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森と林業と田舎の本

2019/07/07

カルピスの日に思う台湾総統選

7月7日は、カルピスの日だそうである。とくに今年は、カルピス発売100周年。1919年7月7日に発売が始まったのである。

そして、カルピス誕生には土倉龍治郎が大きく関わっている。

その点については、2年前のYahoo!ニュースに『カルピスの日に思い出す、二人の「カルピスの父」という記事を書いたので、ここでは触れない。ただ、台湾のコンビニでもカルピス飲料が販売されていたなあ、と思い出された。買わなかったけど(笑)。

土倉龍治郎は、台湾に大きな足跡を残している。というと、また誤解があるかもしれない。今の台湾では日本以上に忘れられているからだ。ただ確実に(見えない)足跡はある。私も、その足跡の痕跡を探して歩いた。その成果については、そのうち改めて紹介したい。

龍治郎は、台湾で林業に樟脳生産に電力開発に……と大きな事業をいくつも展開していたが、結果的にそれらを売り払って帰国せざるを得なくなった。その事情については、まだ不明確な点が多々あって、単に本家の経済的危機を救うためだけなのか疑問もあるのだが、とにかく日本の(土倉家の)莫大な資金が領有間もない台湾に投入されたことは間違いない。

そして龍治郎が、それらをすべて放棄して帰国したことが、実は三島海雲のカルピス開発・販売に手を貸すことにつながっている。妙な縁である。

 

台湾で留まっていたホテルの近くに、こんな車が停まっていた。

Dsc02660

選挙カーである。日本だけでなく、台湾も選挙戦の真っ盛りだった。総統選が始まっているのだ(投票は来年だけど)。テレビを見ていると、各候補者の討論会ばかり開かれていた。この車の写真の人物は、鴻海(ホンハイ)精密工業の郭台銘元会長だ。日本的には、シャープを買収したというか、経営危機を救った人物。彼も国民党の予備選に出ている。

せっかくだから私も見てみようと思ってしばらく待ってみたが、登場するのはまだ先のようで諦めた。別に郭氏に特別な関心があるわけではないのだが、実は私のかつての住まいの大家さんがシャープ最後の社長だったのだよ(^o^)。言い換えれば、シャープを経営危機に陥れて、鴻海に資金援助を頼む元をつくった人(⌒ー⌒)。そうした妙な縁があるから肉眼で見てみたいと思ったのだ。

そういや、富士通の半導体部門も台湾の聯華電子に売却された。日本の税金を注ぎ込んで建て直そうとしたジャパンディスプレイも台湾・中国資本に投げ売りされている。

時代は移り変わって、台湾資本が日本を買い支える……買い漁る時代になったのは、皮肉である。

2019/06/15

土倉山の売買証書

昨日、古文書の写しをいただいた。ちょっと興奮。

内容は、山林の売買書である。

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お分かりだろうか。山林を売ったのは、土倉庄三郎だ。日付が明治四拾参年六月弐拾八日になっている。

この年代ということは、土倉家が事実上の破産をして財産処分を始めた頃。ただ山林跡地とあるから、立木を伐採してからの売却だろうか。その後の立木一代かぎりの売り渡しのように読める。買い主は伏せておくが、今も所有している。

詳しく内容をチェックする余裕はないのだが、具体的な山林売買証書を目にすると、なかなか生々しい。署名は直筆かどうかもわからないが、私がこれまで見てきた庄三郎の筆跡と似ている気がする。

最近、結構貴重な土倉庄三郎関連の資料が次々と手に入ってきた。何かの因縁だろうか。これは何とかしないといけません。

来年は土倉庄三郎生誕180周年だ。(1840年生まれ)
それを記念する何かイベントを考えたいと思っているのだが、こうした文書も活かせたらと思っている。

 

2019/03/09

Yahoo!ニュース個人筆者の書籍コーナー

今、書店で「Yahoo!ニュース 個人」書籍フェアが行われている。
 
これはYahoo!ニュース個人に執筆している筆者(オーサー)が出版した本を一同に介するという試み。
 
開いている書店は、東京と大阪だ。
 
▽東京
・丸善丸の内本店 → 2F新刊・話題書付近
・ジュンク堂池袋本店 →5Fビジネス新刊付近
・M&J渋谷店 → レジ前の新刊・話題書付近
▽大阪
・ジュンク堂大阪本店 → 2Fレジ横付近
・M&J梅田店 → エレベーター横、新刊・話題書付近
・ジュンク堂三宮店 → 5Fエスカレーター横付近
※ジュンク堂池袋店、三宮店では一部の書籍
 
 
さっそく覗いてきました。私が訪れたのは、大阪の丸善&ジュンク堂書店である。 
意外とわかりにくい。1階の入口付近なんだけど、導線から少し外れているからか。
 
1
 
さて、このどこに拙著があるか。。。。
意外と?わかりにくい(笑)。映えていないなあ。
 
2
 
アップです。背表紙だけだし、タイトルも地味。もっとも近著なんだが、こーゆーイベント時に合わせて、背表紙の装丁をもっと派手にすることを考えてもよいなあ。
3月1日に始まり3月31日まで各店舗で実施中。ご確認ください。 
 
せっかくだから、ヤフージャパンの大阪事務所からの夜景を紹介しよう。
グランフロント大阪 タワーA 37階である。
 
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日没直前のマジックアワーである。淀川も見えるんだなあ。
 

2018/08/21

訃報・土倉庄三郎in 山林

頭が煮詰まったときは、やたらめったら文献をひっくり返す。最近はネットサーフィンを繰り返す。そこで何を読むか知るかはあんまり関係なくて、とにかくザッピングによる情報で思考の整理と精神の安定を図るのである。

 
とはいえ、その途中で興味深い情報に触れることもある。
今回ネットで見つけたのが、この記事。
 
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「山林」の1917年8月の記事である。
 
土倉庄三郎逝去のニュースが、大日本山林会の「山林」に掲載されていたのだった。もっとも元の記事は大阪朝日新聞かもしれない。
 
たしかに庄三郎は大日本山林会に深く関わっていたから、その訃報が掲載されるのは何の不思議もない。というか載らない方がおかしい。
ただ、「山林」のバックナンバーをネットで見ることができるようになったのは最近のことなので(私が土倉庄三郎について調べている頃はなかった)、今頃発見したということである。それに死亡時の状況はほかにもいくつか詳しい情報源があったので、さほど熱心に探さなかった。
 
 
さて、今回の記事で内容的にさほど新事実があったわけではないが、死因を急性肝臓炎としている。私が手にした記録では髄性肝臓ガンとあるから、多少ズレている。
 
また村の子供たちを教育する私塾・芳水館の建設に2万円を費やしたという点は、初めて目にする記述だ。2万円というのは、建設した明治時代なら現在の3~4億円相当であり、ちょっと高すぎるように思えるが……。おそらく大正年間の換算だろう。それなら数千万円か。
 
そのほか国からもらった藍綬褒章や勲六等については知らなかったわけではないが、ほとんどスルーしていた情報である。もう少し確認しておくべきだったか。
成瀬仁蔵の日本女子大学校をつくった点も記されている。現在、設立協力者としては、広岡浅子の名前ばかりが有名になっているが、当時は広岡より土倉の方が世に知られていたのではないかと推察する。
 
こうした記事・文献は、掲載された時代にどのような目が向けられていたかを想像するのに役に立つよ。
 

2018/05/28

目黒の龍次郎

目黒で私が訪れたのは林試の森公園だけではない。

 
なぜ、私が目白界隈を歩いたのか。その理由は、土倉龍次郎にある。
 
土倉庄三郎の次男・龍次郎は、台湾で事業を興していた。そして樟脳生産、林業、水力発電などの先駆者として大きく羽ばたいていた。とくに1万ヘクタールの山林を租借して行った林業は、いわば台湾の山林王と言うべきものである。
だが、本家の経済危機で全財産を処分して日本に帰る。それから拠点を置いたのが目黒だったのだ。
 
だから、今回目黒に宿泊すると決まってから、ちょっとその足跡を歩いてみたわけ。
 
具体的には、まず最初の家は、目黒駅の近くだったそうだ。そこで温室をつくってバラやカーネーション、メロンなどの栽培を始める。やがてカーネーションに絞ってカーネーションの生産と育種に取り組んだ。
だが、目黒駅に操車場をつくる計画に敷地が当てはまって立ち退くことになる。
 
1
 
現在の目黒駅。まったく面影はない(^o^)。
 
そこで次に拠点を構えたのが、林業試験場の隣だったそうだ。3300坪の敷地に11棟のアメリカ式温室を建てて、カーネーション栽培を展開した。当時のその界隈は、田畑と農家の屋敷林が点在する土地だったそうだ。
 
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これはイメージ。アメリカ式温室なら300坪はある巨大なもの。こんな規模だろうか。
 
園内には小川も流れていたとか。もっとも、私が歩くと、林試の森の周辺はマンションなどが立ち並んだ住宅街になっていた。わずかに目黒不動尊だけに緑がある。だが、肝心の林業試験場はどうだったのか。
 
ときに明治40年。林業試験場が作られて日も浅いが、おそらく度々顔を出したのではないかなあ、と想像する。
試験場では、さまざまな樹種を植えてより木材生産に適した樹種を研究していた模様だが、なかには熱帯木もある。台湾に暮らした龍次郎には懐かしかったのではないか。
 
……そんな思いを持ちながら園内を歩くと、こんな木があった。
 
2
 
コウヨウザンだ。台湾に多い中国杉とか福州杉、広葉杉などと呼ぶ樹種である。昨今は早生樹種としても関心を集めているが、龍次郎もこの木には注目していたようだ。川上村にも植えられているのは、以前紹介した。
もしかして、龍次郎が推薦したということだって……。
 
現在生えているのは細くて、年数はそんなに経ってないと思われるが、コウヨウザンと龍次郎にはわりと深い関係があるのである。
 
そんな思いを持って、公園内を歩いていたのさ。
 

2018/03/18

山川省の可能性

先日、荒井奈良県知事とお会いする機会があったのだが、そこで話した中でもっとも衝撃的だったこと。

 
それは今年1月に亡くなった野中広務・元衆議院議員の話だった。
前世紀の話になるが、省庁の統廃合を取り仕切る中で、「林野庁に、建設省の河川局をくっつける案」があったのだという。まさに山と川の行政を一体化し、防災や山村政策の一元化を狙ったのである。
そして、単なる案に留まらず、結構なレベルまで進んでいた。しかし、最後の最後で建設省の反対で稔らなかった、河川局が林野庁と一緒になりたくない! とごねたのである……。
 
結果的に建設省と運輸省、国土庁などが合併して国土交通省という巨大省庁が誕生したわけだが……もし、河川局が切り離せていたら、もう少し省庁バランスはよくなったかもしれない。同時に、河川と森林・林業行政が変わったかもしれない。
 
野中氏は、「あれは残念だった」と幾度も繰り返したのだそうだ。
 
それを聞いて、つい私は割り込んでしまった。
 
「それこそ、土倉庄三郎の唱えた山川省の設立ですよ!」
 
土倉翁は、明治32年に『林政意見』を出版している。当時の山林局の政策を批判しつつ、新たな提言をしているのだ。その中に、「山川省の設立」が含まれるのである。
 
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その部分を抜き出すと、
 
2    全体を読みたければ 3
 
少しだけ読みくだせば
 
「土木山林の両政務を合して山川省を新設」
「当務者を終身官となし確実の設計に基づき不動の方針に拠り遂行する」
 
どうだ。単なる行政の統合だけでなく、山や川を預かる者は、終身動かない、つまりコロコロ変わっては計画が練れないと喝破しているのである。まさに現在の猫の目林政、目の先林政にも当てはまるではないか。
 
 
ちなみに、この件については、私は5年前にYahoo!ニュースに書いていた。
 
 
 
ま、いまさら省庁の統合を言っても始まらないし期待もしていないが、土倉翁の提案は100年ぐらい経って、実を結びかけた瞬間があったのだなあ……と感慨に耽ったのであった。
 

2018/02/03

『桜の樹木学』のコラムに……

ふと手に取った書籍『桜の樹木学』(近田文弘著・技術評論社)。

 
1  
 
オールカラーのなかなか贅沢な本なのだが、内容はサクラという木に関するかなり詳しい専門書であった。著者は、国立科学博物館の名誉研究員とのこと。この本をパラパラめくって発見してしまった。
 
後半にあったコラムである。
 
2
 
吉野山のサクラを救った土倉庄三郎」というタイトルで、吉野山のサクラを土倉翁が買い取って守ったこと、奈良公園の春日山の植栽に取り組んだことを紹介している。
さらに本多清六のことや、大滝の磨崖碑まで写真入りで説明している。
 
ネタ本は、やはり拙著『森と近代日本を動かした男 山林王・土倉庄三郎の生涯』である。
 
こんなところに活かされるとは、望外の喜びである。
(ただ、春日山原始林を全部植えたように記されているのは、ちょっと勇み足。正確には春日山の半分で、春日大社側の山は原始林である。)
 
思わず購入してしまいました(^o^)。
 
私も、この本でサクラについて勉強しよう。めざせ、サクラ・ジャーナリストである。

2018/01/15

『“道”を拓いた偉人伝』に土倉庄三郎

なんと、ブックオフで“道”を拓いた偉人伝』(イカロス出版 永冨 謙著)を発見。

サブタイトルが、「道をつくり、道を愛した5人の軌跡」とある。この5人のうちのトップバッターが、土倉庄三郎である。
 
Img001
 
この本の存在は知っていたが、これまで手にすることはなかった。
 
実は、著者の永冨氏は「日本の廃道」というサイトを主宰して、電子本を発売しており、私もそうち土倉街道の掲載されている号は所持している。
 
ちなみに、今回の本に載っているのは、電子本(PDF版)とは、少し違うようだ。
それにしてもよく調べて、実際に歩いた記録でもあるのだからスゴイ。
 
 
私も土倉庄三郎を調べている際には、全体に土倉道と呼ばれる各所に建設した道についてそれなりに調べたし、歩けるところは歩いた。が、あまりに道ばかりに時間と労力を割くわけにはいかず、終わらせている。
 
それでも、著書『森と近代日本を動かした男 山林王・土倉庄三郎の生涯』(『樹喜王 土倉庄三郎』)を出版後も気になっていて、幾度も川上村に土倉道の調査を行わないかと打診していたのだが……。
 
なにしろ、そのルート探索と距離を考えると、単独で行うのは厳しく限界もあるからだそれだけで何年も費やすと、庄三郎全体を追えなくなる。ほかにも調べるべきことが山積みだったから。加えて、ちゃんと報告書をまとめて役立つようにするためには組織的な取り組みが必要だと感じているからである。
 
残念ながら、未だに「土倉道全調査」は実現していないのだが……。
 
 
本書は、さすが廃道の専門家?、よく消えかかっている道筋を調べて実際に歩いている。
また文献調査も相当行ったようだ。
 
奈良県行政文書から五社峠の開削関係の資料まで見つけている。そして庄三郎が計画した五社トンネルについても多くの事実を発掘している。(ただし、トンネルを断念したから峠道をつくったというのは間違いだろう。先に峠道を開き、トンネル計画は還暦時である。)
 
また大杉谷開発の歴史もよく調べている。土倉翁は原生林を切り開いて自然破壊をしていた(笑)。
 
 
ちなみに本書の発行は、2011年11月25日。『森と近代日本を動かした男』は2012年11月7日。拙著の1年前である。だから底本は土倉祥子著の『評伝 土倉庄三郎』のようで、全幅の信頼をおいた、とあるが、私の裏取りでは『評伝』には推測による部分が多くて、怪しい部分もあった。丸ごと信用するのはどうかと思う。
 
ともあれ、土倉道に加えて吉野の山を縦横に延びる木馬道などをしっかり調査したら、熊野古道に並ぶ山間の大街道を描き出せる。再び世に出せば、村おこしにもなると思うのだが。
 

2017/07/21

割滝調査

川上村の「割滝」調査を行った。

 
と言ってもわかりにくいだろう。割滝とは、村内大滝集落前の吉野川の流路を掘削して筏を流せるようにした人工的な水路を指す。
 
Photo
 
これは、Googleマップ。吉野川は右下から左上へと流れているが、白い波がたっている水路の上の岸辺沿いにまっすぐな水路が見えるだろう。これが割滝だ。現在は、通常水は流れていない。ダムが放水するなど水位が上がった時には流れる。
 
この開削を主導したのは、土倉家、とくに土倉庄三郎である。
 
江戸時代から吉野川に丸太を流して木材の搬出をしていたが、一本ずつ流す(管流し)ではなく筏に組んで流せるように、徐々に下流から上流へと河川改修を進めていた。これによって輸送力が大きく変わる。とくに大滝より上流から筏で流せるかどうかは大きなポイントだった。
 
土倉庄三郎は、明治5年に川上郷水陸海路会所を設立している。水路整備、つまり川の浚渫や開削を行う会社である。そして川上郷のより上流まで川幅を拡げる工事を行った。
 
割滝も、その際により広く開削したのだろう。当時はダイナマイトもなく、ノミで削るほか、岩の上で長時間焚き火をして岩を割ったと伝わる。
 
 
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戦前の絵はがきより。なかなか勇壮な筏下りシーンである。
 
 
これまで存在自体はよく知られていたが、対岸ゆえにわざわざ調べた人はいなかったらしい。それを調査したのである。おそらく筏流しが消えて数十年、眼前に見た人も少ないに違いない。また大滝ダムができてからは水質も悪くなって、川で泳ぐ人もいなくなった。
 
間近に見ると、こんな感じ。これは下流側。これだけUの字型に掘削している。
 
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計測調査中。
 
結果として、長さ約88メートル。幅は3~5メートル1深さは1~1・8メートルだった。これも、いつか精密な測量をすべきだね。
 
002  概念図。ちゃんとした測量図ではありません。
 
ただ調査では、削岩機で穴を開けた跡があり、おそらく昭和に入ってからも拡張を行ったのではないかと思われる。どこまで庄三郎の手のつけた部分なのか区別できなかった。文献調査なども加えて、いつの時代にどんな工事を行ったのか調べるべきだろう。
ちゃんと調べたら、森林学会、土木学会等に発表できるんじゃないか?
 
 
今回は、その触りということで。

2017/07/18

1917年7月19日

今日は、2017年7月18日。つまり土倉庄三郎の忌日(1917年7月19日)より100年を迎えようとしている。

 
没後100年その日を前に、100年前の庄三郎の様子を描いてみよう。
 
 
もともと庄三郎は壮年時の飲酒のため胃腸を悪くしていて、終生悩まされていたらしい。それでも晩年は酒を絶って体調を維持していた。日々の食事の中には、牛乳と鶏卵が入っているところは、一般人とは違うところだろう。
 
大正5年(1916年)からは、旅に出ず、山の案内も自分ではしなくなり、老いが深まったらしい。
 
翌大正6年7月2日に、軽微な腹痛と身体のだるさと訴え、主治医の川本恂蔵を呼ぶ。川本は三女・糸の配偶者で同志社病院の副院長だったという。
 
徐々に回復して、6日7日に回復の兆しがあった。しかし、再び容体は悪化する。
 
13日に、四女・小糸の配偶者・佐伯理一郎(同志社病院院長等)も往診。面会謝絶となる。親族にも内報して急ぎ集めた。
京都医科大の島薗博士の診察も受ける。 
 
この頃か、もう回復は難しいと自覚するや、むしろ心は落ち着き安泰となり、静かに念仏を唱えた。時に枕元の人々に、宗教の大切さを説き、子供孫らに「極楽への旅立ちはむしろ歓喜すべきなり」と逆に諫めたという。
 
19日、正午に松浦博士の来診。注射によってわずかに意識をつなぐ状態となる。
午後4時50分、息子娘・孫ら近親者に見守られ逝く。
 
病名は、髄性肝臓ガン。末期の苦しみもなく穏やかに息を引き取ったそうである。
 
 
五男・五郎の句が残されている。
 
雲の峰父は佛となり給まふ
 
葬式と葬列
 
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