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森と林業と田舎の本

2023/06/03

フェノロサ講演会に思う

今日は、急遽、浄教寺の本堂で開かれた「フェノロサ講演会」に足を運んだ。

講師は、西山厚・奈良国立博物館名誉館員。「奈良の仏像 フェノロサを読む」

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アーネスト・F・フェノロサは、明治期の日本の「お雇い外国人」である。専門は哲学だったとのことだが、実質は美術、文化財となった。そして日本の文化財保護に大きな足跡を残した人物である。

奈良市の浄教寺は、そのフェノロサが「奈良ノ諸君ニ告グ」という講演した場所。1887年6月5日、今から136年前のことだ。寺の境内を借りて行われた講演会には、岡倉天心が通訳となり、数百人を集めたという。その中には奈良県知事もいたようだ。非常に注目を集めた講演であった。

そこでフェノロサがぶったのは、日本の絵画や彫刻、とくに仏像の素晴らしさであり、これは奈良の人の宝ではない、日本の宝だ、いや世界の宝である、古代ギリシャ彫刻に引けはとらぬ、ギリシャの最盛期は1、2世紀しか続かなかったが、日本は千数百年も続く、今も続いている、これを守らずしていかにせん! と檄を飛ばしたのである。

実際、フェノロサは、仏教徒になったうえ、アメリカに帰国後はボストン美術館に日本館を設けてキュレーターとなった人物だ。生涯を日本の美術に関わったのである。

さて、なぜ私がこの講演会に行ったのか。それは『山林王』を執筆中に浄教寺について書いたからである。それは土倉庄三郎が古社寺の文化財の保護に取り組んだ(『山林王』136ページ参照)章に関連してであった。

なぜ、庄三郎は、古社寺の保護を言い出したのであろうか。そのヒントとして浄教寺の講演会があったのではないか。もしかして、庄三郎も参加していたのではないか。これに刺激を受けて自らも文化財保護に乗り出したのではないか……というのが、私の仮説。

もちろん証拠はない。どこにも参加したとは書いていないし、講演会の参加名簿でもあればなあ、と思っている。

が、それから9年後、庄三郎は「古社寺保存ノ請願」を貴族院議長宛に提出した。その内容には、西洋の文化財保護の内容などにも触れており、とても個人では知ることのできない情報が含まれているのである。そして欧米諸国が日本の美術を称賛していること、これは大和のみならず日本帝国そのものの価値と記す。これって、フェノロサの言い分に似てはいないかい?

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……とまあ、そんな気持ちで講演会を後にした。ちなみに、浄教寺には父の葬儀でお世話になった関係である。これも縁だ。

 

2023/06/01

土倉庄三郎の研究?「大和の国のリーダーたち」

『大和の国のリーダーたち』(京阪奈情報教育出版)という本が出たと知らされた。

奈良県立大学ユーラシア研究センター編、とあるが、ようするに奈良県立大学で行われた講義を元にした本のよう。近代奈良に現れた産業界のリーダー格の人たち8人を取り上げているのだが、その中に土倉庄三郎も加わっている。

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その章は、「土倉庄三郎-不動の人」として編集責任者の中島啓介氏の執筆。

さすが学者らしく、私も知らなかった庄三郎の登場する文献を引っ張りだしてきて紹介している。そして吉野林業やインフラ整備、教育支援、自由民権運動などを取り上げて解説。ただ、林業のとらえ方も私とは違うところもある。それに庄三郎の行動をすべて家業である林業、そして吉野林業とつなげて分析しているのは違和感がある。道路や水路整備はともかく、自由民権運動を吉野林業の発展のために取り組んだ、とされてしまうとなあ。

私自身、以前は庄三郎の行動は、結果として土倉家が儲かるようにつながったのではないか、と感じていたこともあるのだが、『山林王』の執筆を通して、かなり見方を変えた。今で身、むしろ反対ではないかとさえ思う。そう言えば、本書の文献には私の前著『樹喜王 土倉庄三郎』が入っている。(『山林王』とは出版時期がかぶっているから、当然ながら参考にはできないはずだ。)

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まあ、それはよいのだ。ちょっと驚いたのは、これを「土倉庄三郎研究」の助走とするという文言があること。つまり、学問として研究対象とするらしい。これまで、私以外誰も土倉庄三郎の思想や行動履歴に手を付けていなかっただけに、ついに現れたか!という思いなのだ。

これまで部分的、たとえば板垣退助との関わりとか、『吉野林業全書』の成立とか、部分的に土倉庄三郎を研究する人はいたが、人物論として全人格的に論じる研究はなかった。だから喜ばしい。

私としては、もう先鞭をつけたので、後は研究者sがそれぞれの切り口で土倉庄三郎を研究してくれたらよい。私は、もう一線から外れるつもりだ。もともと私は、吉野林業を解読して描く道標として土倉庄三郎に目をつけたのだが、やがてミイラ取りがミイラになったように庄三郎という人物に魅せられてしまったのである。それにブルーオーシャンというか、誰も手を付けていない、未知の人物だから興味を持った面もある。今後大きな新事実などが出てきたらフォローはするだろうが、老兵は去る、つもり(^^;)。

私の興味は次に向かっている。人物としての面白さ、ドラマチックな生涯は、庄三郎以上と思っている。土倉龍次郎である。

 

 

 

2023/05/29

花粉症対策の伐採と土倉の植林

土倉庄三郎は生涯に1800万本の苗を植えたという。年平均30万本だ。これを面積に換算できないかと思って計算してみた。

吉野で植えるとしたら、ヘクタールあたり1万本植える密植である。実際は全国で植えているが、それに準じたと考えると植えた面積は1800ヘクタールになる。ただ記録に残るだけでも吉野以外に数千ヘクタール植えているから、少なすぎる。吉野外は疎植だったのかもしれない。
またこれは自身で植えた山(借地含む)だけだから、各地の篤志家に山林経営を進めて山を買わせ、そこに植林を進めた分もある。たとえば三井家や山県有朋なども庄三郎の勧めで山を所有した。それらを含めたらもっと行くはずだ。

これだけ木を植えた人物は、世界に果たして何人いるだろうか。宮脇昭氏は世界中で3000万本とか言っているが(^^;)。

そんなときに、政府の花粉症対策案とやらが出てきた。

花粉発生量、30年後に半減  農水省対策案、10年で人工林2割伐採

花粉症の発生源であるスギの人工林を10年間で2割ほど伐採し、30年後に花粉発生量を半減させることを目指す。花粉の少ないスギの苗木やスギ以外の木への植え替えも進める。

これは何ヘクタールになるのか。年次ごとに若干の違いはあるが、日本のスギ人工林面積は444万ヘクタールとされる。その2割なら約89万ヘクタールだ。伐採するのは樹齢50年以上のスギを中心とするというが、10齢級以上のスギ林は、スギ林全体の過半に達するから250万ヘクタール前後と見込む。そこから89万ヘクタールを伐採するとなると、3分の1強を伐ることになるのではないか。なにやら恐ろしいことになりそうだ。民有林では伐採拒否があるかもしれないから、結局伐るのは国有林と公有林中心になるかな。

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ところでスギスギばかり言っているが、ヒノキ花粉症はどうするのだ。まさか首相はヒノキ花粉症を知らない? 知ればスギの次はヒノキを伐ると言い出すかもしれない。

だいたい花粉削減を目的に伐るということは、木材の用途は関係ないことになり、市場でだぶついて木材価格を引き下げるのは必定だ。すでにウッドショックの後始末的に価格は下がり続けているから、今後どこまで落ちるか。

89万ヘクタールの伐採跡地には植林が必要だ。今ではヘクタール2000本植えが増えてきたから、約18億本の苗木がいる。10年間だから1年なら約1800万本。くしくも、土倉庄三郎が生涯に植えた木の本数(60年換算)と一緒になった。それを1年で植えなくてはならない。でも妙に数が合致するのが不思議。
もちろん、無花粉スギの苗木を毎年1800万本用意してくださいね。そして、植えた後の獣害ネット張りや、下刈り、徐間伐……とお仕事が続くことも忘れないでくださいね。造林ビジネスは花盛りになるだろう、実行されたら、だが。

しかもこの造林育林は、まったく収益は上がらない。100%税金投入が不可欠だ。伐採にだって補助金抜きではできるまい。さもないと誰もやらない。莫大な税金が森林を破壊するために使われる。

どうせ岸田政権がそんなに長く続くとは思えないので、首相が交代した時点で計画はうやむやになるのではないかなあ。そうであってほしいよ。

2023/04/21

霊園をつなぐ人物

先日の東京で訪れた先で見たもの。

彫像がある。

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ここは野外美術館?と思わせるが、そもそも誰だかわかるだろうか。

新渡戸稲造と原六郎である。知っているかなあ。どちらも大物であるが……。背景をよく見ると気付くだろうが、ここは霊園だ。多磨霊園(多摩ではなく多磨なのだった)。墓地なのに彫像が目立つ。ほかにも

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これって完全に芸術的な彫刻だろう。なんたって、これは岡本太郎の墓にあった。

多磨霊園を芸術鑑賞とかピクニック気分で訪れる人もいると聞くが、なるほど、これならわかる。


紹介した彫像とこの墓はいずれも某人物につながる。(岡本太郎はちがうけど)

さて、誰でしょう。科学者、財界人、政治家。これらとつながる人物を5文字で答えなさい。

ヒント。新渡戸はアメリカで結婚したが、日本人の出席者は、一人だけ。そして台湾で活躍した。原六郎の嫁さんは20歳以上年下の犯罪者で、内田は最低と言われつつ外交で活躍できたのは西太后の友達の嫁さんのおかげ。

 解答は「山林王」に記されている。

2023/03/25

川上村の“遺跡”から拾われた言葉

病明け?ながら、吉野の川上村に行ってきた。

そこでちょっと寄り道。

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石垣ばかりが並ぶ山腹斜面…。見様によっては、インカの遺跡ぽくもある。もちろん棚田などでもない。かつては、この石垣の上に家屋が建っていた。行き交う人がいた。集落があったのだ。古くではない。せいぜい20年前まで。しかも、位置的にはそんなに不便な場所ではない。それが建物はすべて撤去されて人も移っていった。だから、いわばダムが生み出した「遺跡」のようなものだ。これだけの土地だからもったいないなあ、と思う。

これだけの集落全面移転が行われたのは、大滝ダムの建設が絡んでいる。ただし、この地域がダムに沈んだのではない。建設したことで、地盤が崩れたのだ。いわば緊急避難的に、住民は脱出したのだ。

この点については『山林王』にも、最後の方に記した。林業の村からダムの村に移る過程では悲しいことがあったのだよ。。。。

ただし、一点だけ。重大な発見がある。

このダム建設のために、緊急民俗調査が行われた。地域の歴史や生活調査が行われて記録された。その中に、岩井倉次郎という人物から聞き取られた内容が収録されている。当時、94歳だったというが、青年時代の記憶が紹介されている。それは樽丸づくりをしているところに訪ねてきた老人がいた。

それが土倉庄三郎だったとされるのだ!

晩年の庄三郎が語った言葉を自ら聞いた人がいたのだ。それをダム建設のための調査で聞き取られたのだ。庄三郎が自らの若い時と、現在(没落後)の心境を語った言葉が残されたのである。

その貴重な内容は『山林王』に収録してある。ぜひ、探してほしい。

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2023/03/06

毎日新聞の源流・立憲政党新聞

現在、毎日新聞と言えば、3大全国紙の一角であり、日本でもっとも古く歴史のある新聞である。その源流は、大阪毎日新聞東京日日新聞として知られる。

とくに東京日日新聞は、1872年3月29日(2月21日)に発行されており、それが現在も発行を続ける日本の新聞としてもっとも古いとされる(日刊紙としては、前年の71年に横浜毎日新聞が発行された模様だが、消えている。)だが、発行号数の原点は1882年2月1日である。なぜなら大阪毎日新聞が東京日日新聞を吸収合併しているので、大阪毎日新聞が毎日新聞の原点としているからだ。そして大阪毎日新聞の源流は日本立憲政党新聞であり、その創刊号の日付が82年2月1日なのだ。

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日本立憲政党とは自由党の別動隊・近畿自由党のこと。当時は通信交通事情もよくなかったので、別組織にしたらしい。後に改名したが、その機関紙として日本立憲政党新聞は生まれた。日本最初の政党機関紙とされるが、発行母体は大阪日報だった。それを買収して新たな新聞を発行したのである。ちなみに日本立憲政党新聞は、発行後すぐに政府より発行禁止処分を受けて、新聞名を変えたり、ほかの新聞と合併したりを繰り返しながら、大阪毎日新聞-毎日新聞となる。

ややこしいが、その日本立憲政党新聞の発行に深く係わった……というより、発行資金の多くを拠出したのが土倉庄三郎だ。本人は5万円まで出すと言い、当時の報道では6万円出したともある。なお庄三郎名以外の出資者の資金も、実は庄三郎が払っていたという話もあって、いったいいくら出したのやら。ちなみに明治初年時の5万円なら、現在の10億円を超えるだろう。

後に大阪毎日と東京日日は紙名も統一して毎日新聞となった。

つまり、土倉庄三郎が毎日新聞の源流と言うこともできる。

面白いのは、奈良県でもっとも講読部数が多いのが毎日新聞であること。奈良新聞など地方紙でもほかの全国紙でもないのだ。吉野の山林王・土倉庄三郎が発行した新聞だから、というわけではない(だいたい県民のほとんどが、そんな事実を知らない)だろうに、なぜかそうなっている。

そんなエピソードも3月23日発行予定の『山林王』(新泉社)には記してある。

 

2023/02/27

ファミリーヒストリーと改名

たまたま目にしたNHKの「ファミリーヒストリー」。矢嶋智人の回である。奈良の古い町並みが映る。

実は我が家も、ちょっとしたファミリーヒストリーに触れた。父が亡くなり、その相続のために戸籍謄本(除籍簿)を手に入れたのだが、ちょっと複雑な面があった。生まれた時は祖父(私の曾祖父)の籍にあり、その後父(私の祖父)の籍に入るも、早死にしたので兄の籍に移る……という段取りがあったのだ。これは昔は家長制度のため、生まれたときの家長は祖父だったからだろう。父が亡くなれば兄が家長になり、その一族になるわけだ。

それはいい。ただ目に止まったのは、私の曾祖父は安政六年生まれになっていたこと。そうか、江戸時代の生まれなのか。

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そして、前戸籍名があったこと。そう、曾祖父は養子として田中家に入っているのだ。その点はうっすら聞いていたのだが、養子に来る前には別名だったとは。これは興味深い。養子だから名字が変わるわけだが、同時に名前も変えたのだ。

そして思い出したのである。

『山林王』のタイトルで出版を予定する土倉庄三郎伝には、多彩な土倉一族が登場するわけだが、資料をたどっていくと不思議な名前がいくつかあった。同人物を指すと思われるのに、名前が違う。別人なのか。

かなり悩まされて、なかには戸籍抄本をとってもらって確認した人もいるのだが、やがてわかってきたことは、結婚や養子などに行くと名前が変わっていたのである。

小菊は容志に、修子はナラエに。亀三郎はいったん三郎になったから2代目新治郎に。また喜三郎は篤ノスケに。そもそも庄三郎だって、実は二人いるのだ。父の庄右衛門は晩年か死後、庄三郎に改名している。墓石名は庄三郎だ。

さらに容志なのか容志子なのか。政なのか政子なのか。いや満佐子なのか。漢字の表記もかなり変わる。龍次郎の戸籍名は龍治郎だし、辰次郎なる表記もある。それが他人の勝手な当て字かと思えば、当の本人の署名までバラバラ (゚o゚;) 。

ついでに言えば明治の元勲の板垣退助は乾退助だったし、原六郎は進藤俊三郎だった。維新時に勝手に改名している。折原静六は本多家に養子に入って本多静六になった。

思えば戦前は、名前はわりと軽く改名したり、漢字は何を使うかいい加減だったようだ。今なら、改名するのはトンデモな手間がかかるのだが。名前は我がアイデンティティである! と気張るほどのものではなかったのではないか。

この改名のおかげで記録を辿る苦労もあるのだが、明治社会の風土というか世間の雰囲気が感じられて興味深かった。

 

 

2023/02/05

朝拝式のここだけの裏話

川上村の朝拝式に参拝してきた。

私は10年ぶりだが、今年はコロナ禍明けもあって、比較的賑やかで開放的。本来の秘密の儀式ぽさはなく、ツアーも組まれて、開場では村のコーラスグループの合唱もあったのである。

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こうした写真も、以前はこっそり撮っていたのが、一般公開になったから菊の御紋入り天幕をわざわざ開けてくれる(^-^)/。兜と鎧がよく見えた。しかも式の終了後は、一般人も参拝できる。私も玉串を奉納したよ。

なお写真をよく見てほしいが、みんな口にサカキをくわえている。昨日の書いたとおりだ。また参加者は一般で100人以上はいただろうか。

もっとも参列者と話をしていると、なかなかの話が飛び出す。たとえば「子どもの頃は、あの(南朝皇胤・自天王の)兜をかぶって遊んだ」なんて証言も飛び出た(笑)。小学生のときらしいが、あまりに小さくて頭にすっぽりとはかぶれなかったそうである。自天王は、相当小柄だったか。
さらに「植林していたら塚を見つけたので壊したら、中から菊のご紋入りの短刀が出てきて、それで子供たちはチャンバラ遊びをした」とも。。。本当に後南朝の太刀が見つかったのなら、国宝級なんだが。

意外や、昔の方がゆるゆるだったらしい。今の方が皇室に敏感かも。

ともあれ、私は土倉庄三郎翁の本を出版することを報告して頭を下げたのである。タイトルは「山林王」と。

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屋敷跡にあるサルスベリの大木。おそらく庄三郎存命時から植えられていたものと思われる。庭に植えていたのだろう。往時を忍ぶによすがである。

2023/01/22

奈良のイチゴ栽培はいつから?

朝日新聞の奈良県版に、こんな記事。

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近頃、奈良の農業ではイチゴが有名になってきた。生産量はさほど多くないのだが、次々と人気の高い品種を生み出してきたからだろう。あすかルビーに古都華(ことか)、珠姫(たまひめ)……いずれも甘さや旨味、そして巨大さなど自慢すべきイチゴ品種である。そのことについて紹介しているのだが、問題はいつから奈良県でイチゴ栽培が始まったのか、という点だ。

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この記述に、ん?と思ったのである。大正時代に栽培が始まったとあるが、その後の「でも、その前の明治時代から有名で」これはどこにかかるのだ? スイカのことではあるまい。つまり明治時代からイチゴ栽培をおこなっていたと言いたいのか。唐突にスイカと比べるのもどうか。作付けというのもイチゴのことか……古都華。読取りにくい悪文。

なぜ、この点にこだわるのかというと、土倉庄三郎である。今も出版に向けてラストスパートしているのだが、その中にイチゴに関する記述がある。

「吉野の山中とは思えぬほどのご馳走が出る。西洋イチゴやイチジクなど、まだ町でもなかなか知られていない果物が出て、和洋折衷の料理に灘の美酒が並ぶ。」これは、1903年発行の「吉野乃実業」という雑誌の記事から引用した。1903年は明治36年。おそらく土倉家では、その何年も前からイチゴを食べていたのだろう。しかも牛乳をかけて「イチゴミルク」にしていたらしい

ところが、現在栽培しているイチゴは、一般にオランダイチゴと呼ばれる品種で、日本に自生するノイチゴ系とは別種だ。オランダイチゴは18世紀にオランダで開発されたという。日本には江戸時代にもたらされたが、花の鑑賞用で食用としてはほとんど普及していない。(

現在に続く品種の食用イチゴ栽培は、1898年にフランスによってもたらされてから。新宿御苑の温室で福羽逸人農学博士は、フランスの「ゼネラル・シャンジー」という品種から国産イチゴ第一号となる「福羽苺」を作出したことから始まる。この新宿御苑の温室については、土倉龍次郎も後に関わってくるのだが、その点はおいといて、皇室御用達だった。(1872年、明治5年から栽培し始めたとウィキにはあるが、ちょっと早すぎる。途中で途絶したか。)

となると、土倉家で食べていたイチゴとは何か。はっきり「西洋イチゴ」と書かれているのだから、このフランス経由の「福羽苺」だろう。それはどこで栽培していたのか。生鮮品だから、たとえば奈良の農業地帯である盆地の辺りとすると、どうやって搬送したのかが問題となる。当時は自動車さえそんなに普及していないのだ。山を越えて川上村まで1日で届くとは思えないし、コールドチェーン(冷凍輸送)もない。

川上村、それも大滝で栽培していたのではないか。牛乳だって、わざわざ大滝で乳牛を飼育して絞っていたほどの土倉家だ。十分有り得る。つまり、日本に持ち込まれて数年以内に苗を取り寄せて栽培をしていたと思われるのだ。それは日本でも相当初期だろう。

日本のイチゴ史を書くとしたら、奈良県と土倉家は欠かせないよ。土倉家について調べると、イチゴに牛乳のほかにも、いろいろ新しいものに手を出していて驚くことが多い。小学生男子の洋服と女子の袴も、日本のファッション史で特異だ。

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古都華のかき氷があると聞いて食べに行ったが、デカすぎた……。

 

2023/01/10

今年の朝拝式

朝拝式。天皇が新年の拝賀を祝う式典とされるが、奈良県の吉野では少し意味が変わる。

後南朝の偲び、遺蹟に礼拝する儀式である。

有名なのは川上村で2月5日に行われる。金剛寺に納められた自天王(尊秀王)を祀る。これまでは秘祭として村民もなかなか参拝されずに550年続いてきたが、今から16年前に一般にも解禁になる。(私は、その前から覗きに行っていたが。)

そこで今年はツアーが組まれるようだ。ホテル杉の湯による企画だ。

川上村御朝拝式見学付宿泊プランー後南朝の歴史を体感ー 

悲運の最期を遂げた後南朝の自天王を偲び、毎年2月5日に自天王の遺品(兜、鎧袖、胴丸鎧、太刀、長刀)を御魂代として礼拝する御朝拝式。1454年から一度も途絶えることなく受け継がれています。
前日に、後南朝や御朝拝についてのミニ講座と川上村朝拝式保存会の方のお話を伺い、当日は第566回となる御朝拝式を見学していただく宿泊プランです。
哀しくもロマンあふれる歴史に触れてみませんか?

最小催行人数:5名
定員    :10名

 

私も、今年は土倉庄三郎伝の出版を控えていることから、参拝させていただこうと思っている。朝拝式に連なる後南朝は、庄三郎が最後の最後まで心を砕き、病を押して上京した問題でもあった。アポもなく首相官邸を訪れると、当時の大隈重信総理を呼び出したエピソードがある。すると大隈は飛んできて、庄三郎の椅子を引いて座らせ、自らは直立していたそうだ。

このツアーには参加は?だけど(^^;)。ひっそりと行きますよ。

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ちなみに南朝の朝拝式は、ここだけでなく天川村でも行われている。南朝遺臣がつくる位衆伝御組が行うものは、後醍醐天皇の即位を祝うもので、700回を超えているとか。

 

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