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本の紹介

土倉庄三郎

2017/07/21

割滝調査

川上村の「割滝」調査を行った。

 
と言ってもわかりにくいだろう。割滝とは、村内大滝集落前の吉野川の流路を掘削して筏を流せるようにした人工的な水路を指す。
 
Photo
 
これは、Googleマップ。吉野川は右下から左上へと流れているが、白い波がたっている水路の上の岸辺沿いにまっすぐな水路が見えるだろう。これが割滝だ。現在は、通常水は流れていない。ダムが放水するなど水位が上がった時には流れる。
 
この開削を主導したのは、土倉家、とくに土倉庄三郎である。
 
江戸時代から吉野川に丸太を流して木材の搬出をしていたが、一本ずつ流す(管流し)ではなく筏に組んで流せるように、徐々に下流から上流へと河川改修を進めていた。これによって輸送力が大きく変わる。とくに大滝より上流から筏で流せるかどうかは大きなポイントだった。
 
土倉庄三郎は、明治5年に川上郷水陸海路会所を設立している。水路整備、つまり川の浚渫や開削を行う会社である。そして川上郷のより上流まで川幅を拡げる工事を行った。
 
割滝も、その際により広く開削したのだろう。当時はダイナマイトもなく、ノミで削るほか、岩の上で長時間焚き火をして岩を割ったと伝わる。
 
 
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戦前の絵はがきより。なかなか勇壮な筏下りシーンである。
 
 
これまで存在自体はよく知られていたが、対岸ゆえにわざわざ調べた人はいなかったらしい。それを調査したのである。おそらく筏流しが消えて数十年、眼前に見た人も少ないに違いない。また大滝ダムができてからは水質も悪くなって、川で泳ぐ人もいなくなった。
 
間近に見ると、こんな感じ。これは下流側。これだけUの字型に掘削している。
 
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計測調査中。
 
結果として、長さ約88メートル。幅は3~5メートル1深さは1~1・8メートルだった。これも、いつか精密な測量をすべきだね。
 
002  概念図。ちゃんとした測量図ではありません。
 
ただ調査では、削岩機で穴を開けた跡があり、おそらく昭和に入ってからも拡張を行ったのではないかと思われる。どこまで庄三郎の手のつけた部分なのか区別できなかった。文献調査なども加えて、いつの時代にどんな工事を行ったのか調べるべきだろう。
ちゃんと調べたら、森林学会、土木学会等に発表できるんじゃないか?
 
 
今回は、その触りということで。

2017/07/18

1917年7月19日

今日は、2017年7月18日。つまり土倉庄三郎の忌日(1917年7月19日)より100年を迎えようとしている。

 
没後100年その日を前に、100年前の庄三郎の様子を描いてみよう。
 
 
もともと庄三郎は壮年時の飲酒のため胃腸を悪くしていて、終生悩まされていたらしい。それでも晩年は酒を絶って体調を維持していた。日々の食事の中には、牛乳と鶏卵が入っているところは、一般人とは違うところだろう。
 
大正5年(1916年)からは、旅に出ず、山の案内も自分ではしなくなり、老いが深まったらしい。
 
翌大正6年7月2日に、軽微な腹痛と身体のだるさと訴え、主治医の川本恂蔵を呼ぶ。川本は三女・糸の配偶者で同志社病院の副院長だったという。
 
徐々に回復して、6日7日に回復の兆しがあった。しかし、再び容体は悪化する。
 
13日に、四女・小糸の配偶者・佐伯理一郎(同志社病院院長等)も往診。面会謝絶となる。親族にも内報して急ぎ集めた。
京都医科大の島薗博士の診察も受ける。 
 
この頃か、もう回復は難しいと自覚するや、むしろ心は落ち着き安泰となり、静かに念仏を唱えた。時に枕元の人々に、宗教の大切さを説き、子供孫らに「極楽への旅立ちはむしろ歓喜すべきなり」と逆に諫めたという。
 
19日、正午に松浦博士の来診。注射によってわずかに意識をつなぐ状態となる。
午後4時50分、息子娘・孫ら近親者に見守られ逝く。
 
病名は、髄性肝臓ガン。末期の苦しみもなく穏やかに息を引き取ったそうである。
 
 
五男・五郎の句が残されている。
 
雲の峰父は佛となり給まふ
 
葬式と葬列
 
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2017/07/12

土倉庄三郎の誕生日

暑い。暑い日は、水遊びに限る。

 
というわけで、川上村大滝の土倉家跡の前の吉野川で水に親しんだ(^o^)。
 
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大の大人、5人が水遊び(笑)。……にしても、ダムからの放流水は緑色に濁っていて、あんまり水に浸かりたくない心境なのであった。
 
水に濡れながら何をやったかはまたの機会とする。
 
 
それと何の関係もないが、先日気がついたこと。
土倉庄三郎の誕生日は、4月10日である。私は、それに関して深く考えなかったのだが、この月日は旧暦であった。
明治になって新暦に切り替えられるから現在の月日と狂ってくる。拙著では、登場する月日は新暦、土倉翁の年齢などもすべて満年齢で示しているが、誕生日だけは見落としていた。
 
で、旧暦天保11年4月10日は、現在の1840年5月11日である。
 
だからナンなんだ、と言われたら何もない(~_~;)が、せっかくだから誕生日占いを。
 
5月11日生まれの人の性格は?と、星占いサイトを検索してみた。
 
・慌てず騒がずの精神で、ゆったりとしています。
・即決即断はせず、じっくり考えて策を巡らせる。
・徐々にやる気になっていくタイプ
・やると決めたことは時間がかかってもやり抜くタイプ。
・空想をして楽しむ。
 
全然、土倉翁を連想しないなあ(;´д`)。
やっぱ、関係ないでしょ。

2017/05/28

「28年度森林・林業白書」のコラム

平成28年度森林・林業白書 が公表された。

 
さて、見どころはどこかな……とアラサガシ もとい、読みどころを探ってみたのだが……さほと新奇な話題は見つからない。
 
が、こんなコラムがありました。
 
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第Ⅲ章 林業と山村 108ページである。ちょっと抜き書きすると。
 
 土倉庄三郎は、吉野林業の「中興の祖」と呼ばれており、吉野林業で古くから行われてきた苗木の密植と丁寧 な育成により多くの優れた木材を生産できる方法をまとめ「土倉式造林法」として、その技術を全国へ広めたと されている。さらに、道路整備や吉野川改修の推進、教育等の社会貢献にも意欲的で、林業以外の分野でも功績 を残した。
 平成28(2016)年6月には、土倉庄三郎の没後100年を記念して、奈良県吉野郡川上村で記念式典が行われ、 多くの関係者が出席した
 また、吉野林業は、平成28(2016)年に日本遺産に認定さ れており、その歴史的魅力や特色を広く発信することで、地域 の活性化等に資することが期待されている。
 
ありがたい。が……惜しい!
 
残念ながら2016年は、没後100年ではないのだ(ーー;)。
1917年7月19日に亡くなったので、99年目、つまり百回忌なのである。
没後100年は、今年だった(笑)。
 
まあ、村のパンフの事業名も誤解を招くような書き方しているんだよな。「土倉庄三郎翁没後100年記念事業」と。百回忌99年から100周年にかけての足かけ2年間を一括した事業と位置づけているからなんだが、。
もっとも森林・林業白書も、平成29年に発行するのが28年度版とあるのはややこしいから、あいこか(~_~;)。
 
 
さて、100周年の今年は、昨年のような派手なイベントではなく、地に足をつけて土倉翁について学ぶ催しをコツコツ展開する予定。
 
一方で私は、各媒体に土倉翁にちなんだ記事を書いていくつもりである。土倉翁の名前と事績が、静かに、深く、浸透することを狙っている。そのためにもコツコツ調査をせねばなるまい。

2017/04/04

NHKならナビの土倉庄三郎

NHK奈良局の午後6時半から「ならナビ」というローカルニュースがあるが、そこで今日から始まった「やまと偉人伝 」の第1回目に土倉庄三郎を取り上げた。

 
実は私も若干だけお手伝いしたのだが、放送されたと言っても見られるのは奈良県民だけ……。
 
だから、ここでちょろっと紹介しよう。
 
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基本、人物の事績を紹介するもので、林業の近代化や教育、自由民権運動への支援などが取り上げられた。
 
が、なかにはさすがNHKという掘り起こしもある。
 
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村人が持っていた日記帳に土倉家に関することの記述があったというのだ。これ、私もちゃんと知りたいな。
 
さらに、エヌエッケーの映像アーカイブスから吉野林業に関するものを見つけ出したそうだが、原木の運搬方法が描かれている。昭和36年のものである。
 
024  これは肩に担いで運ぶと言うもの。再現か?
 
が、貴重なのは現役の木馬による運搬が動画として残っていること。
 
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さらに、川上村小学校の生徒による土倉劇が催されたこと。
 
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土倉邸跡地で地蔵様を祀るお祭が開かれていること。
 
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こうした記録もしっかりしておくことが大切だよなあ。
 
私も、今年はコツコツ土倉情報の掘り起こしを進めます。   

2017/03/01

女子大生の土倉発表

大都会の埼玉~東京から帰った翌日は、吉野の川上村へ。

 
実は日本女子大学の学生が4人来訪したのだ。そして、土倉庄三郎について調べたことを(主に)村民に発表するという大舞台。参加しない手はありませぬ(~_~;)。
 
そもそも日本女子大学と庄三郎は、並々ならぬ関係がある。成瀬仁蔵が女子大学を創設しようと思って最初に頼ったのは庄三郎であり、広岡浅子(NHK朝ドラ「あさが来た」主人公モデル)とともに大学側には大恩がある。
 
昨年の百回忌もあって、ゼミ生が土倉家について調べたものを教授会(的なもの)で発表し、好評を博したので川上村でも行なってもらうことになったのである。
 
これを私的には、今年の土倉翁没後100年に際して行なう連続イベントの第1回と位置づけている。
 
1
 
発表は3人で。4年生二人に3年生一人。
 
内容?  いや、清々しい(^o^)。
 
特段新しい事実はなかったが、それでも女子大側に残されていた「土倉氏ヨリ借入金」(1700円分)の証書は興味深い。庄三郎は5000円を寄付したことで知られるが、それ以外にも借金の形で金を拠出していたことを示している。果たして返済されたかどうかは怪しいが……。
 
ほかにも女子大の舎監として務めた土倉千代(庄三郎の弟の孫)の話も登場する。
 
会場からいくつか質問(というか、林業等に関する解説)も出た。私も、実は甘いところを突っ込み、宿題を課す(笑)。
ついでに土倉情報の収集も依頼。このことは、彼女らの指導教官にもお願いしておいた。転んでもタダでは起きない(⌒ー⌒)。 
 
 
終わってからは村長とも面談。なぜか私も同席。
 
2 (左端が村長)
 
 
その後、彼女らは林業体験を行なうことになる。今春卒業する二人は、どちらも小学校の教師になるそうで、森を育てる林業から人づくりも学んでもらおうという趣向である。
 
私は、遠慮しましたけどね(^0^)。

2017/01/17

土倉翁、晩年の言葉

今朝は、なぜか暗いうちに目が覚めた。

昨夜、就寝したのはそんなに早くてはないし、なぜこんな時間に……?と布団から出ずにジリジリと過ごし、二度寝を試みる。
 
結局、うとうとしただけで十分に寝つけず起き出したのだが……今思えば、目が覚めたのは午前6時前、阪神淡路大震災の発生時刻に近かったのではないか。
 
関西に住む(ある年代以上の)者として、実は東日本大震災より大きな衝撃を受けたのが22年前の、あの震災だ。昨日の次に今日、今日の次に明日が連続しているという漠然とした戦後観をひっくり返した日だった。
 
 
さて。今朝最初にパソコンを立ち上げて受信したメールには、土倉庄三郎に関して新たに発見された資料が添付されていた。川上村の森と水の源流館から送られてきたものである。
 
それは、昭和43年に川上村高原で92歳だった岩井倉次郎に聞き取りをした記録なのだが、その中に土倉庄三郎に直接会って会話した内容があったというのだ。
会ったのは青年の時というが、庄三郎の晩年というから30代だろう。話の内容から、すでに土倉家が逼塞していたとわかる。それが貴重なのだ。自分の若い頃を振り返ったり、現状を語ったりしている。土倉家が山林の大半を失ってからの庄三郎の生の声を記録した資料はほかにない。(伝聞ばかり。)
 
この資料、『森と近代日本を動かした男 山林王・土倉庄三郎の生涯』(『樹喜王 土倉庄三郎』)を執筆の際に得ていたら、描き方が変わったなあ、と嘆息する。
 
その中でも私が引っかかったのは、「わしは一代で儲けさしてもろたが」という言葉があることだ。そして小さいときは雑炊を食べていたのだと。そこから財を成したと語っている。
 
一般に土倉家は、庄三郎の父・庄右衛門の代に大山林主になったとされている。実際、庄右衛門時代の土倉家も川上郷では名家であり財産家であったはずだ。
 
しかし子供の時は雑炊炊いて食べていたというのだから、かなり厳しい教育を受けたのではないか。決して贅沢はさせてもらえなかったのだろう。使用人と一緒の待遇で山仕事を修業していたのではあるまいか。
そして、それは家督を継いでからも続けていたようだ。官林(おそらく大杉谷)から材を出す際は、自らイモの皮剥いていたという。
 
同時に、庄右衛門の代と庄三郎の代とでは、財産の額が違っていた。庄三郎は、自分一代で巨額の財産を稼いだと認識していたのだ。
 
ただ所有していた山林面積がとくに膨らんだわけではないはずだ。やはり明治に入って、流通網を整備したり吉野材を宣伝することで木材価格を上げ、財を築いたのである。
 
明治時代の林業経済が、わずかな証言から浮き上がる。
 
そして、「あんじょう(財産は)無いようになってしもた」と語ったという。どんなに財産を築いても、時代の波に飲まれたら消えてしまうことを自嘲的に言ったのか。直接的には長男の事業の失敗が原因だが、庄三郎はそれも運命と捉えていたのかもしれない。
 
P7100050
 
土倉翁、最晩年の写真。

2017/01/11

週刊ポストに土倉庄三郎

先に少し触れたが、今週発行している週刊ポスト1月13日/20日号に、土倉庄三郎が登場している。

 
「戦前の大金持ち列伝」の一角に紹介されたのだ。
 
201711320  
 
土倉のほかには、薩摩治郎八、梅屋庄吉、大倉喜八郎、鹿島清兵衛が取り上げられている。
何人知っているだろうか。それぞれ癖のある人物ばかりだ。
 
共通点を探ると、みな晩年もしくは死後に家は没落していることだろうか……。ただ、あまり暗くなく、一本筋を通した潔さを感じる。
だから彼らの紹介にも、なぜか明るさ爽快さをにじみ出しているように思うのだ。
 
私も、土倉翁についてまだまだ調べて発信していきたい。
 
 
さて、もう2点。
 
静岡新聞の1月8日の書評欄に、『森は怪しいワンダーランド』の書評が掲載された。
 
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ただ内容は、これまでも地方紙に載せられたものと同じ。つまり共同通信配信のものだ。
ありがたい。ただ、どうせなら「この本の著者は静岡大学出身で、本の中に登場する探検話の幾つかは静大探検部時代のものなんだよ」と触れてほしかったなあ(~_~;)。その方が読者にも影響あっただろうに。
ぜひ、静岡にお住まいの皆さん、その点を宣伝してくださいませm(._.)m。
 
 
さらに同日の東京新聞・中日新聞の書評欄に、『林業がつくる日本の森林 』(藤森隆郎著 築地書館)が紹介されている。
 
 
その本の最後を見ていただきたい。。。
こんな紹介のされ方もあるんだねえ。何はともあれ、ありがたい。
 
 
◆もう1冊 
 田中淳夫著『森と日本人の1500年』(平凡社新書)。日本の森が人との関わりの中でどう変わってきたかを追う。
 
以上、3連発でした。

2017/01/08

『森と近代日本を動かした男』と『樹喜王 土倉庄三郎』

たまたまAmazonのサイトを開いたところ、拙著『森と近代日本を動かした男 山林王・土倉庄三郎の生涯』が目に止まった。

 
ところが、価格は「7299円から」となっていた。
 
本書は絶版だから、手に入れようとすると古書扱いになるわけだが、出品者の付けた価格がこの値段なのである。3冊出展されていて、ほか7300円と7823円である。実際は、これに送料が上乗せされるので8000円近くになるわけである。
ちょっと仰天のお値段。それだけの価値があると思って喜ぶべきか、それとも。。。
 
 
複製本の『樹喜王 土倉庄三郎』を出しているのに、書店には卸していないからなあ。。。内容はまったく一緒である。誤字を直した程度。価格もずっと安いよ(^o^)。
 
 
 
Photo  Jukiocover1
 
 
それで、『森と近代日本を動かした男』の価格は古書の世界ではどうなっているのか気になって検索してみた。
 
……すると、意外な記事を見つけた。CiNiiの論文として検索に引っかかったのである。。(CiNiiとは、学術情報ナビゲータのこと。論文、図書・雑誌や博士論文などの学術情報で検索できるデータベース・サービス。)
 
見ると、学会誌(多分、林業経済学会誌)に3年前に掲載された書評らしい。
 
Photo_2
 
あらら。知らなかった(^o^)。3ページに渡って掲載されていた。  読みごたえあるよ。
オープンアクセスだから、誰でも読める。
 
 
さすが、と思えるのは、私が記した吉野林業と土倉庄三郎の唱える林業技術を分析しているところで、庄三郎を「決定的に必要なものは標準化 されたマニュアルよりも、個々の状況に即 した解決法 を創造できる総合的な力を持った人材といえるかもしれない」と評している。
 
そして「総合的な力を持った人材とは、昨今期待されるフォレスタ ーそのものだろう」としている点だ。
 
実際、庄三郎は、当時の山林局の林政を机上の「文書的経営」として批判している。林業とは、その時その時に森を見て判断するものであり、ガチガチの施業計画をつくるものではない、と喝破しているのである。その点を「フォレスター的」ということは可能だろう。いや、庄三郎(と当時の吉野林業人)は、フォレスターだったと言って過言ではない。
 
加えて、現代の台湾には次男・土倉龍治郎の手がけた吉野杉の森林が今も残れされていて、台湾の林学者は土倉庄三郎の名を伝えているらしい。
 
 
拙著では、あまり林業論には踏み込まなかったつもりだが、改めて土倉翁を林業技術と林業政策、さらには林政史の面から追求しても面白いかもしれない。
 

 
ちなみに、現在発売中の週刊ポストに「土倉庄三郎」が紹介されている。私もコメントを寄せているので、ぜひ手に取っていただきたい。こちらの内容に関しては、改めて。
 
 

2016/11/28

ウィキペディアの土倉翁

明日の夜、奈良市内の某所で土倉庄三郎の事績に関する講演を依頼された。

 
百回忌後、少々遠ざかっていた土倉翁関係の話だから、張り切って臨みたいと思う。
 
 
だから、というわけではないが、何気なくウィキペディアで土倉庄三郎の項目 を引いてみた。
 
結構、詳しく載っている。参考になる(^^;)\(-_-メ;)。
 
いや、これまでも幾度か見ているのだが、以前はなかったし、登場しても情報量はわずかだった。少しずつ増やされているのを感じる。
それに私も細かな年代を記憶しているわけではないので、今回の講演話の際に、「あの事績は何年のことだったかな」と思った際に、自分の本を手に取るのだか、案外どこに載っているのか迷う。原資料から確認しようとするともっと大変で、全部紙の資料だから検索もできず、七転八倒する。そんな際に整理されて掲載されていると便利だ。
 
 
が、今回読んで驚いたのは、百回忌に関することが記されていたことだ。ちゃんと式典後に書き足したことになる。この筆者は、百回忌と式典に出席していたのだろうか。それとも新聞記事などで補ったのか。。。。
 
結構、筆まめ(~_~;)。執筆したのは誰だろうなあ。私の知っている人かなあ。。。
 

百回忌・記念式典 [編集]

2016年6月19日、川上村に於いて、百回忌法要(龍泉寺)・没後100年記念式典(やまぶきホール)が行われた。式典では、幅広い分野に貢献した庄三郎の遺徳を偲んだ。ジャーナリストで庄三郎研究者である田中淳夫氏の基調講演の後、シンポジウム等を開催。席上、学校法人同志社の大谷実総長は「土倉翁の存在がなかったら、同志社の設立は違ったものになった。同志社にとって忘れがたい恩人」と述べ、又、日本女子大学の佐藤和人理事長・学長は「庄三郎さんは日本発展のため、女性の活躍が重要であることを学生に説いていた」と話し、「共に女子大設立に協力した広岡浅子さんにとって最大の恩人」と強調、それぞれ感謝の意を表した。

 

 

一点だけ、修正。「台湾でも造林事業を行った」とあるが、台湾は次男・龍治郎の事績である。庄三郎もそれなりに援助はしたが、一緒に並べることはできない。

ちなみに、龍治郎の項目 もウョキペディアにはあるんだな。

また、私の「森林ジャーナリストのページ」にリンクが貼られているが、私のHPは移転しております。今のところ移転通知はああるが。

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