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森と林業と田舎の本

2022/10/01

「土倉」というワイン

驚くべき話。

「土倉」というワインがある! アメリカ・カリフォルニアのナパバレーで醸造された有機栽培のブドウによる赤ワインである。ワイナリーは、MATERRA。

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ちょっとラベルのところを拡大すると……。

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読めるだろうか。漢字で「土倉」と浮き彫りになっている。実は、白ワインには「森閑」、ロゼには「よしの」と命名されている。(日本語シリーズ。)

驚くのは、これだけではない。

ワイナリー「MATERRA」は、キューナット・ファミリーの経営なのだが、実は当主ブライアンの妻は、土倉家の末裔。正確にいうと、土倉庄三郎の長男鶴松の子、安生の娘・美紀である。安生は養子に出て小幡姓になったが、娘がアメリカに渡っていた。アメリカ人は、ルーツ探しが好きだが、妻のルーツをたどって川上村の土倉家に行き着き、その名を残すためにワインに「土倉」と命名したのである。

土倉家の末裔は、各地に広がっていることは感じていたが、とうとう海外に。そこには波瀾万丈の歴史ストーリーを抱えていた。もはやトーマス・マンの長編『ブッデンブローク家の人々』、日本版なら北杜夫の『楡家の人々』なみの大河ドラマである。

実は、川上村で10月29日に催される「ガストロノミー」に出展されるらしい。もう満員御礼だけど。私も所用があるので参加できないが、味わえる人もいるだろう。

ちなみに、私はデザートワイン「AMABIE」をいただいた。

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名前がAMABIE 、あまびえだよ……。ラベルを拡大すると。

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これ、あまびえのイラスト。日本の抗コロナ・キャラクターも世界的になったもんだ。。。(^o^)

ただし、貴腐ワインのように材料費がかかりすぎて、市販できない代物らしい。私は、ちびちびといただいております。

2022/09/10

琵琶湖疏水と土倉家

京都市中の琵琶湖疏水沿いを歩いた。

驚いたのは、そこにある夷川発電所は、今も現役で発電中らしいこと。土木遺産にも選定されている。観光的にも有名な蹴上発電所だけではなかったのだ。常時出力280kWで、有効落差は3.42mだという。カワイイ(笑)ものである。

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写真は、鳩を撮ったのではなく、その背後の銅像目当て(^^;)。

琵琶湖疏水を作り上げた北垣国道、当時の京都府知事の像である。当時、東京遷都によって寂れた京都の町を産業振興で立て直すため、琵琶湖の水を引き込んで発電事業を展開したのだった。

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実は、北垣と聞いて頭に浮かぶのは、土倉家である。とくに庄三郎とはじっこんの間柄。庄三郎を追うと、何かと登場する。長女富子を原六郎と結婚させたのも北垣の紹介だった。

そして、もう一つ琵琶湖疏水とも関係があった。こちらは次男龍次郎になる。龍次郎は、台湾で産業振興のため発電所を計画して、台北電気株式会社を設立。当時としては大規模な落差15m程度のダムを築いて行う水力発電所を計画していた。

その株式は土倉家が出資するはずだったのだが、本家は拒否したらしい。その理由ははっきりしないが、庄三郎が、林業以外の事業はダメと言ったという説もある。しかし、庄三郎自身が多方面に出資していたから理屈に合わない。
むしろ長男鶴松に家督を譲った時期なので、鶴松の判断だろう。彼自身がいくつも新事業を展開していた(全部失敗する)から、余裕がなかったのかもしれない。

そこで龍次郎は琵琶湖疏水の京都電燈株式会社に出資してもらうよう交渉する。その話はまとまり掛けていたようだが、台湾総督府の後藤新平民政長官が、電力事業は民間ではなく公がすべしと判断して、事業を全部買い取っている。かくして龍次郎の計画は頓挫した。

そんなわけで、琵琶湖疏水と土倉家はニアミスしているというか、まんざら関係ないわけではないのである。

そんな因縁をつらつら考えつつ、鴨川まで歩いたのであった。

2022/07/19

「他人の山でも蔓を切る」?

実は、土倉庄三郎の本の改訂版を出そうとしている。『森と近代日本を動かした男 山林王・土倉庄三郎の生涯』(洋泉社)を出版して10年、書き上げたときは、もうこれで書き尽くしてオワリのつもりだったのだが、その後次々と新しい事実やエピソードが浮かび上がってきた。それらを追いかけると、また違った庄三郎翁像が見えてくる。本は絶版になって手に入らないことから福製本として『樹喜王 土倉庄三郎』(芳水塾刊)を出版したのが、2016年。百回忌の年である。だが、こちらもそろそろ品切れ。

そこで、全面的に書き改めて新たな本にしようという目論見なのだが……。

庄三郎は「木を育てるのにどんな肥料を与えたらよいですか」という質問に対して、「これだ」と見せたのが腰の鎌だったとか。山に通い、苗の周りの草を刈ることで木の成長を促す。刈った草を苗の根元に置くことで肥料となる、と説明した。さらに「山で木に蔓が巻きついていたら、それが自分の山でなくても伐ってやる。それで、その木が大きく育ち国を富ませることを思えば、なんと楽しいことか」と言ったとかなんとか。

 

さて、先日の吉野の山の余祿。葉枯らし乾燥している現場のすぐ側にあったスギの木。

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なぜか、この木だけ蔓が伸びてしまったのだが……。なんだか見事な装飾ぽい。しかし、蔓が巻きついたら育ちが悪くなるだろうか。いや、もしここまで大きく育ったスギには関係ないかなあ……。が、そこで土倉庄三郎の言葉を思い出したのである。

他人の山でも蔓を切ってやるべきか。

ええと。これから車までもどって、積んである鎌を取り出して、また山を下って蔓を切ることは国を富ませるよいことでしょうか。

へたれの私は、結局放置したのであった。。

皆さんはどうする?

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2022/05/10

カーネーションは国産?海外産?

5月8日が母の日だったようだ。まあ、我が家は母はとうに亡くなり関係ないのであるが、それでもカーネーションを活けてある。ホームセンターなどにカーネーションがあふれているので、つい家にも飾ったのである。

そもそも、私はカーネーションというと母の日ではなく、土倉龍次郎を思い出すのであるが……(^^;)。

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カーネーションの温室栽培。日本で最初に成功させたのが土倉龍次郎だ。温室栽培も新しいが、カーネーションを日本に広めた点でも先駆の人である。

今年はカーネーションが高値だそうだ。史上最高値だという声もある。単に母の日だから需要が増えただけではなく、その理由はウクライナ危機らしい。正確にいうとロシア制裁のため飛行便が飛ばせにくくなり、燃料費も高騰。世界中の貿易が足止めを食っている。だから日本にも花が入ってこない……そう、今ではカーネーションの過半は、海外なのだ。

2021年シェアは、43%がコロンビア産。中国12%、エクアドルが5%。国産は37%なのである。国産の場合は、産地によって開花ピークが大きく違うので、産地がすべて母の日に最大量を出荷しているわけでもない。カーネーションは冷涼な環境を好むので、そもそも日本の気候向きではなかった。

そのほか市場に出回る花の多くが輸入品。花のような生鮮品まで輸入が増えているのは、国産が安定供給・安定品質にできないから。それができないのは雇用が不安定だから。季節性が強く低収入。それに需要も母の日以外は乱高下する。量と品質を安定させるには冷蔵などの技術はあって確立しているのだが、国内花農家には、それを採用する資金力と経営基盤がない。

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一方で日本は花卉の輸出も力を入れているのだが、なかなか伸びない。

このように書いていて、なんだか国産木材か外材かなんて言っている世界と似ていると気づいたのであった(⌒ー⌒)。

 

2022/05/05

新島八重の子ども? 

私が先月末に東京に行ったのは、書店巡りや街歩きのためではない。それなりに仕事もしたのだ。

そんな関係で帰って来てからも若干の資料整理やら確認事項がある。その時にストックから見つけ出した写真。「こどもの日」にぴったりかも。

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明治の10~14年頃に取られたものだ。写っているのは誰かわかるだろうか。

真ん中の婦人は、新島八重。そう、同志社を創設した新島襄の妻にして、戊辰の会津戦争では狙撃手として戦った八重である。大河ドラマ『八重の桜』の主人公でもある。そして右側が土倉龍次郎。左が亀三郎。土倉庄三郎の次男と三男だ。年齢は11歳と6歳と記されているのだが、これは数えかもしれない。また二人の子どもの生年月日がちょっと怪しい(資料によって違う)ので、余計にわかりにくい。

ようするに土倉家の幼子は、この時期に同志社英学校に預けられた。一応は入学という形をとっているが、この年で英語の勉強をしたというよりは、養育されていたというべきだろう。世話を見たのは、同志社女学校の生徒ということだが、亀三郎は宣教師の女性パミリーに引き取られたという。パミリーはアメリカへの手紙に写真を添えて「My little  boy」と裏書きしたという。そして、たまに校長の家に遊びに行って八重に可愛がってもらったようだ。

庄三郎は、息子も娘も幼いうちに大阪や京都の学校に寄宿させている。当時はわりと大胆だったのだなあ,と驚く。この年に外に出してしまうというのは、現代から見るとちょっと早すぎるように思うが、実家だとボッチャン・オジョウサン扱いされてしまうからかもしれない。

そして龍次郎は、その後同志社を卒業?する20歳ぐらいまで京都で暮らしたよう。そして大滝に帰ると、南洋を夢見て、台湾へ雄飛する。
亀三郎は、卒業を待たずに伊勢の瀧野家に養子に行った。それが何歳なのかわからないのだが。そこで名前は「三郎」に改名した模様。当時は、養子とともにわりと簡単に改名したようだ。ただし正式な養子になったのはずっと後のようだが……この当たりも謎が多い。なお瀧野家も大山主の家系だ。かつては瀧野村をつくるほどであった。この瀧野家を逼塞させたのも三郎なのだが(^^;)。

そんなこんなで、こどもの日に幼子の写真を見つつ行く末を想像するのも悪くはあるまい。

 

 

 

2022/04/23

津田梅子と土倉政子の接点

朝日新聞の別刷「be」の中に「はじまりを歩く」という見開きの巨大連載記事がある。ここに土倉庄三郎が登場していた。

実はこのコーナー、以前「割り箸」の「はじまり」を紹介する中で、拙著『割り箸はもったいない?』に少しだけ触れていたことがある。そのことは本ブログでも紹介したが、私的には第2弾?

今回は、女子高等教育の始まりの物語を取り上げていて、その中心は津田梅子と津田塾大学。そして後半が日本女子大学だ。

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その日本女子大の創設に関しては、当然成瀬仁蔵を紹介しているのだが、そこに広岡浅子が登場する。が、それに付随して庄三郎の名が。

読めるように拡大したものを添付する。

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ちゃんと成瀬に広岡を紹介したのが庄三郎と書いているのは喜ばしい。朝ドラ「朝が来た!」でさんざん広岡浅子が登場した際に、全然土倉に触れていないのはケシカランと私は随分アチコチに書きまくったものだが、ようやく触れるようになったか。広岡の功績をおとしめるものではないが、同じように支援をした土倉庄三郎を無視してはイカンだろう。そもそも女子教育に対する思い入れは、娘を梅花女学校、同志社女学校に入れた時期から強いのだから、浅子より早いほどだ。

そして、もう一つ重要な点として、津田梅子との接点がある。

津田梅子は日本で女子教育を行うために1889年にアメリカのプリンマー大学に二度目の留学をしている。なんと大学と交渉して授業料と寮費の免除を勝ち取っている。そこで出会ったのが土倉政子なのだ。政子は1890年に渡米した。私費留学生である。当然、庄三郎の援助があってだが……年間7000円とか、今なら1億円近いのではないかという仕送りを受けていたらしい。

残念ながら政子と梅子はどんな関係であったのかは記録が見つからない。梅子の留学は1年間だけなので滞米期間はすれ違い気味だが、わずかな日本人女子なのだから、会ってないわけはないのだ。政子はそれから7年間滞在し、97年に帰国する。梅子は帰国後学校づくりに奔走し1900年に女子英学塾を開くが、その準備期間が政子の帰国と日本女子大の設立運動と重なっている。政子が梅子の活動を知らぬわけではないだろう。ちなみに日本女子大学校が創設されるのは1901年だ。もっとも政子は99年に外交官の内田康哉と結婚しているのだが……。

津田梅子の伝記や研究書に目を通して二人の接点を探してみようと思っているが、誰か知りませんか。あるいは代わりに読んでくれ(^^;)。私は読む本が溜まっていて悲鳴を上げているです。。。

2022/01/27

毎日新聞奈良県版に書評!

毎日新聞の奈良県版に『虚構の森』出版に関するインタビューが掲載された(感謝)。写真の髪が乱れているのはご愛嬌(^^;)。

実は取材は昨年末にあった。まだオミクロン株の蔓延が進んでいなかったので、多少のんびりした雰囲気の中だった。掲載されるまでは難産だったが(^^;)、またもやコロナ禍に振り回されようとしている。せっかくだから、オミクロン株の蔓延に合わせて本書を売れてくれないか。

同じ紙面に、「書籍売上高15年ぶり増」というベタ記事があった。出版界は、巣籠もり需要に対応したようである。本が売れたのだ。巣籠もりに一冊、「虚構の森」とか(笑)。

実は、今年に入って奈良県では書店の閉店が相次いでいる。せっかく奈良県版に掲載されたのに、いよいよ拙著を手にとっていただく機会は少なくなってしまうなあ。

記事には「学生の間に森林に関する誤解が多いことに驚いた」とあるが、実際はシメシメと思っていたのであった(笑)。私が驚くより学生に驚いてほしい。それが学問の第一歩だから。ついでに、講師がこの本を授業用にオススメしてくれないかなぁと思っている(⌒ー⌒)。

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ここで毎日新聞について少々。

まず私は、奈良県版に「大和森林物語」を何年も連載しているのである(^_^) 。そのための取材で歩き回った奈良県内の森もいくつか登場している。ここで取り上げたことは、その後Yahoo!ニュースやブログでも触れることが多く、そのネタ元取材として貴重なのだ。地方版だから、ネットでも記事はあまり目にしづらいだろうから、気がつかないだろうけど。ここで拡散してほしい(-人-)。

そして重要なのは、毎日新聞は、奈良県内でもっとも講読数の多い新聞であること。しかも地方版が3ページもある。事実上、県紙扱いだ。なぜ毎日新聞が奈良県で強いのかは謎だが、一つヒントになる点がある。毎日新聞のルーツの一つは、土倉庄三郎が創刊に関わった「日本立憲政党新聞」であることだ。

自由民権運動に肩入れした庄三郎は、板垣退助や中島信行らと深い親交があった。板垣の愛国社の幹部となり、経理担当だった。そして自由党の別動隊となる大坂に立憲政党が組織されたが、ここでも庄三郎は深く関わり、その機関紙たる日本立憲政党新聞の資本の大部分を負担したのである。

この新聞は、政府批判を繰り返し、発行禁止処分を幾度も受けた。その度対抗して紙名を変えたり、別の新聞との合併などして、命脈を保ち続ける。そして、それが現在の毎日新聞となるのだ。だから発行番号の1番は、日本立憲政党新聞の号数だ。

……とまあ、拙著からは脱線したが、大袈裟に言えば、毎日新聞は庄三郎の遺産なのかもしれない。

2022/01/15

「土倉家の先祖は山賊」?

久しぶりに土倉家ネタ。というか、庄三郎ネタ。

これは偶然発見したのだが、『明治富豪譚』という本が出版されていた。菊地幽芳という人物の編集で、発刊は大正時代らしい。内容はというと、明治時代の富豪と言われる政財界の人物の言動を集めたもの……らしい。そこに土倉庄三郎も載っている。

読んでみたいな、どこの図書館にあるかな、と思って検索したら、なんと国会図書館がヒットして、デジタルライブラリーに入っているのだ。つまりすぐ、無料で、読める。その中に、こんなエピソードが収録されていた。

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ようするに金持ち連中が料亭に集まって酒を酌み交わしていたが、いつしか自分の先祖自慢が始まり、いかに自分が位の高かった人物の末裔かと語りだしたのだが、そこで庄三郎がのたまわったのは、「うちの先祖を遡れば山賊だよ」とぶっちゃけて一堂を驚かせたというのである。

庄三郎の反骨精神ここにあり、である。もともと土倉(土蔵)家の祖は楠木正成の子孫だ、楠木正成の三男、正儀の子が吉野に入って居つき土蔵を名乗りだしたとか、源氏の橘姓から来ている……とか言って、専門家に家系の研究を頼んだという逸話も残っているのだが、あえてここでは山賊だと言ってしまうのは、先祖自慢に反発したからだろう。あるいは楠木なんて山賊と同じだと思っていたか(笑)。

家系に誇りを持つのはよいが、自慢するのはみっともないという感覚があったのだろう。

探せば、まだまだ土倉庄三郎の文献は出てきそうである。

 

2021/12/12

宇野峠の土倉庄三郎顕彰碑

ふと思いついて、奈良県五条市の宇野峠に出かけた。

土倉庄三郎は、奈良の五条から吉野までの東熊野街道の建設にも関わっている。奈良盆地の縁、吉野川沿いルートかと思いきや、山越えルートもあって、巨岩を打ち割って切り開いたとかで莫大な金がかかったそうだ。その顕彰碑が、宇野峠に建てられているのだ。

私は以前土倉庄三郎を取材していたときに、可能な限り庄三郎が関わった場所を訪ねたが、なぜか、この宇野峠だけが抜け落ちていた。正直、碑自体はさほど大きくも詳しいものではなくて、それを見なくても記事は書けるし、その気になればいつでも行ける……という気分があったのかもしれない。

が、昨夜の深夜なぜか思い出して、場所を調べると、すぐにわかった。片道1時間ちょっとだ。ならば行くべ。

というわけで飛び出したのである。宇野峠には渋滞は別としてあっさり着いた。が、碑の場所が意外や難航。標識が小さなこともあるが、車から探していると、なかなか目に止まらない。多少、峠を行き来してようやく発見。

が、これが,また……。

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これはわからんやろ。標識の小ささに加えて、草ぼうぼうで見えない。しかも擁壁の向こう側。新たな自動車道が建設された際に、道筋から外れて、碑が追いやられたのか。

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それでも碑をみようとしたのだが、この有様。幸い冬なので枯れているが、相当丈の高い草が繁っている。高さ3メートルはあるか。

そこで一念発起。顕彰碑を見る前に、草刈りと掃除だ。と車の荷台に積んである鎌などを取り出して草刈りをする。さらに埋もれていた碑の裾部分を掘る。徐々に土が流れ込んで埋もれてしまうとは想定外だった。

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なんとか、ここまで回復。スコップがあれば周辺も均して、水があったら碑を磨くのに。それでも、ちゃんと碑文が読めるようになった。漢文だから、完全に文意をつかめなかったけど。ふいに100年以上前に心がもどる。(街道が完成したのは明治20年。)

何やら年末に良いことした、という気分になれる(^o^)。よい新年を迎えられそうだ。

せっかくの記念碑・顕彰碑も、メンテナンスをしないと忘れられてしまうなあ。そういや川上村大滝の「土倉翁造林頌徳記念」の巨大磨崖碑も、最近掃除をし直したそうだ。まだ終わってからの状態見ていないが、メンテも大切だよ。

 

2021/11/25

黒羽にあったもう一つの林業

栃木に行った際、以前よりネットで交流のあった興野喜宣さんにあった。彼は、江戸末期の興野隆雄(1790~1862)の末裔である。

と言っても、興野隆雄を知っている人はそんなに多くないだろう。彼は栃木北部の黒羽藩の重臣であり林政家だ。黒羽に優秀な林業を展開したのである。そして技術書とも言える「太山の左知」という文書を残している。太山(とやま)とは、太った山、つまり豊かな森林資源のある山、左知とは幸、つまり恵のことなのだろう。隆雄は父の代より林業を研究しており、それをまとめたものである。林業遺産第1号に指定されている。

Img001_20211125222201博物館の企画展のパンフレット

私が興味を持ったのは、隆雄は林業の先進地として吉野を訪れており、そこで吉野林業を学んだという点。にもかかわらず黒羽で展開したのは、吉野林業と対極にある技術なのだ。

特徴的なのは、樹下植栽を推進したこと。日除けがある方が根付きがよいからだという。

次に植栽の樹間は2間、つまり4メートルと広く取ったことだ。ようするに疎植である。吉野は、ざっと1メートル間隔で1ヘクタールなら約1万本植えたが、4メートル間隔なら625本にすぎない。広い間隔で肥大成長を早めて大径木材を取るため、とする。

ほかにも枝打ちを否定する。枝を切ると、抜け節になりやすいからだという。

面白いのは、文中に「吉野では~」という記載がいくつもあり、違いを記していることだ。吉野に学んだのに下野の環境条件ではこうすべきという確固たる意思を感じる。

まさに、過去の日本には多種多様な林業があったことを知る。現在は全国画一的な山になってしまったが、それこそ林業を低迷させている諸悪の根源だろう。

そこで、この黒羽林業の名残を見られるところはないかと案内してもらったのだが、残念ながら当時植えた木々が残っているところはないようだ。明治になって黒羽藩がなくなったことでこの林業方式が廃れたことと、あまり長伐期ではないため全部伐ってしまったようである。今や幻の林業となってしまった。

それでも案内してもらったのは、帝国造林の山。

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これは100年生のスギ。「太山の左知」方式ではなく、密植-間伐の繰り返しで育てたスギ林だ。

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こちらはその山に隣接したところで、中国木材が皆伐した山。残念ながら霧で見えない。同行者が、切り株にツルがないのに驚いたが、これはハーベスタで伐ったのだろうね。

もう一点、気になること。隆雄が吉野に視察に行った年代ははっきりしないが、1820~40年頃だろう。この時代に吉野林業を視察したとしたら、大滝村を訪れるのが普通だ。すると、土倉庄三郎の父の庄右衛門と会ったのではないかと推測してしまう。もしかしたら幼い庄三郎にも会っていたかもしれない。庄右衛門は熱心に吉野林業の要諦を伝えたに違いない。それをよくよく学んで、吉野とはまったく違う技法を考え出したというのは……そんな想像をしてみるのも楽しい。

 

 

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