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森と林業と田舎の本

2020/10/09

板垣退助の洋行費と、土倉庄三郎

先日の「英雄たちの選択」(NHKBSプレミアム)では、板垣退助と自由民権運動を取り上げていた。

私的には自由民権運動から秩父事件までの流れは、わりと興味のある部分なのだが、問題はなぜ自由党が瓦解し運動も挫折したのか、という点だ。番組では、板垣退助がヨーロッパ視察、いわゆる洋行に出てしまったことを指摘している。この洋行は、政府側が仕掛けて、費用も政府が出していたと言われ、「明治最大の疑獄」扱いとなり、それによって民心が離れるとともに一部が過激化したとされる。

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なぜ板垣は政府の金と知りながら受け取ったのか……と番組では展開する。MCの磯田道史は、「板垣は、自分はまだ政府の一員という意識が抜けられなかったのだろう」と言う。それは違う。

なぜなら洋行費は、土倉庄三郎が出したからだ。政府の金ではなかった。

そもそも運動に飽きた後藤象二郎が、政府にこの陰謀(板垣を洋行に行かせて、運動をつぶす)を働きかけるのだが、そこで政府は三井銀行に2万円出させている。それを蜂須賀子爵を経由して後藤が受け取った。しかし、板垣のところにその金は渡っていないのである。おそらく後藤が着服したとされる。

また板垣も、政敵から金を受け取るわけにはいかないことぐらいわかっている。そこで土倉翁に出資を求めた。

その証拠の5000円と3000円の領収書が見つかっている。残りの1万2000円の領収書は行方不明なのだが、もしかしたら証書なしで寄付したのかもしれない。

面白いのは、庄三郎自身の手による寄付の記録だ。私の発掘( ̄^ ̄)。

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赤字のところに、板垣伯洋行費用として1万円と記されている。あれ、2万円じゃなくて1万円だったの?
しかし、土倉家内では2万円渡したと伝わっている。次男龍治郎の嫁リエが直接聞き正した記録があるのだ。

……ここの詳しいところは謎だ。ただ、上記の寄付目録は、板垣洋行費の出所を語る際に欠かせない発見で論文にしたっておかしくないのだが、いまだに学者の誰も借りたいと言ってこない(笑)。

先の「吉野山の桜」といい、今年は何かと土倉庄三郎の逸話の裏側が浮かび上がりつつあるのだが……庄三郎生誕180年である2020年も暮れていく。

 

 

2020/10/03

土倉庄三郎の「吉野の桜」

吉野の金峰山寺に行ってきた。東大寺の大仏殿に次ぐ大きさの木造建築とされる蔵王堂で有名だ。

かつて金峰山寺と言えば、吉野山全域から大峰山まで広大な面積を寺領として抱えていた。今は、蔵王堂周辺と、大峰山の山頂を含む一部になってしまったが……。ただ、広い境内の各所に桜は植えられていたようである。
さて、そこで聞いた話。

Dsc05922 山伏もマスク姿。

明治初年時、廃仏毀釈で廃寺となった際に、桜を伐って売り払う計画があった。それを押しとどめたのが土倉庄三郎。大阪の商人に売った500円に加えて500円を渡して、これで桜を守れ、受け取った代金は返せ……と言った逸話が伝わる。だから、吉野の桜は実は土倉家のモンだと言うのだが……。

本日、聞いたのはちょっと違っていた。

たしかに庄三郎から500円を受け取ったのだが、すでに村人は桜を伐ってしまっていたというのだ。今で言う中千本、上千本の桜は伐ってしまい、下千本(千本と書いてちもと、と読むらしい)だけしか残っていなかったと。。。。

おい、それじゃ騙したことになる(笑)。先に受け取った500円を大阪の木材商に返したのかどうか怪しい。もっとも、庄三郎はしょっちゅう吉野山に通っていたらしいから、そんなことは百も承知なのかもしれない。今となっては笑い話である。

なお日露戦争後に、今の中千本(中腹)に傷痍軍人らによって植えられ、さらに昭和になって上千本(尾根)にも植えられたというから、意外と現在見ている桜の歴史は浅い。下千本はともかく、吉野全山が桜に埋もれている……という形容が成り立つのは戦後なのかもしれない。ちなみに戦後は奥千本が植えられている。

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蔵王堂。やはり大きい。それにゴツゴツしていて、木材の地を感じる。建設年代は、現在の大仏殿(江戸時代)より前。おそらく豊臣秀吉の寄進らしい。

 

2020/09/02

伊能嘉矩と後藤新平の台湾森林

岩手行の中で見てきたのは、河童に天狗、あるいはおもちゃ美術館だけではない。隠された収穫を。

訪れた遠野市立博物館は、市立のわりに規模も内容も充実しているが、扱うのは遠野物語の怪異や妖怪だけではなかった。

たまたま、これまでの刊行物の一覧を見ていたら「伊能嘉矩」文献が並んでいたのだ。伊能嘉矩(いのう・かのり)は、人類学者でとくに台湾の先住民族の研究で知られているが、実は遠野出身だったのだ。そして、帰国後は遠野の研究にも携わっていて、柳田國男とも懇意な関係だ。

伊能は、1895年の日本の台湾領有直後に渡り、全土を渉猟して多くの少数民族の集落に分け入って調査している。膨大な文献もあるのだ。
私は、台湾に同時期に渡った土倉龍治郎の足跡を調べているが、残念ながら彼自身の行動記録は非常に少ない。何も記録をつけなかったらしい。しかし、全土、それも山岳地帯を隅々まで歩いたとされる。しかしどんな風景を見たのか、どんな人物にあったのか、どんな体験をしたのか、まったくわからないのではつまらない。そこで同じく台湾の僻地に分け入った人の記録から当時の台湾山岳地帯がどんな状況だったのか類推していこうと思っている。そして目をつけたのが、伊能嘉矩森丑之助などである。彼らはほぼ同じ時期に台湾に渡り、山岳地帯に住む先住民族たちに会っている。とくに伊能の記録は詳細に残されているから貴重だ。その伊能嘉矩が遠野出身だったとは。
実際、遠野市は台湾大学と交流して、幾度もセミナーを開いているらしい。

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その一つ、この文献を購入。2017年が生誕150年だったらしい。ちなみに龍治郎は、今年が生誕150年だ。ということは、年齢的には3つしか違わないわけか。この二人、おそらく出会い、交流していたはずなのだが、今のところ証拠は見つかっていない。どこかに資料が眠っているのではないか。伊能は、自宅の離れに「台湾館」を設けて収集した資料を展示していたというが……。

残念ながら遠野市図書館の郷土資料室は、コロナ禍のため閉鎖されていて、伊能文献を確認することができなかったのが残念だ。


ところで岩手から帰宅して、少しリラックスしようとブックオフに入って本を眺めている(これが、私の娯楽 笑)と、「後藤新平 日本の羅針盤となった男」(山岡淳一郎著 草思社刊)を発見。こんな本が出ていたのか。

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後藤新平が、台湾総督府の民政長官として辣腕を奮ったことはよく知られている。実は、彼も岩手出身だった。そして、伊能嘉矩と昵懇だったようである。ちなみに後藤と土倉龍治郎もお互いよく知っている。後藤が龍治郎の事務所に来た記録は残されている。
本の方は、まだちゃんと読んでいないが、パラパラとめくると「笑いと涙の阿里山踏査」という項目があった。後藤が阿里山に登ったとは知らなかった。そしてその一行には伊能嘉矩も含まれているのだ。とにかく10日間ほど山中を踏査したそうである。「笑いと涙」のエピソードはともかく、そこにこんな描写がある。

「ヒノキの巨樹を筆頭に、ざっと見積もって針葉樹7万6000本、広葉樹37万5000本,毎年相当量を伐採しても80年分の需要を充たし、5億円の価値があると見積もられた」。

この本数は、どんな推定をしたのだろう。まあ、いい加減と思うが。そんな巨樹を80年で伐り尽くしたらアカンがな、とは思うが、当時は無尽蔵のイメージがあったのだろう。明治時代の5億円だから、現在の1兆円ぐらいの感覚だろうか。

ちなみに、後藤新平の一行の写真が、上記「伊能嘉矩」文献に載っていた。

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実は、10月に再び台湾へ渡る予定だったのだが、台湾は日本のコロナ禍事情を見て、日本人観光客の解禁を取り消した。おかげで、行けなくなった。せめて、こうした文献を読んで過ごすかなあ。

 

2020/07/20

土倉翁の座右の銘「守不移」は起業の心得か

昨日の続きというわけではないが、川上村大滝の土倉屋敷跡。その前で吉野川が大きく湾曲するが、かつて木材を筏流しした舞台だ。

もっとも地質的には、花崗岩だろうか硬い岩が剥き出しになっていて、そのまま筏を流せばつっかえたり引っくり返る心配があるだろう。そこで岩をコツコツ削って、川の水がすんなり流れるようにした。その部分を割滝と呼ぶ。大滝を二つに割ったという意味だろうか。

実は、3年前に調査を行っている。当ブログでも紹介した。「割滝調査

今回は、梅雨の合間ということで、ちょうど水が二股に割れてよく流れていた。前よりわかりやすいだろう。

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左側が人工に削った水路だ。ここを筏が流されたかと思うと、なかなか恐い。そして新たな説明版も作られていた。

見事な青空をバックにした庄三郎の銅像も、なんかかっこいい。

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この前にも新たな説明版ができ、そこには庄三郎の座右の銘「守不移」の言葉が紹介されている。移らないで守る、という意味だ。庄三郎は、普段より京都や大阪、そして東京にも頻繁に行ったが、拠点は吉野の大滝を動かなかった。自らの拠点は山であり林業であるという立場を崩さなかった。幾度か衆議院議員や奈良県会議員、山林局(現在の林野庁)局長……にならないかと誘われた。仕事面でも大阪の木材相場を張っていたこともあったそうで、拠点を大阪に移した方が有利だったかもしれない。が、みんな断り、動かなかった。

二股に分けた割滝も、結局流れは一緒になるもんね。

さまざまな事業に出資したが、それらが動き出すと自らは手を引いて他人に任せてしまう。自身の役割は起業まで、と心得ていたようだ。そんな経営者は、今のビジネス界にはいるだろうか。

そういや日本資本主義の原点とも賞され、一万円札の肖像になる渋澤栄一は、幾百もの株式会社を立ち上げたとされるが、自分の手元にはほとんど残さなかったなあ。お二人は旧知の間柄である。いろいろな会議などで同席した記録が残る。

ちなみに来年のNHK大河ドラマの主人公は、渋澤栄一だ。このドラマに土倉庄三郎も登場しないかなあ。まあ、「八重の桜」と「朝がきた」のときも同じような期待をしたのだが(笑)。

 

2020/07/19

土倉翁の墓参り

今日は2020年7月19日。土倉翁が19017年7月19日に亡くなったので、命日であり、103回忌ということになる。いや2016年が百回忌で4年経っているのだが、この場合は何年と数えたらよいのだろう。。。没後103年? まあ、墓参りをするということで川上村に馳せ参じた。

そもそも今年は、土倉庄三郎生誕180周年であり、土倉龍治郎生誕150年である。それだけに、何か二人を合わせたイベントを考えていたのだが、コロナ禍で吹っ飛んでしまった。あと半年を切ったが、収まったら地味ながら何かやりたいと思っている。

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菩提寺である龍泉寺で法要。私は始めて阿彌陀経を読んだかもしれない。住職は引退されたので後継者を探しているそうである。浄土宗のお坊さん、いませんか(^^;)。

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墓参り。ちなみに土倉翁の葬式は7月22日だったそうである。この日は私の母の命日だ。何もする予定はないのだが……こちらの法要と墓参りで済ませられないかな……と思ってしまった。

2020/05/06

存在した!土倉庄三郎寄付目録

本当に、とっておき秘蔵写真、というか文献。

こんなものが今頃出てくるなんて……『樹喜王 土倉庄三郎』を書き直したいと思ったほど。また、どこかで土倉家文献の紹介とか最新研究発表とか行えないかと思っていたのだが、これなんか目玉になるんじゃね?

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某所で見つかった、土倉庄三郎が、いつどこに寄付したのかを記した目録だ。細かく寄付した年や金額を記している。しかも庄三郎の直筆の可能性が高い。

庄三郎が各所に膨大な寄付をしたことは知られていたが、これまで明確な証拠なり金額なりはわからなかった。『評伝』など二次文献に記されている以外の裏付けができないケースが多かったのである。一つは庄三郎自身が表に出るのを嫌って匿名の寄付だったり、文書(契約書や領収書)をとらなかったからだろう。

この目録は何のために記したかわからないが、どうも奈良県に自分の実績を示した上申書のたぐいではないかと想像している。つまり、これまでこんなに社会貢献してきたことを記して、何かの採択とか許認可などを受けようとしたのではないか。

明治27年までは記されているから、記したのはその少し後にしたためたように思う。

しかし、内容には新事実がてんこ盛り。吉野川の水路には1万5000円、大滝小学校には300円……から始まり、大阪の立憲政党新聞社に2万円、板垣退助の洋行費内に1万円、私学校芳水館に8000円。なかには川上村貧民施しに300円という項目もある。また新十津川村(現在の町)開拓祝いに1万円。同志社にも500円とあるが、これは大学開校資金とは別口のようだ。ほかにも道づくりや村に山林購入をさせたりと幅広く社会に還元している様子が浮かぶ。

価値は時代によって変わるが、ざっと2万倍にすると現在の貨幣価値に近づくと思う。たとえば1万円は2億円と換算すると、寄付の規模が想像できるだろう。

巷間伝わるものと額が違ったり、始めて知る寄付先も多数ある。残念ながら十分に読めないのだが、資料的には相当な価値があるはずだ。

先に吉野高校の林業博物館から発見された文書を紹介したが、まだまだ眠れる資料は発掘されそうである。これらを合わせると庄三郎のまた別の実像が浮かび上がるのではないか。

 

 

2020/05/04

新島八重と暮らした子供たち

秘蔵写真公開、第2弾。

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これは誰だかわかるだろうか。真ん中の女性が、新島八重。右が土倉龍次郎、左が土倉亀三郎である。明治14年に撮られたらしい。

新島八重、旧姓・山本八重については、そんなに説明はいらないだろうが、幕末・戊辰戦争で会津のジャンヌ・ダルクと囁かれる女性だ。鶴ヶ城籠城戦にも参加して、男装して狙撃兵として活躍、敵陣への夜襲もしたと伝わるが、敗戦後、京都に行ってそこで新島襄と結婚した。その点からすると同志社の母的存在だし、晩年は日清戦争で従軍看護婦の統括を努めたから日本のナイチンゲールとも言われる。
彼女は会津時代と新島との2回結婚しているが、どちらとも子供をもうけていない。では、この写真に移っている子供は?

彼らこそ土倉庄三郎の息子たちだ。次男龍次郎や3男亀三郎である。庄三郎は子供たちを新しい教育を受けさせるために同志社の新島襄に会い、その場で同志社大学成立に大金を寄付して応援を始めた。そのため新島は庄三郎に惚れ込み、息子だけでなく娘たちも受け入れる。
ただ新島自身は早くから病に倒れてしまった。その際に庄三郎へ手紙を書き、自分の死後の八重生活を面倒見てくれるようお願いした。その手段として、マッチ軸となる木を植えてその売上を当ててくれるようお願いした。またその植林費用は、息子娘たちの授業料でバーターする……というものだった。

さて、そんなわけで龍次郎と亀三郎も同志社に預けられたのだが、年頃は龍次郎10歳、亀三郎6歳である。どのような生活を送ったのかはっきりしないが、新島家が預かる形だったらしい。そして八重の世話になっていたらしい。八重は、二人の母親代わりとなるのである。(ただ亀三郎は女教師のところにいたという。なお娘たちも、アメリカ人宣教師に預けられた。)

ただ八重と息子たちはどうした関係だったかわかりにくい。庄三郎と新島襄の関わりはよく語られ文献なども残されているのだが。

この写真はその貴重な一枚。幼子にとっては母代わりだったのだろう。

八重は、襄の死後4人も養子を迎えるが、いずれとも親子の関係は上手くいかなかったようだ。疎遠になったり離縁している。一つは八重の気性の激しさもあるとか言われるが、果たして土倉兄弟とはどんな関係を結んだのか気になるところだ。
龍次郎は、晩年になって八重さんにサーカスへ連れて行ってもらい象を見たという思い出話を同窓会報に記しているが、果たしてジャンヌダルク(^^;)とどんな会話があったのだろうか。

2020/03/29

林業博物館にある肖像画と法隆寺の〇〇

今年1月に少し紹介した、某所で新たな土倉家の文書が見つかった件だが、ようやく再訪して複写することに成功した。プロに頼んで撮ってもらったのでなかなかの手間がかかったが、それだけに価値があると思う。これから解読することに力を注がねばならないが……。

ここで「某所」を明らかにすると、吉野高校にある林業博物館である。

ここには高校とは思えないほどすごい資料が眠っている。たとえば台湾の木材標本だけでも数十種類にもなる。ただ私が注目したのは、土倉家関連の資料である。想像以上に豊富にあったのだが、今回はこんなものを紹介しよう。

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なぜか、土倉庄三郎・寿子夫妻の肖像画があるのだ。どういう経緯で、いつ描かれた肖像画なのか、なぜここにあるのか、すべて謎だが、おそらく誰かが引き取って、それを高校ができたときに寄付したのだろう。

それにしても寿子夫人の顔がわかるのは貴重。写真でもあまり残っていないからだ。賢夫人として伝えられているが、具体的な性格などはわからない。ただ、庄三郎に意見することはあって、それによって庄三郎の構想も変更したりしているから、発言力?はあったのだろう。夫人が亡くなってから土倉家の家族は分解し始める。

もう一つ、注目したいのは、この林業博物館には、法隆寺や正倉院の木材があること。

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読めるだろうか。法隆寺や正倉院が。修理した際に出た端材が寄付された模様。つまり1000年以上前の木材ということになる。
しかし、今なら端材といえども簡単に分けてくれないだろう。世間的には、こちらの方が貴重かな?

2020/03/13

『英雄たちの選択』に金原明善が登場

3・11のBSプレミアムの『英雄たちの選択』では、治水三傑を紹介していた。そこで武田信玄らと並んで紹介されたのが、明治の金原明善。天竜川を鎮めた男である。

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もともと金原家は豪農であり酒造や質屋を営むが、天竜川の氾濫に苦しめられ、明善は資財を投げ打って治水に取り組む。後に堤防建設は国の直轄事業となったので、今度は治山へと向かっ。そして荒れた天竜の山々を植林するのである。これが現在の天竜林業の基礎である。

ま、ここで私としては土倉庄三郎が登場してほしいのだが(^^;)、残念ながら番組ではパス。植林の苦労については触れなかった。実際は、土倉家に番頭を送り込んで植林技術を学んだり、いろいろ試行錯誤しているのだが。

ただ、明善の経営力については触れていた。

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彼は、林業だけに特化せず、木を伐りだした跡の運輸会社や製材所、そして銀行まで設立しているのである。その点が土倉庄三郎と違うところだ。吉野には製材や商品化を担う部門が周辺の地域にあり、自ら手を出す必要がなかったし、出すべきではないとかんがえていたフシがある。実際は銀行設立や鉄道会社設立などに資金を出しているのだが、あくまで支援であり、自ら経営するつもりはなかったようだ。

が、結局はそれが分かれ目となった。息子たちはさまざまな事業に手を出しては失敗するのである。

庄三郎と明善が直接どのようなつきあいをしていたか記録はないのだが、出自も天下国家の考え方も似ている。

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明善の生家に残されている銘ぜんの住所録には、土倉庄三郎の名があった。

 

 

2020/03/04

三島海雲と土倉家の関係を示す写真見つかる

カルピスを世に生み出した三島海雲。彼と、吉野の山林王・土倉家は、深い関わりのあることを幾度も紹介してきた。


カルピスの日に思い出す、二人の「カルピスの父」

ただ、上記に記したのは、土倉庄三郎の次男・龍治郎との関係だが、先に知り合ったのは、五郎と四郎である。とくに五郎とは、三島と二人で日華洋行という貿易会社を立ち上げて商売をしている。土倉家の金で仕入れた雑貨を中国~満州で売って歩いたらしい。さらに内蒙古には軍馬の買いつけに動いている。

このことは三島も語っているのだが、それを示す物証的なものがなかった。

 

それを見つけた。龍治郎の孫に当たる方から提供を受けたのである。それが、この写真。

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写真に書き込みがあるが、前列左が三島海雲。そして右が土倉五郎。後列に四郎がいる。おそらく日華洋行時代に撮影したものと思われるが、一緒に写真に写っているのだから、確実である。ほかにも山田などの書き込みのある人物がいるが、何者かは確認できていない。おそらくビジネス仲間だろう。

明治時代、多くの日本人が大陸に自主的に渡った。そこで何をしたのかは千差万別だろう。仕事もあれば、研究、そして探検的な行動もある。なかには大陸浪人と呼ばれる怪しげなことに手を出した人も多くいた。ある意味、国家権力の空白地帯のような地域になっていた中国~蒙古である。

五郎は、三島との商売を止めた後は、馬賊のようなことをしていた時期もあるらしいが、結局は金を食いつぶしただけで日本にもどる。

四郎は、わりと早く大陸に見切りをつけて日本にもどって横浜正金銀行に勤める。そしてアメリカに派遣されて支店長を務める。ただ比較的早死にしたようだ。

そして三島は、辛亥革命によって財産を全部失って日本にもどるが、再起を図り、内蒙古の経験からヨーグルトや乳酸飲料の開発に挑み、カルピスにつなげた。そして90をすぎるまで社長を勤めている。

同じ場、同じ体験をしても、その後の人生はさまざまだねえ。。。

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