「桜井茶臼山古墳」展で見た!
昨日、急に思い立って、橿原考古学研究所附属博物館に行ってきた。ここで「桜井茶臼山古墳」の特別展をやっていたからだ。
この桜井茶臼山古墳、一般は無名かもしれないが、超注目株である。そして私も以前より気にしていた。
というのは、その石室には朱、つまり丹砂、硫化水銀による赤に染色されていたからである。これまでも朱は各地の古墳でも発見されているが、ここのは規模が違う。おそらく200キロ以上の朱を使い木棺や石を赤く染めていたのだ。
と、ここまでは以前から知られていたが、今回は、発掘された鏡の破片を調べたところ、銅鏡が103枚分もあったことがわかる。こちらも図抜けた量だ。なぜ破壊されていたのかも謎だが。
全長200メートルを超える前方後円墳であることも合わせて、おそらく大王の陵の可能性が高いのだ。時代的には箸墓古墳のすぐ後ぐらい。もしかして卑弥呼の後を継いでヤマト王権を立ち上げた人物の墓かもしれない。これまで注目されてこなかったのが不思議。
橿原考古学研究所は、桜井茶臼山古墳の被葬者は「他の古墳の追随を許さない隔絶した地位にあった人物」であり、「3世紀末の奈良盆地には邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在したことが明らかになった」
と発表したほど。
もっとも私は、古代史というより朱のような鉱物資源、そして木材の扱い方に興味があった。とくにこの博物館では、レプリカでない本物が見られるのだ。
だけど、最初に見て惹きつけられた発掘物は、これ。
イノシシ型の木片! これに感動した(笑)。いやあ、これまでもシカやイノシシの土偶はあったが、木彫りですよ。動物を木で彫って現していたのですよ。これはいい。(ナスビではないか、という意見もあるようだけど。)
ほかにも土木道具など木でつくられた道具類が多数展示されていた。
古代史となると、石器、土器、そして青銅や鉄などの金属器へと移り変わることはよく説明されるが、それらの製作物の前に常にあり、またいずれも木材なしに石器も土器も金属器もつくれなかった。つまり最初に人間が利用したのは木具であり木器のはずなのだ。当時の人が木をいかに利用したのか、その木をどこから調達したのか……を考えると、森と木の文化の起源、林業の起源が特定できるのではないか。
日本の林業は、邪馬台国より昔から生まれていた……という私の仮説を裏付けるための探訪であった。
その後、常設展も見て回り、最後のミュージアムショップのところに奈良の古代史、とくに橿原考研に関わる新聞等の報道にあったものが壁一面(いや二面以上か)に張られていた。ここ数年、デカい発見がいろいろあったからなあ。。。富雄丸山古墳もあったなあ。。。と眺めていると、見つけてしまった。
私の書いた記事を。私が日本の林業のはじまりを和邇(わに)氏とともに夢想して書いた記事を(⌒ー⌒)。もちろん橿原考研の研究員を取材したからだが…。
ヤマト王権の豪族、和邇氏こそがシステムだった木材生産、つまり伐採から輸送、加工までの技術を確立して産業としての林業を始めた祖ではないか。そこでは川に原木を流して運搬する技術を確立し、資源を尽きないよう持続的経営がなされていたのかもしれない。
今の林業は面白くないから、これからは古代の林業へと目を向けるのだよ。
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