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森と林業と田舎の本

2020/03/13

『英雄たちの選択』に金原明善が登場

3・11のBSプレミアムの『英雄たちの選択』では、治水三傑を紹介していた。そこで武田信玄らと並んで紹介されたのが、明治の金原明善。天竜川を鎮めた男である。

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もともと金原家は豪農であり酒造や質屋を営むが、天竜川の氾濫に苦しめられ、明善は資財を投げ打って治水に取り組む。後に堤防建設は国の直轄事業となったので、今度は治山へと向かっ。そして荒れた天竜の山々を植林するのである。これが現在の天竜林業の基礎である。

ま、ここで私としては土倉庄三郎が登場してほしいのだが(^^;)、残念ながら番組ではパス。植林の苦労については触れなかった。実際は、土倉家に番頭を送り込んで植林技術を学んだり、いろいろ試行錯誤しているのだが。

ただ、明善の経営力については触れていた。

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彼は、林業だけに特化せず、木を伐りだした跡の運輸会社や製材所、そして銀行まで設立しているのである。その点が土倉庄三郎と違うところだ。吉野には製材や商品化を担う部門が周辺の地域にあり、自ら手を出す必要がなかったし、出すべきではないとかんがえていたフシがある。実際は銀行設立や鉄道会社設立などに資金を出しているのだが、あくまで支援であり、自ら経営するつもりはなかったようだ。

が、結局はそれが分かれ目となった。息子たちはさまざまな事業に手を出しては失敗するのである。

庄三郎と明善が直接どのようなつきあいをしていたか記録はないのだが、出自も天下国家の考え方も似ている。

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明善の生家に残されている銘ぜんの住所録には、土倉庄三郎の名があった。

 

 

2020/03/04

三島海雲と土倉家の関係を示す写真見つかる

カルピスを世に生み出した三島海雲。彼と、吉野の山林王・土倉家は、深い関わりのあることを幾度も紹介してきた。


カルピスの日に思い出す、二人の「カルピスの父」

ただ、上記に記したのは、土倉庄三郎の次男・龍治郎との関係だが、先に知り合ったのは、五郎と四郎である。とくに五郎とは、三島と二人で日華洋行という貿易会社を立ち上げて商売をしている。土倉家の金で仕入れた雑貨を中国~満州で売って歩いたらしい。さらに内蒙古には軍馬の買いつけに動いている。

このことは三島も語っているのだが、それを示す物証的なものがなかった。

 

それを見つけた。龍治郎の孫に当たる方から提供を受けたのである。それが、この写真。

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写真に書き込みがあるが、前列左が三島海雲。そして右が土倉五郎。後列に四郎がいる。おそらく日華洋行時代に撮影したものと思われるが、一緒に写真に写っているのだから、確実である。ほかにも山田などの書き込みのある人物がいるが、何者かは確認できていない。おそらくビジネス仲間だろう。

明治時代、多くの日本人が大陸に自主的に渡った。そこで何をしたのかは千差万別だろう。仕事もあれば、研究、そして探検的な行動もある。なかには大陸浪人と呼ばれる怪しげなことに手を出した人も多くいた。ある意味、国家権力の空白地帯のような地域になっていた中国~蒙古である。

五郎は、三島との商売を止めた後は、馬賊のようなことをしていた時期もあるらしいが、結局は金を食いつぶしただけで日本にもどる。

四郎は、わりと早く大陸に見切りをつけて日本にもどって横浜正金銀行に勤める。そしてアメリカに派遣されて支店長を務める。ただ比較的早死にしたようだ。

そして三島は、辛亥革命によって財産を全部失って日本にもどるが、再起を図り、内蒙古の経験からヨーグルトや乳酸飲料の開発に挑み、カルピスにつなげた。そして90をすぎるまで社長を勤めている。

同じ場、同じ体験をしても、その後の人生はさまざまだねえ。。。

2020/02/25

日本の養蜂事始と日本の文化を救った男

先日のミツバチ科学研究会では、私以外に講演が2つあったのだが、気になったのは「日本のセイヨウミツバチ普及のルーツ」だった。

日本の養蜂と言えば、古事記にミツバチを野に放した記述からあるから飛鳥時代の奈良……なんていう話もあるが、いわゆる職業としての養蜂はニホンミツバチでは無理でセイヨウミツバチの導入である。そして、それは明治時代になる。その研究発表があったのだが、これが興味深かった。

名の残っているのは、武田昌次という人物で、アメリカで近代養蜂を見て、明治9年にアメリカから6群を買いつけて日本に持ち込んだ、とされる。ところが、この武田という実物が謎だったのだ。

発表者、貝瀬収一氏および干場英弘氏によると、武田の正体は、幕臣・塚原昌義だという。

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塚原は旗本の出身で、外国奉行も勤め、遣米使節にも参加した秀才だったが、幕府が倒れ戊辰戦争で破れると姿を消す。そして忘れられた人物だったのだが、実は名を武田に変えていたのだ。そして明治政府に就職もしていた。その殖産興業の一環として養蜂を始めたらしい。

こうした歴史の襞に隠れた人物と事象はいろいろあるんだろうな、と思う。


先日、気づいたのは、明治期に日本の文化を救ったとされる岡倉天心だ。「文明開化」の名の元に打ち捨てられる古社古や仏像などを救うことに尽力したことで知られるが、彼の運動が実を結んで「国宝」指定につなが古社寺保存法の制定が、明治30年だった。
一方で、土倉庄三郎が「古社寺保存ノ誓願」を政府に出したのが明治29年なのだ。

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絶対に連動している(⌒ー⌒)。庄三郎と天心はつながっているはずだ。天心は法隆寺を始めとして奈良の古社寺を回っているのだから。

こうした人脈も追跡したいものである。

2020/01/28

台湾林業の夜明け……

昨夜に続いて、今夜も広島なのだが、こちらの内容は置いておいて、再び龍次郎の残した写真より。

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これは台湾らしい。そしてこれは苗床だろう。植えてあるのはスギか。

龍次郎は、1895年末に台湾に渡って、1899年に1万町歩の山林を300年間租借して、そこで林業を始める。具体的には、天然林を伐採して、それらの木(とくに楠から樟脳を採取して)を販売するとともに、跡地に植林を行った。これが台湾にとって初めての育成林業となる。つまり台湾の近代林業のスタートだ。

龍次郎は、15ヘクタールもの苗畑をつくって植える苗を育てたという。吉野のスギ、ヒノキのほかにも多くの樹種を試験したと伝えられている。その現場を示す写真となるに違いない。……写っている人物は誰かわからないが、日本人だろうか。それにしても大苗だな。こんなに大きくしてから植えるのか? 台湾ならではの実験かもしれない。

 

せっかくだから、こんな写真も。

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「北蕃人之骨棚」と書いてあるのかな。そう、ドクラじゃなく、ドクロが並んでいる。北蕃人とは、先住民のアタイヤル族だろうか。当時は、まさに首狩りがまだ行われていたし、それらの首を誇る、アニミズム的な習慣があったのだろう。
「龍次郎は蕃人の尊敬を集めていた」という記述もあるが、ときおり土倉事務所も襲われたらしい。そして何人も首を狩られた。首がなくて遺体の名前がわからなくて困った、という記録もある。

そんな世界で、林業は始まったのだ。

2020/01/26

新たな土倉庄三郎の写真

以前も紹介した土倉龍次郎の一族からお借りした写真だが、またいくつか紹介したい。

今回は、これまで私の記憶にない土倉庄三郎の写真。

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どちらも、少し歳をとってからの写真に見える。70歳前後ぐらいか。1枚目は洋室だが、写真館で撮影したものか。2枚目は、おそらく孫に囲まれている様子。普通に考えると、龍次郎の娘息子たちだろう。そして背景も、大滝ではなさそうだ。孫に会いに東京へ行ったのか。とすると、東京の龍次郎の家ということになるが……。

これまで龍次郎の東京の家に関する写真は1枚もないが、現在の目黒駅前にあったという(その後、転々としているが)。こんな縁側のある和風住宅(かなり大きそう)だったのかもしれない。

いずれにしろ、貴重な庄三郎の姿である。

 

2020/01/12

新たな土倉家文書発見?

土倉家文書。奈良県川上村の山林王と言われた土倉家にある文書のことだが、それを所蔵していた土倉邸は伊勢湾台風で流れされた。その解体の際に見つかったのが、隠し部屋の長持ちに残されたもの。それは紆余曲折を経て、天理図書館に納められた。

というわけで、現在は、大半の土倉家文書を見たければ天理図書館に行かねばならなCい。しかし、原本の閲覧を申し込むと約2週間もかかるのだ……。

だが、ひょんなことから某所にある土倉家の書類を目にした。書き手の多くは土倉庄右衛門と、土倉庄三郎。内容は十分に読めないが、山林売買に関わる書類のようだ。古いものは享保年間のものだ。

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これ、ちゃんと読める人はいないか。ほかにも「吉野の伐木方法」や「造林方法」を記した巻物もあった。こちらの執筆者は誰かわからないのだが、土倉家の可能性も残る。そして、なぜこれらが、流出したのかは不明。

これらを調査したいのだが、まず古文書を読める人がいないとどうにもならない。誰か、我と思わんものは名乗りを上げてくれ。

2020/01/05

やっぱり、ニイタカヤマノボレ

年はじめに、少しは「希望」のある話題を。

「ニイタカヤマノボレ1208」をご存じだろうか。1941年12月2日。日本海軍連合艦隊司令部が発した真珠湾攻撃の暗号電だ。12月8日に攻撃開始という意味。かくして太平洋戦争は口火を切った。

これが希望? と言われたら困るのだが、この際戦争もパールハーバーも関係ない。ニイタカヤマ、新高山である。これは台湾の最高峰にして東アジア最高峰、標高3952メートル。台湾が日本領になって富士山より高い山だというので新高山と名付けられたのだ。

この新高山に最初に登頂したのは誰か、という課題がある。一般には鳥居龍蔵森丑之助ということになっているが……そこに長野義虎の方が先だったという声もあり、さらに長野とともに土倉龍次郎も登っていたのではないか? という可能性もある。その点については、Yahoo!ニュースの

ニイタカヤマに初登頂したのはだれだ? 知られざる探検家を探れ

こちらを参照のこと。

さて、龍次郎は1870年10月生まれだということがわかった。思えば父庄三郎が1840年生まれ。つまり今年は土倉龍次郎の生誕150周年であり、土倉庄三郎翁生誕180周年であったことに気づいた。これは、ちょっと「希望」が持てる(^o^)。

そして私は龍次郎の孫に面会することができた。そして見せていただいた写真に仰天した。

実に興味深い写真が幾枚もあるのだが、とくに台湾時代のものが多い。

そして見つけたのだ。

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この写真の裏書きに「新高山」とあるのだ。頂上ではないが、新高山に行ったのは確実になった。そして阿里山と書かれた写真も。

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阿里山ソーロガナ頂、と裏書きがある。ということは阿里山にも入ったことは間違いない上に、写真を見てほしい。映りはイマイチだが、樹木の根元に小さな人間が写っている。それに気づけば、この樹林の大きさ、太さがわかるだろう。
そう、龍次郎は阿里山の巨木林も発見したことになる。

もちろん撮られた年代がわからないから、確実に一番乗りとは言いづらいのだが、龍次郎の台湾滞在期間と全島を組まなく歩いて探検したという逸話から、極めて初期、おそらく1895年から数年間の間になるだろう。

阿里山のヒノキの巨木林は、撫墾署の署長の齋藤音作本多静六とともに1900年に玉山登頂を試みた際に発見したと伝えられている。また1906年に、小笠原富次郎巨大なタイワンヒノキ「阿里山神木」を発見したという公式記録がある。

もしかして、龍次郎がそれより先に発見している可能性が出てきたのだ。これを確認できたら登山史の書き換えであり、確実な証拠はなくとも一石を投じることになるだろう。

登場人物がみんな明治の林業界に関わりのある人が多い上に、当時の探検家も続々と登場する。台湾は、日本にとってフロンティアであり、1900年代の世界の残された数少ない探検フィールドであったこともわかった。

私も「ニイタカヤマノボレ2020」という気運になってきた\(^o^)/。

※現在は、新高山ではなく玉山である。

2019/12/17

消える品種のナショナルコレクション

今期の朝ドラのタイトルは「スカーレット」。なぜ信楽の陶芸家の話がスカーレットなんだろうか、と思っていたのだが、スカーレットは「緋色」という意味のよう。緋色は陶芸の窯の中の色なんだろう。

ところで「ドグラス・スカーレット」という花を知っているだろうか。カーネーションの1品種なんだが……。

日大正時代に、日本で初めて赤いカーネーションとして作り出されたそうだ。さらにそこからドグラス・ファンシーなどの品種が作られたという。作り出したのは、土倉龍次郎。日本のカーネーションの父と称される人物であり、その父は山林王・土倉庄三郎。

龍次郎の足跡を感じたくて、この花を見てみたいと願っていたのだが、カーネーションの研究者に聞くと、そんな品種はとうに姿を消しているそうだ。まったく保存されていない。そもそも鑑賞用の花卉の世界では、毎年のように新たな品種が次々と生み出されるが、売れなくなった時点で消えていく。それらを保存しようという努力もなされていない……のだそうだ。

だからドグラス・スカーレットは当時こそ大人気で話題となったそうだが、すでに消えてどんな花だったかさえ記録に残されていない。せめて何と何を掛け合わせたのかぐらい記録していたらよいのだが……。

こんなことを思ったのは、先日の朝日新聞に「ナショナルコレクション制度」を紹介していたからだ。これは植物の品種を保存のための認定制度だそうである。2年前に日本植物園協会が作ったそうだ。もっとも原形は、イギリスの「ナショナルプラントコレクション」らしい。
保存と言ってもすべての品種は無理だから、分類学上の特異性があるとか、成育環境、利用方法、歴史的背景などテーマのある品種で、データを揃えて申請して、審査を合格すればコレクションに加えられる。実物を保存なり継承するわけではないが、データがあれば再現の可能性もある。また申請者が保存できなくなった際に継承者を探すこともできるだろう。

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龍次郎は数多くの新品種を生み出したとされるが、一つも残っていない。寂しいような、彼らしいような。

 

2019/11/11

大台ヶ原の森林鉄道と土倉道

先週金曜日、8日のBS1の番組「大台ヶ原山 幻の森林鉄道跡を探せ」を見た。

これ、なかなか凄い番組だった。紀伊半島に広がる森林鉄道跡を追いかけたのだ。なんと大台ヶ原の山頂近くまで鉄道は伸びていたという。もちろん森林伐採と木材搬出のためである。

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なんと総延長は150キロにも及び、その標高差は1000mを越える。もしかしたら日本一かもしれない。私も各地の森林鉄道は見たり資料で読んできたが,これほどの規模は聞いたことがない。なんと途中にインクラインで傾斜30度以上の谷を登り下りし、さらに索道をかけて山と山の間をつないでいる。大正年間につくられて、戦後の一時期まで使われたようだ。

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これほどまでに山を切り開いたのか、と別の意味でも感心する。そして、現在歩く人の背景に、チラリと皆伐跡が映るのだが、それは現在も伐採していることを示している。

ところで気になるのは、こんな鉄路跡。

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なんか、記憶のある……そう、これは土倉道そっくりではないか。

実は吉野から大台ヶ原と大杉谷を抜けて三重の船津まで続く道を開いたのは土倉庄三郎だ。そして牛を使って木材を運んだ。つまり、大台ヶ原周辺の森林開発を始めたのは庄三郎であって、それを船津街道と呼び、完成後は国に寄付している。番組で紹介した大杉谷森林鉄道も船津から大台ヶ原への道だった。おそらく大部分は土倉道を利用して作られたのだろう。番組では触れていなかったが、まったくゼロから鉄路を開いたのではなく、先人の木馬道などを改築したのだ。

土倉道研究、やりたいと思いつつ手つかずだが、三重県側も含めて誰か挑戦しないか。

 

なお番組は明日12日午前10時と17日午前11時から再放送があるようだ。気になる人は要録画。(この「奇跡の絶景ストーリー」シリーズは、どれも身体張って作っていて面白い。)

 

2019/07/07

カルピスの日に思う台湾総統選

7月7日は、カルピスの日だそうである。とくに今年は、カルピス発売100周年。1919年7月7日に発売が始まったのである。

そして、カルピス誕生には土倉龍治郎が大きく関わっている。

その点については、2年前のYahoo!ニュースに『カルピスの日に思い出す、二人の「カルピスの父」という記事を書いたので、ここでは触れない。ただ、台湾のコンビニでもカルピス飲料が販売されていたなあ、と思い出された。買わなかったけど(笑)。

土倉龍治郎は、台湾に大きな足跡を残している。というと、また誤解があるかもしれない。今の台湾では日本以上に忘れられているからだ。ただ確実に(見えない)足跡はある。私も、その足跡の痕跡を探して歩いた。その成果については、そのうち改めて紹介したい。

龍治郎は、台湾で林業に樟脳生産に電力開発に……と大きな事業をいくつも展開していたが、結果的にそれらを売り払って帰国せざるを得なくなった。その事情については、まだ不明確な点が多々あって、単に本家の経済的危機を救うためだけなのか疑問もあるのだが、とにかく日本の(土倉家の)莫大な資金が領有間もない台湾に投入されたことは間違いない。

そして龍治郎が、それらをすべて放棄して帰国したことが、実は三島海雲のカルピス開発・販売に手を貸すことにつながっている。妙な縁である。

 

台湾で留まっていたホテルの近くに、こんな車が停まっていた。

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選挙カーである。日本だけでなく、台湾も選挙戦の真っ盛りだった。総統選が始まっているのだ(投票は来年だけど)。テレビを見ていると、各候補者の討論会ばかり開かれていた。この車の写真の人物は、鴻海(ホンハイ)精密工業の郭台銘元会長だ。日本的には、シャープを買収したというか、経営危機を救った人物。彼も国民党の予備選に出ている。

せっかくだから私も見てみようと思ってしばらく待ってみたが、登場するのはまだ先のようで諦めた。別に郭氏に特別な関心があるわけではないのだが、実は私のかつての住まいの大家さんがシャープ最後の社長だったのだよ(^o^)。言い換えれば、シャープを経営危機に陥れて、鴻海に資金援助を頼む元をつくった人(⌒ー⌒)。そうした妙な縁があるから肉眼で見てみたいと思ったのだ。

そういや、富士通の半導体部門も台湾の聯華電子に売却された。日本の税金を注ぎ込んで建て直そうとしたジャパンディスプレイも台湾・中国資本に投げ売りされている。

時代は移り変わって、台湾資本が日本を買い支える……買い漁る時代になったのは、皮肉である。

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