木材出荷に当たって、金銭の貸し借りを行っていた。ときに融資分を返せない山主からは、山を取り上げたらしい(^^;)。

現在は、むしろ林業界に資金が入って来ないことが行き詰まりを呼んでいるような気がする。何か新起業のアイデアがあっても、資金がないのである。
仕方なく、政府の助成金を当てにする癖がついてしまって、それが失敗の元。助成金もらって起こした事業がうまくいった試しがない……とまでいうと怒られるが、はっきり行って事業でなくなる。

金融は産業の血液というが、この血のめぐりをよくする手だてを考えないといけない。

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長男なのに庄三郎

昨夜は、某歴史学者とお酒を飲んだ。

そこで、江戸時代のイメージを覆すようなさまざまな話を聞いたのだが、そこで思い出したことを聞いてみた。

土倉庄三郎の名前である。彼は長男なのに、庄三郎。土倉家は、代々「庄右衛門」という名を付け継いでいる。父は3代目庄右衛門だった。彼も4代目庄右衛門になるはずだったのに、幼名「丈之助」から庄三郎になってしまった。
そして次男は平三郎、三男が喜三郎である。なぜ男3人を三郎と名付けたのか。

なんでも幕末に、右衛門、左衛門などの名前は禁止になったという噂が流れたことがあり、そのためみんな改名したという説があった。その真偽は?

なんと、本当だというのだ。噂ではなく、本当に右衛門とか左衛門、兵衛門などは禁止するお触れが出たというのだ。それは公家の出す位階に通じるから、下々の者が使うことはまかりならん、と官軍側が出したという。

となると、これで土倉家の名前の秘密が説明がつくぞ。

それにしても、幕末にはヘンなことがいっぱい起こっている。川上村も天誅組との関係をもっと洗い直した方がよい。

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オリンピック選手

吉野から帰ると、オリンピックの閉会式をやっていた。

ようやく終わる、と個人的にはホッとしているのだが……。

終盤、男子400mリレーが銅メダルをとり、陸上トラック競技で初めてのメダル、と騒がれていたので思い出した。

過去、1932年の第10回ロサンゼルスオリンピックで女子400mリレーが5位で入賞したことがある。その4人の選手のうちの一人が、土倉麻。

そう、土倉庄三郎の孫である。長男の末っ子ではなかったかな。その後、同じオリンピック選手と結婚して田島姓になったはず。

いや、それだけ(^^;)。なんの関係もないけど、思い出したから。

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土倉翁造林頌徳記念碑

久しぶりに土倉庄三郎ネタ。

奈良県の川上村を訪れた人なら知っているが、巨大な岸壁に「土倉翁造林頌徳記念」碑が、彫られている。高さ50mに届こうという高さの磨崖碑だ。これは庄三郎没後の大正10年に、林学博士本多静六の発案で作られたもの。

028_2                                             

                                                

ところが、さすがに近年は岸壁にコケや雑木が茂り、また白く塗られた文字も色が薄れてきた。とくに過半部は、ほとんど読めなくなっていた。そこで、地元で結成されたNPO法人「芳水塾」で、再生事業を企てたのである。

上記の写真を見たら「土倉翁」の文字のところに人がいるのが見えるか?

真下から見上げて拡大すると、078 こんな具合。

                                             

                                                     

                                     

               

村の事業として行うと、川の中に櫓を組んで大変な事業になるところで、財源不足から難しいところを、NPOだけにロッククライマーを動員して、ボランティアで清掃を行うことになったのである。

そのリーダー格なのが、土倉大明さん。その名からわかる通り、庄三郎の曾孫に当たる。彼自身がロッククライマーなのだが、仲間に声をかけて、この事業を行っているのである。

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年々戦勝論

久しぶりに土倉庄三郎ネタ。

忘れたわけでなく、コツコツ資料収集を続けているのだが、さすがに最近は大きな情報は少なくなった。

その中でも、前から気になっていたのが「年々戦勝論」。
これは庄三郎が日清戦争後に発表したとされるもので、世間は戦勝に浮かれているが、そこで得た賠償金や領土(それも三国干渉で一部取り戻された)と、そのために費やした戦費や人命を思うと無駄であった。それよりも山に木を植えたら毎年木は生長して収入を得ることができる。それは年々、戦勝しているも同然だ……という林業家ならではの発想だ。

文献を呼んでいると、各所で引用・紹介されているが、その原典が見つからない。そこでアチコチ探した上で、国会図書館にも手を延ばしたのだが、その回答が得られた。

それによると、「年々戦勝論」という公刊された資料は、ないということだ。どうやら庄三郎が遊説などでしゃべったものが「年々戦勝論」と名付けられて流布したらしい。

あらら。そういえば、私が手に入れた土倉講演録にも、触れられているなあ。これが一次資料になるかもしれない。もしかしたら、資料として「年々戦勝論」を手にしているのは、私が一番多いかも(^^;)。

ほかにも、引用文件だけでは全文ではないので、苦労して原典を当たったら、引用部分と数行多いだけの代物だったりもする。さらに、新しい文献か、と思って読むと、孫引き資料によるものだったり……。

そろそろ資料面では行き着くところまで行った感。あとは、十分に読み込んで内容を理解し全体像を結ぶことができるかどうか。

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吉野高校林業博物館

久しぶりに土倉庄三郎のことに触れる。

先日、吉野高校にある林業博物館を見学した。実はこの高校の森林科学科は、かつての林業学校で、庄三郎が設立に関わっている。

博物館は、古ぼけているが、なかなかどうして、資料は一級品が揃っている。奈良県の林業関係の見本や資料としては、一番貴重なものがあるかもしれない。013                                                                                          

これは春日山原始林の春日杉。台風で倒れたものだが、もっとも太い根元の輪切りだ。そのほか何百という樹種の見本や木材関係の本物の資料が並ぶ。

それに割り箸関係、吉野川の古い写真。そして、土倉庄三郎と妻の肖像画。

001                                                                                                   

                                                                                                                        

実は、これまでため込んだ土倉関係の資料を改めて整理している最中。数にして140を超えており、とても読みきれない。

庄三郎の事績を並べると、紀州藩がかける税金撤廃運動から始まり、自由民権運動のスポンサーになり、同志社大学や日本女子大の設立に尽力し、吉野山のサクラを救い、吉野川を大改修し、五條から三重まで抜ける東熊野街道を開設し、大台ヶ原と大杉谷を開発し、奈良公園の改良計画を手がけ……

ほとんど家業に関係ないことに金を費やしている。そのため、「父が築いた土倉家の財産を散じた」と表現されたりもする。

ところが、ちゃんと元を取っているのである。吉野林業と関係ないことをしているようでいて、結果的にそれが吉野の名を上げ、木材の流通をよくし、吉野材価格を高騰させ、ちゃんと儲けている。社会貢献は他人のためならず、だと感じる。
この学校もその一つかもしれない。

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五社峠の牛車道

昨日、五社峠に行ってきた。吉野町と川上村の間にある峠である。

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峠の切り通し。見た通り、倒木が道を塞いでいる。

かつては茶店もあったというのだが……。                                                      

                                                       

今でこそ峠の下の五社トンネルは数分で通過できるが、かつては峠道こそ交通の要衝だった。そしてこの峠道に、吉野林業に大きな役割を果たしたのではないか、そして土倉庄三郎にとっても象徴的な意味があったはず、と考えていた。
この道は、明治以前は、人が一人通れるだけの踏み分け道のようなものだったらしいが、若き土倉庄三郎が私財を投じて車の通れる道に開いたのだ。これが土倉の名を上げる一つになっただろうし、吉野川源流部の林業地帯に与えた影響は大きい。そして明治の元勲を始め、知事も学者も役人も、みんな峠を越えて土倉翁を訪ねたのだ。翁を訪ねた人の数は10万人を越すというから、そのほとんどが峠を通ったのだろう。

ただ車の通れる道と言っても明治初年だから、牛が引く荷車が主である。だから土倉牛車道と呼ばれる。かつて牛車がつづら折りの道を登ったり下って、川上村に物資を運んだのである。
脱線するが、伐採した木材を運ぶ木馬を大々的に採用したのも土倉翁らしい。今でこそ人力で運ぶなんて……と思いがちだが、当時は画期的なことだった。木のレールを敷くことによって、原木の山を一人で運べるようになったのだから。

どうも、土倉翁は、交通・運輸に対する特別な思いと先見性があったのではないかと思う。五條から伊勢まで結ぶ東紀州街道も開いているし、大台ヶ原への道も作っている。原木を筏にして流すための川の浚渫と岩の掘削にも取り組んだ。さらに筏の上に物資を載せて運ぶ便も多用している。晩年は、五社トンネルの建設も企てていた。
土倉、という名も、倉(蔵)を持つ馬引きを連想させる名だ。流通業や金融業を営む人の姓という説もある。土倉家を、単に林業家として見るだけでは見誤る。今でいう、造林・素材生産から運輸、金融業まで営む林業界のゼネコン?のような存在か。

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さて以前から、昔の感覚をつかむために五社峠を歩いて越えてみたいと思っていたのだが、何分旧道の入り口さえわからない。役所の人も知らない。困っていたら、なんと川上村に、土倉庄三郎に学ぶ会こと「芳水塾」が結成されて峠道を歩くという。そこで参加を申し込んだのだ。

もっとも話を聞いてみると、吉野町側から五社峠の神社までは車で上がれるらしい。そこから川上村側へ下る道が荒れている。だから歩くというよりは道の探索と通れるように草刈りをするという。そこで私も、麦わら帽に手鎌も用意した。鉈はまだ血糊が付いているかもしれないから(^^;)、止めとく。

だが、現地の様子は想像とは違っていた。開けた道跡に草が密生していて、炎天下それを刈る……というのではなく道は林間、そして下りなのだ。だから日差しもきつくなく快適。ただし、道は草は少なくても、倒木が道を塞ぎ、橋は落ち、雑木が繁っている。それらを伐ったり動かして通れるようにする。必要なのはチェンソーであった。
それでも案外幅はあって、広いところは2mを越えている。しっかりした石垣が築かれていたし、折り返し地点には、牛車を回すための膨らみも設けてある。元は、石畳だったというが、さすがにそこまでは確認できなかった。それでも想像以上にしっかりした道を土倉翁は作っていた。整備すれば、フォワーダとかハーベスタなど林業機械なら通れる。

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崩落していたり、

雑木に埋もれているところもあった。

                                           

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切り捨て間伐らしい倒木がかなり道を塞いでいた。

中には直径80センチ以上の大木も倒れている。

                                             

参加者はさすがに手際よく進んでいく。私も落ち枝や石を片づけていたが、思わず左親指を使ってしまってうなる。包帯が微妙ににじむところを見ると、ちょっと傷口開いたかなあ。

8 広いところは、これくらいある。

でも、橋が落ちていて難儀する沢も少なくなかった。

                                             

4これは、道の真ん中に植林したらしい。

道として維持することを諦めたか。勝手に伐れないところが辛いところ。

ともあれ、2時間ほどで降り立った。もう少し涼しくなったら、全コースを歩いてみよう。

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川上村のコウヨウザン

「広葉杉」と書いて、コウヨウザン。単に中国杉という呼び名もあるが、ようするに中国大陸の樹木だ。中国では「杉木」という名をあてるそうだ。日本にも、この木材は入ってきている。ホームセンターなどには、平気で「スギ製」と書いた簀の子などを売っている。ただし、スギとは似ても似つかぬ材質で、どちらかというとマツに近いと思う。ちなみに葉っぱなどは、モミやトウヒのようでもある。

何を長くこんな説明をしているかというと、先日訪れた川上村で、コウヨウザンの大木を見たからだ。旧川上第一小学校の校庭跡地にあった。

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この木の下に、碑があった。「土倉翁頌徳碑」である。小学校が誕生したのも、庄三郎のおかげであった。土倉翁の次男、龍次郎は、台湾に植林に行っているが、翁が還暦の際には、高砂族の首長らを連れて川上村に帰郷している。(この件については、前ブログで写真とともに紹介した。)
おそらくその際に台湾から持ち込んだこの木を植えたのではないかと推測されている。1900年(明治33年)のことだ。もし正しければ、どんな苗木だったかわからないものの、この木の樹齢は107年程度ということになる。

台湾には、コウヨウザンにごく近い変種のランダイスギ(巒大杉)があるというから、もし区別がつけば、確実に台湾から持ち込んだことがわかるのだが。

当時の土倉庄三郎は、もっとも繁栄していた時代だ。全国に轟き、子供たちも世界に雄飛していた。その名残ということもできるだろう。
吉野杉の里で、中国原産の杉がある理由を考えると、歴史のワンシーンに触れることができた。

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部分木制度

土倉庄三郎について調べる中で、息子の土倉龍次郎の足跡にも手を延ばしている。
先日、とうとう龍次郎のご子息(といっても86歳。庄三郎最後の孫だそうである)にお逢いできた。そこで聞いた話は実に興味深いのだが…ここでは、龍次郎が手がけた台湾植林のことを紹介したい。

日清戦争後、台湾を領有した日本は、台湾先住民、いわゆる高砂族がいる山岳部にはなかなか手が出なかった。そこに龍次郎は1万町歩300年の借地権を得る。そして植林を進めるのだが、首狩り族でもある先住民の抵抗は根強かった。

そこで取った政策が、「化用生蕃」と「部分木制度」だったという。
「化用生蕃」とは、植林前に伐採した雑木を利用して炭を焼いたり製材などを先住民に教えて、それを物々交換所で欲しいものに変えるというものだ。

「部分木制度」は、造林に協力した人々に造林後に山林の一部を分け与えるものだ。おかげで先住民は、植林だけでなく育林にも進んで手を貸してくれるようになった。

この二つの策は、先住民の心をつかみ、懐柔しつつ教育と生活レベルの向上に役立った。おかげで植林も成功を治め、台湾の治安確保や経済的安定をもたらした。

しかし私が気になったのは、部分木制度は、吉野に範を取ったという点だ。しかし私は、この制度名を耳にしたことがない。だから不思議なのだ。
あえて言えば借地林業と山守制度のことかな、とは思うが、地元民に山林の所有権まで与えるものではない。ただ山守には山林の優先利用権があった。立木を販売するという点では、同じことかもしれない。

もし日本の部分木制度について知っている人があったら教えてほしい。

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