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本の紹介

土倉庄三郎

2018/05/28

目黒の龍次郎

目黒で私が訪れたのは林試の森公園だけではない。

 
なぜ、私が目白界隈を歩いたのか。その理由は、土倉龍次郎にある。
 
土倉庄三郎の次男・龍次郎は、台湾で事業を興していた。そして樟脳生産、林業、水力発電などの先駆者として大きく羽ばたいていた。とくに1万ヘクタールの山林を租借して行った林業は、いわば台湾の山林王と言うべきものである。
だが、本家の経済危機で全財産を処分して日本に帰る。それから拠点を置いたのが目黒だったのだ。
 
だから、今回目黒に宿泊すると決まってから、ちょっとその足跡を歩いてみたわけ。
 
具体的には、まず最初の家は、目黒駅の近くだったそうだ。そこで温室をつくってバラやカーネーション、メロンなどの栽培を始める。やがてカーネーションに絞ってカーネーションの生産と育種に取り組んだ。
だが、目黒駅に操車場をつくる計画に敷地が当てはまって立ち退くことになる。
 
1
 
現在の目黒駅。まったく面影はない(^o^)。
 
そこで次に拠点を構えたのが、林業試験場の隣だったそうだ。3300坪の敷地に11棟のアメリカ式温室を建てて、カーネーション栽培を展開した。当時のその界隈は、田畑と農家の屋敷林が点在する土地だったそうだ。
 
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これはイメージ。アメリカ式温室なら300坪はある巨大なもの。こんな規模だろうか。
 
園内には小川も流れていたとか。もっとも、私が歩くと、林試の森の周辺はマンションなどが立ち並んだ住宅街になっていた。わずかに目黒不動尊だけに緑がある。だが、肝心の林業試験場はどうだったのか。
 
ときに明治40年。林業試験場が作られて日も浅いが、おそらく度々顔を出したのではないかなあ、と想像する。
試験場では、さまざまな樹種を植えてより木材生産に適した樹種を研究していた模様だが、なかには熱帯木もある。台湾に暮らした龍次郎には懐かしかったのではないか。
 
……そんな思いを持ちながら園内を歩くと、こんな木があった。
 
2
 
コウヨウザンだ。台湾に多い中国杉とか福州杉、広葉杉などと呼ぶ樹種である。昨今は早生樹種としても関心を集めているが、龍次郎もこの木には注目していたようだ。川上村にも植えられているのは、以前紹介した。
もしかして、龍次郎が推薦したということだって……。
 
現在生えているのは細くて、年数はそんなに経ってないと思われるが、コウヨウザンと龍次郎にはわりと深い関係があるのである。
 
そんな思いを持って、公園内を歩いていたのさ。
 

2018/03/18

山川省の可能性

先日、荒井奈良県知事とお会いする機会があったのだが、そこで話した中でもっとも衝撃的だったこと。

 
それは今年1月に亡くなった野中広務・元衆議院議員の話だった。
前世紀の話になるが、省庁の統廃合を取り仕切る中で、「林野庁に、建設省の河川局をくっつける案」があったのだという。まさに山と川の行政を一体化し、防災や山村政策の一元化を狙ったのである。
そして、単なる案に留まらず、結構なレベルまで進んでいた。しかし、最後の最後で建設省の反対で稔らなかった、河川局が林野庁と一緒になりたくない! とごねたのである……。
 
結果的に建設省と運輸省、国土庁などが合併して国土交通省という巨大省庁が誕生したわけだが……もし、河川局が切り離せていたら、もう少し省庁バランスはよくなったかもしれない。同時に、河川と森林・林業行政が変わったかもしれない。
 
野中氏は、「あれは残念だった」と幾度も繰り返したのだそうだ。
 
それを聞いて、つい私は割り込んでしまった。
 
「それこそ、土倉庄三郎の唱えた山川省の設立ですよ!」
 
土倉翁は、明治32年に『林政意見』を出版している。当時の山林局の政策を批判しつつ、新たな提言をしているのだ。その中に、「山川省の設立」が含まれるのである。
 
Photo_2
 
 
その部分を抜き出すと、
 
2    全体を読みたければ 3
 
少しだけ読みくだせば
 
「土木山林の両政務を合して山川省を新設」
「当務者を終身官となし確実の設計に基づき不動の方針に拠り遂行する」
 
どうだ。単なる行政の統合だけでなく、山や川を預かる者は、終身動かない、つまりコロコロ変わっては計画が練れないと喝破しているのである。まさに現在の猫の目林政、目の先林政にも当てはまるではないか。
 
 
ちなみに、この件については、私は5年前にYahoo!ニュースに書いていた。
 
 
 
ま、いまさら省庁の統合を言っても始まらないし期待もしていないが、土倉翁の提案は100年ぐらい経って、実を結びかけた瞬間があったのだなあ……と感慨に耽ったのであった。
 

2018/02/03

『桜の樹木学』のコラムに……

ふと手に取った書籍『桜の樹木学』(近田文弘著・技術評論社)。

 
1  
 
オールカラーのなかなか贅沢な本なのだが、内容はサクラという木に関するかなり詳しい専門書であった。著者は、国立科学博物館の名誉研究員とのこと。この本をパラパラめくって発見してしまった。
 
後半にあったコラムである。
 
2
 
吉野山のサクラを救った土倉庄三郎」というタイトルで、吉野山のサクラを土倉翁が買い取って守ったこと、奈良公園の春日山の植栽に取り組んだことを紹介している。
さらに本多清六のことや、大滝の磨崖碑まで写真入りで説明している。
 
ネタ本は、やはり拙著『森と近代日本を動かした男 山林王・土倉庄三郎の生涯』である。
 
こんなところに活かされるとは、望外の喜びである。
(ただ、春日山原始林を全部植えたように記されているのは、ちょっと勇み足。正確には春日山の半分で、春日大社側の山は原始林である。)
 
思わず購入してしまいました(^o^)。
 
私も、この本でサクラについて勉強しよう。めざせ、サクラ・ジャーナリストである。

2018/01/15

『“道”を拓いた偉人伝』に土倉庄三郎

なんと、ブックオフで“道”を拓いた偉人伝』(イカロス出版 永冨 謙著)を発見。

サブタイトルが、「道をつくり、道を愛した5人の軌跡」とある。この5人のうちのトップバッターが、土倉庄三郎である。
 
Img001
 
この本の存在は知っていたが、これまで手にすることはなかった。
 
実は、著者の永冨氏は「日本の廃道」というサイトを主宰して、電子本を発売しており、私もそうち土倉街道の掲載されている号は所持している。
 
ちなみに、今回の本に載っているのは、電子本(PDF版)とは、少し違うようだ。
それにしてもよく調べて、実際に歩いた記録でもあるのだからスゴイ。
 
 
私も土倉庄三郎を調べている際には、全体に土倉道と呼ばれる各所に建設した道についてそれなりに調べたし、歩けるところは歩いた。が、あまりに道ばかりに時間と労力を割くわけにはいかず、終わらせている。
 
それでも、著書『森と近代日本を動かした男 山林王・土倉庄三郎の生涯』(『樹喜王 土倉庄三郎』)を出版後も気になっていて、幾度も川上村に土倉道の調査を行わないかと打診していたのだが……。
 
なにしろ、そのルート探索と距離を考えると、単独で行うのは厳しく限界もあるからだそれだけで何年も費やすと、庄三郎全体を追えなくなる。ほかにも調べるべきことが山積みだったから。加えて、ちゃんと報告書をまとめて役立つようにするためには組織的な取り組みが必要だと感じているからである。
 
残念ながら、未だに「土倉道全調査」は実現していないのだが……。
 
 
本書は、さすが廃道の専門家?、よく消えかかっている道筋を調べて実際に歩いている。
また文献調査も相当行ったようだ。
 
奈良県行政文書から五社峠の開削関係の資料まで見つけている。そして庄三郎が計画した五社トンネルについても多くの事実を発掘している。(ただし、トンネルを断念したから峠道をつくったというのは間違いだろう。先に峠道を開き、トンネル計画は還暦時である。)
 
また大杉谷開発の歴史もよく調べている。土倉翁は原生林を切り開いて自然破壊をしていた(笑)。
 
 
ちなみに本書の発行は、2011年11月25日。『森と近代日本を動かした男』は2012年11月7日。拙著の1年前である。だから底本は土倉祥子著の『評伝 土倉庄三郎』のようで、全幅の信頼をおいた、とあるが、私の裏取りでは『評伝』には推測による部分が多くて、怪しい部分もあった。丸ごと信用するのはどうかと思う。
 
ともあれ、土倉道に加えて吉野の山を縦横に延びる木馬道などをしっかり調査したら、熊野古道に並ぶ山間の大街道を描き出せる。再び世に出せば、村おこしにもなると思うのだが。
 

2017/07/21

割滝調査

川上村の「割滝」調査を行った。

 
と言ってもわかりにくいだろう。割滝とは、村内大滝集落前の吉野川の流路を掘削して筏を流せるようにした人工的な水路を指す。
 
Photo
 
これは、Googleマップ。吉野川は右下から左上へと流れているが、白い波がたっている水路の上の岸辺沿いにまっすぐな水路が見えるだろう。これが割滝だ。現在は、通常水は流れていない。ダムが放水するなど水位が上がった時には流れる。
 
この開削を主導したのは、土倉家、とくに土倉庄三郎である。
 
江戸時代から吉野川に丸太を流して木材の搬出をしていたが、一本ずつ流す(管流し)ではなく筏に組んで流せるように、徐々に下流から上流へと河川改修を進めていた。これによって輸送力が大きく変わる。とくに大滝より上流から筏で流せるかどうかは大きなポイントだった。
 
土倉庄三郎は、明治5年に川上郷水陸海路会所を設立している。水路整備、つまり川の浚渫や開削を行う会社である。そして川上郷のより上流まで川幅を拡げる工事を行った。
 
割滝も、その際により広く開削したのだろう。当時はダイナマイトもなく、ノミで削るほか、岩の上で長時間焚き火をして岩を割ったと伝わる。
 
 
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戦前の絵はがきより。なかなか勇壮な筏下りシーンである。
 
 
これまで存在自体はよく知られていたが、対岸ゆえにわざわざ調べた人はいなかったらしい。それを調査したのである。おそらく筏流しが消えて数十年、眼前に見た人も少ないに違いない。また大滝ダムができてからは水質も悪くなって、川で泳ぐ人もいなくなった。
 
間近に見ると、こんな感じ。これは下流側。これだけUの字型に掘削している。
 
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計測調査中。
 
結果として、長さ約88メートル。幅は3~5メートル1深さは1~1・8メートルだった。これも、いつか精密な測量をすべきだね。
 
002  概念図。ちゃんとした測量図ではありません。
 
ただ調査では、削岩機で穴を開けた跡があり、おそらく昭和に入ってからも拡張を行ったのではないかと思われる。どこまで庄三郎の手のつけた部分なのか区別できなかった。文献調査なども加えて、いつの時代にどんな工事を行ったのか調べるべきだろう。
ちゃんと調べたら、森林学会、土木学会等に発表できるんじゃないか?
 
 
今回は、その触りということで。

2017/07/18

1917年7月19日

今日は、2017年7月18日。つまり土倉庄三郎の忌日(1917年7月19日)より100年を迎えようとしている。

 
没後100年その日を前に、100年前の庄三郎の様子を描いてみよう。
 
 
もともと庄三郎は壮年時の飲酒のため胃腸を悪くしていて、終生悩まされていたらしい。それでも晩年は酒を絶って体調を維持していた。日々の食事の中には、牛乳と鶏卵が入っているところは、一般人とは違うところだろう。
 
大正5年(1916年)からは、旅に出ず、山の案内も自分ではしなくなり、老いが深まったらしい。
 
翌大正6年7月2日に、軽微な腹痛と身体のだるさと訴え、主治医の川本恂蔵を呼ぶ。川本は三女・糸の配偶者で同志社病院の副院長だったという。
 
徐々に回復して、6日7日に回復の兆しがあった。しかし、再び容体は悪化する。
 
13日に、四女・小糸の配偶者・佐伯理一郎(同志社病院院長等)も往診。面会謝絶となる。親族にも内報して急ぎ集めた。
京都医科大の島薗博士の診察も受ける。 
 
この頃か、もう回復は難しいと自覚するや、むしろ心は落ち着き安泰となり、静かに念仏を唱えた。時に枕元の人々に、宗教の大切さを説き、子供孫らに「極楽への旅立ちはむしろ歓喜すべきなり」と逆に諫めたという。
 
19日、正午に松浦博士の来診。注射によってわずかに意識をつなぐ状態となる。
午後4時50分、息子娘・孫ら近親者に見守られ逝く。
 
病名は、髄性肝臓ガン。末期の苦しみもなく穏やかに息を引き取ったそうである。
 
 
五男・五郎の句が残されている。
 
雲の峰父は佛となり給まふ
 
葬式と葬列
 
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2017/07/12

土倉庄三郎の誕生日

暑い。暑い日は、水遊びに限る。

 
というわけで、川上村大滝の土倉家跡の前の吉野川で水に親しんだ(^o^)。
 
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大の大人、5人が水遊び(笑)。……にしても、ダムからの放流水は緑色に濁っていて、あんまり水に浸かりたくない心境なのであった。
 
水に濡れながら何をやったかはまたの機会とする。
 
 
それと何の関係もないが、先日気がついたこと。
土倉庄三郎の誕生日は、4月10日である。私は、それに関して深く考えなかったのだが、この月日は旧暦であった。
明治になって新暦に切り替えられるから現在の月日と狂ってくる。拙著では、登場する月日は新暦、土倉翁の年齢などもすべて満年齢で示しているが、誕生日だけは見落としていた。
 
で、旧暦天保11年4月10日は、現在の1840年5月11日である。
 
だからナンなんだ、と言われたら何もない(~_~;)が、せっかくだから誕生日占いを。
 
5月11日生まれの人の性格は?と、星占いサイトを検索してみた。
 
・慌てず騒がずの精神で、ゆったりとしています。
・即決即断はせず、じっくり考えて策を巡らせる。
・徐々にやる気になっていくタイプ
・やると決めたことは時間がかかってもやり抜くタイプ。
・空想をして楽しむ。
 
全然、土倉翁を連想しないなあ(;´д`)。
やっぱ、関係ないでしょ。

2017/05/28

「28年度森林・林業白書」のコラム

平成28年度森林・林業白書 が公表された。

 
さて、見どころはどこかな……とアラサガシ もとい、読みどころを探ってみたのだが……さほと新奇な話題は見つからない。
 
が、こんなコラムがありました。
 
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第Ⅲ章 林業と山村 108ページである。ちょっと抜き書きすると。
 
 土倉庄三郎は、吉野林業の「中興の祖」と呼ばれており、吉野林業で古くから行われてきた苗木の密植と丁寧 な育成により多くの優れた木材を生産できる方法をまとめ「土倉式造林法」として、その技術を全国へ広めたと されている。さらに、道路整備や吉野川改修の推進、教育等の社会貢献にも意欲的で、林業以外の分野でも功績 を残した。
 平成28(2016)年6月には、土倉庄三郎の没後100年を記念して、奈良県吉野郡川上村で記念式典が行われ、 多くの関係者が出席した
 また、吉野林業は、平成28(2016)年に日本遺産に認定さ れており、その歴史的魅力や特色を広く発信することで、地域 の活性化等に資することが期待されている。
 
ありがたい。が……惜しい!
 
残念ながら2016年は、没後100年ではないのだ(ーー;)。
1917年7月19日に亡くなったので、99年目、つまり百回忌なのである。
没後100年は、今年だった(笑)。
 
まあ、村のパンフの事業名も誤解を招くような書き方しているんだよな。「土倉庄三郎翁没後100年記念事業」と。百回忌99年から100周年にかけての足かけ2年間を一括した事業と位置づけているからなんだが、。
もっとも森林・林業白書も、平成29年に発行するのが28年度版とあるのはややこしいから、あいこか(~_~;)。
 
 
さて、100周年の今年は、昨年のような派手なイベントではなく、地に足をつけて土倉翁について学ぶ催しをコツコツ展開する予定。
 
一方で私は、各媒体に土倉翁にちなんだ記事を書いていくつもりである。土倉翁の名前と事績が、静かに、深く、浸透することを狙っている。そのためにもコツコツ調査をせねばなるまい。

2017/04/04

NHKならナビの土倉庄三郎

NHK奈良局の午後6時半から「ならナビ」というローカルニュースがあるが、そこで今日から始まった「やまと偉人伝 」の第1回目に土倉庄三郎を取り上げた。

 
実は私も若干だけお手伝いしたのだが、放送されたと言っても見られるのは奈良県民だけ……。
 
だから、ここでちょろっと紹介しよう。
 
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基本、人物の事績を紹介するもので、林業の近代化や教育、自由民権運動への支援などが取り上げられた。
 
が、なかにはさすがNHKという掘り起こしもある。
 
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村人が持っていた日記帳に土倉家に関することの記述があったというのだ。これ、私もちゃんと知りたいな。
 
さらに、エヌエッケーの映像アーカイブスから吉野林業に関するものを見つけ出したそうだが、原木の運搬方法が描かれている。昭和36年のものである。
 
024  これは肩に担いで運ぶと言うもの。再現か?
 
が、貴重なのは現役の木馬による運搬が動画として残っていること。
 
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028   029
 
さらに、川上村小学校の生徒による土倉劇が催されたこと。
 
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土倉邸跡地で地蔵様を祀るお祭が開かれていること。
 
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こうした記録もしっかりしておくことが大切だよなあ。
 
私も、今年はコツコツ土倉情報の掘り起こしを進めます。   

2017/03/01

女子大生の土倉発表

大都会の埼玉~東京から帰った翌日は、吉野の川上村へ。

 
実は日本女子大学の学生が4人来訪したのだ。そして、土倉庄三郎について調べたことを(主に)村民に発表するという大舞台。参加しない手はありませぬ(~_~;)。
 
そもそも日本女子大学と庄三郎は、並々ならぬ関係がある。成瀬仁蔵が女子大学を創設しようと思って最初に頼ったのは庄三郎であり、広岡浅子(NHK朝ドラ「あさが来た」主人公モデル)とともに大学側には大恩がある。
 
昨年の百回忌もあって、ゼミ生が土倉家について調べたものを教授会(的なもの)で発表し、好評を博したので川上村でも行なってもらうことになったのである。
 
これを私的には、今年の土倉翁没後100年に際して行なう連続イベントの第1回と位置づけている。
 
1
 
発表は3人で。4年生二人に3年生一人。
 
内容?  いや、清々しい(^o^)。
 
特段新しい事実はなかったが、それでも女子大側に残されていた「土倉氏ヨリ借入金」(1700円分)の証書は興味深い。庄三郎は5000円を寄付したことで知られるが、それ以外にも借金の形で金を拠出していたことを示している。果たして返済されたかどうかは怪しいが……。
 
ほかにも女子大の舎監として務めた土倉千代(庄三郎の弟の孫)の話も登場する。
 
会場からいくつか質問(というか、林業等に関する解説)も出た。私も、実は甘いところを突っ込み、宿題を課す(笑)。
ついでに土倉情報の収集も依頼。このことは、彼女らの指導教官にもお願いしておいた。転んでもタダでは起きない(⌒ー⌒)。 
 
 
終わってからは村長とも面談。なぜか私も同席。
 
2 (左端が村長)
 
 
その後、彼女らは林業体験を行なうことになる。今春卒業する二人は、どちらも小学校の教師になるそうで、森を育てる林業から人づくりも学んでもらおうという趣向である。
 
私は、遠慮しましたけどね(^0^)。

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森と林業と田舎