昨日、五社峠に行ってきた。吉野町と川上村の間にある峠である。
峠の切り通し。見た通り、倒木が道を塞いでいる。
かつては茶店もあったというのだが……。
今でこそ峠の下の五社トンネルは数分で通過できるが、かつては峠道こそ交通の要衝だった。そしてこの峠道に、吉野林業に大きな役割を果たしたのではないか、そして土倉庄三郎にとっても象徴的な意味があったはず、と考えていた。
この道は、明治以前は、人が一人通れるだけの踏み分け道のようなものだったらしいが、若き土倉庄三郎が私財を投じて車の通れる道に開いたのだ。これが土倉の名を上げる一つになっただろうし、吉野川源流部の林業地帯に与えた影響は大きい。そして明治の元勲を始め、知事も学者も役人も、みんな峠を越えて土倉翁を訪ねたのだ。翁を訪ねた人の数は10万人を越すというから、そのほとんどが峠を通ったのだろう。
ただ車の通れる道と言っても明治初年だから、牛が引く荷車が主である。だから土倉牛車道と呼ばれる。かつて牛車がつづら折りの道を登ったり下って、川上村に物資を運んだのである。
脱線するが、伐採した木材を運ぶ木馬を大々的に採用したのも土倉翁らしい。今でこそ人力で運ぶなんて……と思いがちだが、当時は画期的なことだった。木のレールを敷くことによって、原木の山を一人で運べるようになったのだから。
どうも、土倉翁は、交通・運輸に対する特別な思いと先見性があったのではないかと思う。五條から伊勢まで結ぶ東紀州街道も開いているし、大台ヶ原への道も作っている。原木を筏にして流すための川の浚渫と岩の掘削にも取り組んだ。さらに筏の上に物資を載せて運ぶ便も多用している。晩年は、五社トンネルの建設も企てていた。
土倉、という名も、倉(蔵)を持つ馬引きを連想させる名だ。流通業や金融業を営む人の姓という説もある。土倉家を、単に林業家として見るだけでは見誤る。今でいう、造林・素材生産から運輸、金融業まで営む林業界のゼネコン?のような存在か。
さて以前から、昔の感覚をつかむために五社峠を歩いて越えてみたいと思っていたのだが、何分旧道の入り口さえわからない。役所の人も知らない。困っていたら、なんと川上村に、土倉庄三郎に学ぶ会こと「芳水塾」が結成されて峠道を歩くという。そこで参加を申し込んだのだ。
もっとも話を聞いてみると、吉野町側から五社峠の神社までは車で上がれるらしい。そこから川上村側へ下る道が荒れている。だから歩くというよりは道の探索と通れるように草刈りをするという。そこで私も、麦わら帽に手鎌も用意した。鉈はまだ血糊が付いているかもしれないから(^^;)、止めとく。
だが、現地の様子は想像とは違っていた。開けた道跡に草が密生していて、炎天下それを刈る……というのではなく道は林間、そして下りなのだ。だから日差しもきつくなく快適。ただし、道は草は少なくても、倒木が道を塞ぎ、橋は落ち、雑木が繁っている。それらを伐ったり動かして通れるようにする。必要なのはチェンソーであった。
それでも案外幅はあって、広いところは2mを越えている。しっかりした石垣が築かれていたし、折り返し地点には、牛車を回すための膨らみも設けてある。元は、石畳だったというが、さすがにそこまでは確認できなかった。それでも想像以上にしっかりした道を土倉翁は作っていた。整備すれば、フォワーダとかハーベスタなど林業機械なら通れる。
崩落していたり、
雑木に埋もれているところもあった。

切り捨て間伐らしい倒木がかなり道を塞いでいた。
中には直径80センチ以上の大木も倒れている。
参加者はさすがに手際よく進んでいく。私も落ち枝や石を片づけていたが、思わず左親指を使ってしまってうなる。包帯が微妙ににじむところを見ると、ちょっと傷口開いたかなあ。
広いところは、これくらいある。
でも、橋が落ちていて難儀する沢も少なくなかった。
これは、道の真ん中に植林したらしい。
道として維持することを諦めたか。勝手に伐れないところが辛いところ。
ともあれ、2時間ほどで降り立った。もう少し涼しくなったら、全コースを歩いてみよう。
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