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森と林業の本

2024/06/05

電力の父・土倉龍次郎と思わぬ電気利用

台湾では、獅子頭山に登る予定があった。ここは、土倉龍次郎が租借した山林地帯に近く、原住民(いわゆる高砂族)のテリトリーと接している。そこで隘勇線(あいゆうせん)と呼ばれる襲撃に備える防備エリアの痕跡が残っているというので楽しみにしていたのだが、あいにくの雨。

朝、さすがにザアザア降りを見て諦めた。その代わりに訪れたのが台湾博物館の南門館

これは本館とは別の場所にあり、元は樟脳と阿片の工場・集荷場だった所を改装したものだという。

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ここで樟脳関係の資料を見ていた(龍次郎は、クスノキを伐採して樟脳製造を行っていた)のだが、それとは別に2階に「台湾電力の歴史」コーナーがあった。そこで驚きの展示。

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この展示文をよく読んでほしい。土倉龍次郎の名があるから。そして亀山水力発電所の建設にかかわったことに触れている。台湾で初めて本格的な発電所をつくったのは龍次郎だということを記してあるのだ。実際の発電所は総督府に買い取られてしまったから、龍次郎は、これまで「台湾の隠れた電力の父」的な認識だったが、なんのことはない、台湾ではすでに電力事業の創始者として名が刻まれているのであった。

それだけではない。こうして供給されるようになった電気の利用法として、わりと大きく取り上げているのが、隘勇線。

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隘勇線の写真。木を伐って見通しをよくして鉄条網など防護柵を築いている。ところが、高砂族は、そんな防護柵を乗り越えて侵入し、首狩りを行う。随分、日本人も殺されて首をとられたそうだ。実は龍次郎の部下たちも殺されている。

だが、それを防ぐのに抜群の効果を見せたのが、電気柵だった!

そう、電力のもっとも有効な利用法の一つが電気柵だったのである。しかも、かなりの高圧電流を流したらしい。誤って触った日本人が死んだ記録もある。当然、高砂族も多くが電気ショックで亡くなったのだろう。

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今の獣害対策で設置する電気柵を連想する。通常の防護柵を破る害獣の対策に、電気柵は有効だという。言い換えると、高砂族を危険な害獣扱いしていたようなものだろうか。

もっとも現在の獣害対策用の電気柵の電流は弱い。シカやイノシシ対策にはなってもクマには効き目は薄いという。イノシシだって、鼻先以外の皮膚に触っても効かないらしい。そのうち凶暴なクマが町に出没するようになったら、電力出力を上げることも考えられるかもしれない。

ここでことの善悪を論じるつもりはないが、明治時代の台湾電力利用の思わぬ一面を知ってしまった。

 

2024/06/04

政治大学にて

台湾にある国立政治大学を訪れた。

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政治と名がつくが、研究テーマを眺めていると、日本でいう社会系の大学と思ってよいだろう。

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いただいた大学の冊子。読めないけど(^^;) 。でも茶園をAI管理するとか、里山再生の話も登場する。

こちらの方も興味深いが、私のお会いしたのは、王准教授。台湾の原住民(日本でいう先住民、高砂族)の研究をされている方であり、同時に土倉龍次郎の研究者でもある。なんと、台湾に龍次郎の研究者がいたのだ。これだけでも感激だろう。そして、数々の情報を得ることができたのである。

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『山林王』をプレゼントした。するとランチをご馳走になった(^_^) 。

 

 

2024/05/10

「母の日」の黒歴史に寄せて

5月7日にYahoo!ニュースで「「母の日」提唱者と花卉業界が繰り広げた確執の黒歴史」を執筆したことを、ブログで告知するのを忘れていた(´_`)。

別に義務ではないが、拡散する気合が入っていない。まあ、明後日が今年の「母の日」だから、遅ればせながら紹介しておく。

ここでは母の日とカーネーションについて書こうと思っていたら、なぜかたどり着いたのが提唱者であるアンナ・ジャービスと花卉業界の確執なのであった。そもそもアンナが母の日制定に向けて動いた際は「白いカーネーション」をシンボルにしていたのに、花卉業界はそれで白いカーネーションの価格を30倍にも引き上げたとか、足りないから赤にしよう(城は亡くなった母)とか、結構いい加減なキャンペーンをしていたらしい。

もともとカーネーションは高貴な花としていたのが、今ではカジュアル・フラワーとして安く大量生産型になっている。別に悪いことではないが、花卉業界の都合に振り回された感はあるだろう。

話は変わるが、日本にも大正時代に入った頃から花卉業界が成立しだすのだが、その立役者の一人が土倉龍次郎だ。カーネーション栽培を大型温室でに取り組み、大量生産の基礎を築いた。

たまたま手に入れた資料に、龍次郎の名前が登場する。

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2年前に、東京、大田区郷土博物館でこんな企画展があったらしい。そのパンフレットだが、その一部にかろうじて龍次郎の名が。

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よく読んでほしい。龍次郎は目黒区の住人だからか、あまり大きく紹介していない(^^;)。それでも、先駆者だったことはわかるだろう。
ちなみに龍次郎探索をいよいよ復活させるが、後半生の園芸家としての龍次郎にはまだまだ謎が多い。

 

2024/03/26

台湾山岳案内!

数十年ぶりかに買ってしまった「山と渓谷」。4月号である。
目的は、別刷?付録である「台湾山岳案内」をゲットするため。

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ちょっと付録だけのためにはお高い雑誌だった(笑)。

Photo_202403260904011320円。

山と渓谷社の雑誌とは、20年ぐらい前に仕事をしていたのだが、あまりにギャラの安さに逃げ出したことがある(笑)。当時は倒産寸前だったかのような記憶が……今は、経営もギャラも改善されたかなあ。

さて、台湾には、昨年のコロナ禍解除以来、幾度も行こうと構想を練るものの、常に先送りになってしまった。今年に入っても2月、3月と考えたが難しく、4月は、、、どうだろうか…。玉山登山をコロナ禍に邪魔されて4年も経つのか。どうも海外への行き方を忘れてしまったようで、いざとなるとおろおろする。昔は、へらへら行けたのに、何か心理的障壁ができたかのよう。まずは2泊3日で台北観光ぐらいして、リハビリをする。

とはいえ、台湾へ行く目的はやはり山である。前回は玉山だったが、今の気分は、阿里山も歩きたい。巨木林を見ておかないと後々後悔するという思いが強い。

そのきっかけは、こちらの写真である。

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土倉家からお借りした龍次郎の台湾写真なのだが、最初は、木の前に一人の人物がいるのかどうか……ぐらいにしか見ていなかった。ところが高精度スキャンをして拡大してみると、ここには5人以上の人物が写っており、服装からもあきらかに探検隊なのである。

ここから推測できることは、土倉龍次郎は阿里山を探検していることだ。従来の記録では、日本人で初めて阿里山と玉山を探検したのは、1896年の長野義虎ということになっているが、長野と龍次郎は親戚筋であり、長野の探検には土倉家が金を出して行ったと伝わる。そして龍次郎も、その探検に同行したと思われる。つまり龍次郎は阿里山の巨木林を最初に発見した一人ではないか、そして玉山初登頂をしたのではないか……と想像しているのである。

とまあ、そんなことを考えながら、「台湾山岳案内」を読む。これは、女性モデルが台湾の山々に登る形をとったほぼガイドブックであるのだが、ちょっと気分をアゲるのによいのであった。

 

2024/03/02

古代メキシコ展と広岡浅子展

大阪の国立国際美術館で開かれている古代メキシコ展に行ってきた。

以前より気になっていた子供時代からの憧れの古代遺跡。私の推し?は、エジプト派より中南米派で、やはりマヤ、アステカ、インカ文明に興味津々だった。今回はそれに加えてティオティワカン文明も。本当はオルメカ文明も入っていたら嬉しかったんだけどね。あの、巨大石面像があったらたまらん。

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なかでも圧巻は,やはり日本初お目見えの「マヤの赤の女王」。このとおり遺骨が真っ赤に水銀朱に染まっている。この時代、そしてこの文明では、金よりも緑(エメラルド)、そして朱(硫化第二水銀)に重きを置いていたと言われる。

実は、日本でも古代では金より朱の時代があった。まさに邪馬台国時代だ。当時の古墳の石棺には、朱が一面に塗られているのだ。当時、大和は朱の産地であり、邪馬台国~大和王権は朱の王国とも呼ばれる世界だった。なかなか類似性を感じるではないか。さらに飛鳥時代は、マヤ文明に共通する石の文化、石の装飾が多数ある。

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この図で気付いたことがある。私は、子供心にマヤ文明が衰退してからアステカ王国が誕生して征服し、それがスペイン人に滅ぼされたように記憶していたのだが、どうやらスペイン人がきた時も、まだマヤ文明(王権のある国の形を取っていたどうかは定かではないが)は存続していたのだね。そしてはっきり滅んだ年数もわからぬまま消えていった文明なのだった。

ほかにも見どころ満載で、古代文明ファンには美味しい展覧会であった。

ここを出て、前を通ったのが、大同生命本社ビル。そこに「大同生命の源流~広岡浅子の生涯」の展示があると記されていた。すぐ飛び込む。

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広岡浅子は、日本の赤くない女王だった! というわけでなく、目当ては日本女子大創設に関わる運動をいかに紹介しているか、である。すると、渋沢栄一だの大隈重信だのは登場するのに、肝心の土倉庄三郎には触れていないのだ(-_-;)。そりゃ、おかしい。どう考えても運動を支えたのは土倉翁だし、金も多く出している。浅子は吉野の土倉邸を訪れて泊まっている。また土倉家と加島家は、子供同士の縁談まであったほどの結びつきだというのに。

なんだか、浅子の事績を強調するために、わざと避けたようにも感じる。

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わずかに土倉庄三郎の名が登場するのは、ここだけであった。これは成瀬仁蔵側の説明である。

アンケートに文句書いてきた(笑)。

2024/01/31

龍治郎を探せ!(同志社時代の集合写真)

土倉家の貴重な写真を手に入れる。

新発見は、これだ。

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京都・知恩院の山門前で撮られた同志社の学生写真。おそらく同志社にもない代物である。

問題は、ここに土倉龍治郎が写っているはずなのに、どこにいるのかわからない点だ。。。

そもそも撮影年代がはっきりしない。龍治郎は、6歳で入学しているが、20歳前後で卒業したはず。つまり幼少時から高等学校当たりまで教育を受けている。当時は大学はまだなく、同志社英学校だった。

もし幼少時なら、前の方に写っている児童かもしれない。そこで、その当時の写真を探してみた。

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これは新島八重と一緒にいるところの写真を切り取った。6~7歳だろう。新島襄夫妻の世話を受けていた。八重さんにサーカスに連れて行ってもらい、象を見たという手記を残す。

人数が多いので、もっと大きくなってから(同志社も大きくなった頃)の可能性もある。そこで兄弟姉妹で撮った写真から拡大してみた。同志社時代という書き込みがあるから、卒業前か。ちょうど柔術と撃剣(今の柔道、剣道になる前)を習いだしたころだ。どちらも名人級になったという。同志社にも道場が建設された。

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痩せて顔の輪郭は全然違うようになっている。

でも、集合写真から確実にこれだ、という人物が見つからないのである。ウォーリーを探せ、ならぬ龍治郎を探せ、状態。

誰か、挑戦してみないか。ちなみに外国人教師も写っているが、誰かわからない。

2024/01/20

千葉のシカは奈良のシカ?

このところ土倉庄三郎に関する新たな文献がいくつも見つかっている。もう私の中では終わらせたつもりだったのに…。

その一つは、『奈良に蒔かれた言葉』(奈良県立大学ユーラシア研究センター学術叢書1)である。
そこにある「大和近代の風景と自然観一考-杉と桜の文化資源学 本多清六「吉野山の桜制復古」(岡本貴久子著)という記事がある。

タイトルどおり主に取り上げているのは本多清六なのだが、彼にまつわる中で土倉庄三郎も紹介している。ただ、ここではそれを紹介しない。
内容的には、私にとって知らないものではなかったからである。

むしろ、それに付属したコラムがユニークだ。こちらに注目したい。

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奈良公園の人気者「ニホンジカ」と東京大学千葉演習林…この記事である。

それによると、千葉県の清澄…とあるのは、現在の鴨川市のようだが、ここにある東京大学演習林には「野獣園」という施設があったらしい。そしてシカを飼育していたが、その元は、なんと奈良のシカだというのだ!

どうやら明治42年に、春日神社(現・大社)から東京帝国大学農科大学に奈良のシカ(ナラシカ)を3頭送ったというのだ。どうも本多清六が関わっていたらしいが、人に馴れているシカということで選ばれたとか。

もう、これは、千葉も春日大社の一部であり、奈良領だな( ̄^ ̄)。

さらに繁殖させると、千葉県の神野寺、神奈川県の江島神社、長野県の小諸公園にも分譲されたという。そうか。神奈川県も長野県も奈良領だったのか。全国のシカはナラシカの血を引いているに違いない。

ついでに言えば、本多は「野獣園林業」を提唱していたらしい。ようはシカのいるレクリエーション施設として利益を上げるのも林業だというのである。これは参考になる。ナラシカ輸出産業を起こしてもいいぞ。

 

 

2023/10/26

目黒駅前今昔物語

と東京に来ている。

今回は駆け足で幾つかの取材や用件を済ませる予定なのだが、次の目的地まで行くまでに、隙間時間ができた。約3時間だが、移動時間を引けば2時間というところ。

どうするか若干考えたが、目黒駅前を歩くことに。

ここに、かつて土倉龍次郎の屋敷兼農園があったからだ。それは広大な面積だったが、当時は目黒駅もなく田舎である。敷地内に川が流れていたほどだ。

もちろん、今は跡形もない。それでも感覚的なものをつかみたくて歩いたのである。

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このように高層ビルと、タワーマンションが立ち並ぶ。でも裏通りは路地が多く行き止まりになる魚の骨状だ。これも痕跡?

次に訪れたのが高速道路を挟んで庭園美術館。この庭にしばしたたずむ。

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ここは、かつて皇族の朝香の宮の邸宅だ。

龍次郎の家に朝香の宮が馬に乗って訪れたというエピソードがあるので、ちょっと感慨に浸ってみる(^-^)。

取材の合間の息抜き? いや、これだって取材なのだよ。



2023/08/31

市井のカエデ研究家逝く

朝ドラ「らんまん」の影響か、このところ草花研究に日が当たっている。研究者だけでなく、市井の愛好家の姿も描かれる。牧野富太郎は、全国の愛好家から植物標本を送ってもらって研究した。言い換えると、牧野の研究を支えたのは市井の人々だったわけだ。

そんなときに私の元にカエデの愛好家の訃報が届いた。

今年6月、こんな記事を書いた。毎日新聞の地元版である。

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奈良には、カエデ専門の植物園がある。個人のコレクションが寄贈されたものなのだが、約3000本、約1200種のカエデが植えられている。それを集めたのが、矢野正善さん。カエデの研究というか育種を含めた栽培では日本でもっとも有名な一人だろう。
実は、カエデ以外にもある業界では有名人、というか大家。料理写真家だったのだ。日本の料理写真の創始者かもしれない。いっときは出版される料理本のほとんどの料理を撮影していたという。師匠は、入江泰吉……奈良の風景写真の大家だ。
取材で知り合ったのだが、80歳を超えているとは思えないほどひょうひょうとした人柄で、妙に話が盛り上がったのを覚えている。

取材したのが今年6月。元気だったのだが、先週22日に亡くなったという連絡が入った。突然自宅で倒れたそうだ。連絡を下さった方は、日常の食事などの世話をしていた人だが、当日の朝まで話をしていたそうで「決して孤独死ではありません」と言っていた。

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 矢野さんから買い取ったカエデの鉢植え。今夏の猛暑に一時期弱っていたが、持ち直した。

と、ここで無理やり土倉龍次郎に話をつなげるが、彼も前半生は、台湾の探検家にして事業家。林業に樟脳に発電に……と大活躍したのだが、後半生はカーネーション栽培にかけた。日本にカーネーションの栽培技術を根付かせた実業家だったが、後に育種に集中した。

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カーネーション栽培をしていた温室の龍次郎。

場所は、東京府上大崎。現在の目黒駅前だ。巨大温室を建ち並び、川が流れ、馬が走れる広大な土地を持っていたそうだから、今なら超一等地である。

妙な共通点を感じてしんみりした本日であった。そのうちお参りに行く予定。

2023/08/30

朝ドラの描く台湾領有直後

本日の朝ドラ「らんまん」。いよいよ万太郎が台湾へ調査に出かけた。

これは史実の牧野富太郎が行った台湾調査をなぞっているのだが、私的には大いに注目している。というのは、日本が領有直後の台湾でどんな行動をしたのかに非常に興味を持っているから。ドラマとはいえ、NHKがその場面を描くにはそれなりに調べて映像化しているはず。どんな様子が伝わってくるのではないか、と注目しているのだ。

それは土倉龍次郎の足跡でもあるからだ。ドラマの調査団は、1896年7月出発と言っていたが、実際のメンバーは誰がいたか知りたい。おそらく人類学者の伊能嘉矩が入っていたはずだ。彼は1895年11月に渡台しているが、翌年7月に調査団に入っている。龍次郎は1895年の12月に上陸して、台湾を縦断(台北~台南)したうえに、96年9月に龍次郎と長野義虎で玉山(新高山)に登ったと目される。二人の足どりは重なっているのだ。

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国立博物館の里中氏(おそらく田中芳男がモデル)が調査の内容を説明。しっかり林業が入っている。

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当時は船で基隆に上陸した。当時の基隆港の様子が知りたかったのだが、さすがに港の映像はなかった。もしかして田舎の浜辺に艀を使って上陸したんじゃないかなあ。

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港で迎えの人が、地人にも現地人にも日本語を使えというのは、本当にあったのだろう。占領直後で日本語をしゃべれる中国人も少なかったろうに。なお戦前より台湾に潜入していた日本人もいて、龍次郎の通訳兼ガイドには彼らが勤めている。二人いて、尾形という名が伝わるが、彼らの正体もよくわからない……。

領有直後の日本人の態度はひどかったようだ。当時の資料をあさると、メチャクチャ。日本軍を歓迎していた人たちまで弾圧している。なんだか、ウクライナを侵略したロシア兵と似ている。占領したから何をしてもいいんだと思っていたんじゃないか。それに官吏の腐敗もひどい。それをルポした新聞記事は、政府批判もきつくする。また台湾総督を務めた乃木希典も、腐敗のひどさに触れている。

ただ山地原住民(いわゆる高砂族)には、当初は比較的融和的だった。放置と言ってもよいかもしれないが。後に高砂族の文明化を掲げて抑圧政策に変わるのだけど。もっとも日本人もよく首を狩られたようだwww。

日本の植民地経営を軌道に乗せて、ちゃんと法治を徹底して、人心掌握するまでには、時間が掛かっている。

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そして、何より気になるのが、この言葉。牧野は台湾を縦断したのか。龍次郎の縦断探検と同じなのか。どこか行動記録か日記でも残っていないだろうか。
その後も土倉龍次郎は台湾に滞在し続けるから、伊能や牧野と出会っていた可能性は十分にある。

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こんな文献も手に入れたよ。

 

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